12話 刃
「御影凛花。刃道のマスターよ」
名乗った。腕を組んだまま。柳の下から一歩も動かずに。
きつい声だった。女言葉だが柔らかさがない。命令口調に近い。こっちを見下ろしている——いや、身長は俺とそう変わらない。だが目線の圧が上からだ。
「あんたの名前は?」
「……瀬川陽太」
「知ってるわよ。聞いてるの。名乗る礼儀があるかどうかを確認してるの」
きつい。葛城のときとは違う種類のきつさ。葛城は冷徹で、感情を表に出さなかった。この女は逆だ。感情が剥き出し。だが怒っているわけじゃない。これがこの女の通常運転なのだろう。
橋の戦士が俺の前に半歩出ている。斧に手をかけたまま。だが表情は警戒というより——興味。
隣の影が動いた。
実体化した。さっきまで影だった二刀の男が、姿を現した。
痩せた男だった。四十代か五十代。頬がこけている。顎に無精髭はない。清潔だが、枯れている。肉が落ちて骨と皮だけになったような体。だが姿勢がまっすぐだった。背筋が一本の線のように伸びている。目は——静かだ。何も映していないような、全てを見ているような。
腰に二本の刀。長いのと短いの。大小。
空気が変わっていた。橋の戦士が現れたときは「重い圧」だった。アレクサンドロスは「眩しい圧」。この男の周囲にあるのは——圧ではない。静寂。音が吸い込まれるような、研ぎ澄まされた無音。刃の間合いに立ったような、一歩踏み出せば斬られるような、鋭い空白。
宮本武蔵。
名前が頭に浮かんだ。二刀流。巌流島。日本史の教科書に載っている名前。——嘘だろ。アレクサンドロス大王の次は宮本武蔵か。
橋の戦士と武蔵が向かい合っている。戦斧と二刀。金髪の巨漢と、枯れた剣士。対照的な二人が、互いを見ている。
武蔵が口を開いた。
「……面白い男だ」
低い声だった。穏やかで、静かで、だが芯がある。凛花のきつさとは正反対の声。
橋の戦士が笑った。「そっちもな」
二人の間に何かが通った。言葉にならない何か。マスター同士には分からない回路。戦士と戦士の間にだけある、値踏みと——敬意。
武蔵が目を細めた。「名前は?」
「ない」
「……ほう」
武蔵の反応は葛城ともアレクサンドロスとも違った。嘲笑しない。無関心でもない。興味を引かれている。
「名前がなくとも、剣に迷いがない。——いや、迷いはあるか。あるが、振れている。それは才だ」
「剣士にそう言われるのは悪くないな」
橋の戦士が笑みを深くした。嬉しいのだろう。英霊同士の、戦士同士の、言葉少ない承認。
凛花が割り込んだ。
「英霊同士の褒め合いはいいから。あたしはあんたに用があって来たの」
陽太に向き直る。きつい目。
「あんた、この儀式に何日目?」
「……五日くらいだ」
「五日。——それで堂島の分身体を五体潰して、路地戦で本体と顔合わせして、まだ生きてる。一般人にしては上出来ね」
知っている。俺たちの戦闘のことを。見ていたのか。あるいは、魔術師の間で情報が回っているのか。
「あんたの英霊が強いのか、あんたが運がいいのか——まあ、どっちでもいいわ。要は、あんたはまだ使えるってこと」
使える。嘲笑ではない。評価。ドライな、冷静な評価。
*
鴨川の河原に移動した。五条大橋の下。訓練で使った場所の近く。夕暮れの光が橋の影を河原に落としている。
凛花が石の上に座った。和装に革ジャケットで河原に座る姿は、妙に様になっていた。足を組んでいる。
「葛城冬真の情報が欲しいの。あんた、あの男と会ったでしょ」
単刀直入。この女は回りくどいことをしない。
「あたしは葛城家の結界の配置を知ってる。当主の行動パターンも。交換しない?」
情報の交換。同盟ではない。
「なんで俺に? 他にもマスターはいるだろ」
凛花が笑った。初めて見る笑みだった。だが温かさがない。薄くて、鋭くて、切れ味のある笑み。
「他の陣営は信用できないのよ。堂島は暗殺者使い。クリスって異端審問官は狂信者。冥道の少女は正体不明で何を考えてるか分からない。幻道に至っては存在すら確認できてない」
他の陣営の名前が出た。七陣営。俺が知っているのは葛城と堂島だけだ。クリス。異端審問官。冥道の少女。幻道。——まだ見ぬ敵が、この街のどこかにいる。
「あんたは一般人でしょ。魔術師じゃない。裏がない。だから話しやすいの」
裏がない。一般人だから。葛城には「巻き込まれ」と蔑まれた。凛花には「裏がない」と——信用の理由にされている。同じ「一般人」が、相手によって弱みにも強みにもなる。
男を見た。男は口を挟まない。腕を組んで、少し離れた場所に立っている。陽太の判断に任せている。マスターの決断。
「……分かった。ただし、あくまで情報交換だけだ。同盟じゃない」
凛花が頷いた。「もちろん。あたしはあんたの味方じゃないし、あんたもあたしの味方じゃない。お互い、利用し合うだけよ」
ドライだった。だがこの距離感が——嫌じゃなかった。堂島の悲しみとも、葛城の冷徹さとも違う。割り切った関係。嘘がない分、楽だった。
*
情報の交換が始まった。
凛花が先に出した。葛城家の結界の配置。京都市内に張り巡らされた結界網。東山から嵐山まで、要所に設置された「境界石」と呼ばれるもの。主要な交差点、神社の境内、橋の欄干——見た目は普通の石だが、魔術的な力が込められている。
「境界石は全部で十三個。それが葛城の目であり耳であり、盾でもある。石の近くで戦えば、葛城にはこっちの動きが筒抜けになるわ。逆に言えば、石から離れた場所では葛城の探知が鈍る」
嵐山に拠点を置いたのは正解だったということだ。鴨川沿いは境界石が多い。嵐山は少ない。
「葛城家は代々、境界の儀の管理者だったのよ。結界は儀式を制御するためのもの。——でも今の当主は、それを自分の戦力として使ってる」
管理者が参加者を兼ねている。審判が選手として出場しているようなものだ。フェアじゃない。
俺はお返しに堂島との接触を話した。あの路地でのやりとり。堂島の言葉。「娘を取り戻すためや」。「俺も、そうやった」。
凛花が黙って聞いていた。目がきついまま動かない。
「……あの男もそうなの」
声が小さくなった。きつさが消えていた。
沈黙。鴨川の水音が流れている。橋の上を車が通過する音が、遠くに聞こえる。
「あたしの弟は——葛城家に殺された」
一言。それだけ。
詳細は語らなかった。先代の儀式で何が起きたのか。弟が何歳だったのか。どういう状況で巻き込まれたのか。凛花は言わなかった。言う気がないのか、言えないのか。
だが目の奥に、見覚えのある光があった。あの路地で見た堂島の目と、同じ種類の光。失ったものへの怒り。取り戻せないものへの——いや、凛花の場合は少し違う。堂島は「取り戻す」。凛花は「復讐する」。方向が違う。だが出発点は同じだ。大切なものを失ったこと。
凛花はすぐに表情を戻した。きつい目。刃のような笑み。
「同情はいらないわよ。あたしは復讐するだけ。葛城冬真を倒す。それだけ」
俺は何も言えなかった。また同じだ。堂島も。凛花も。みんな何かを失っている。この儀式は——失ったものを抱えた人間が殺し合う場所なのか。
俺だけが、まだ何も失っていない。日常を失った。母親に「ごめん」としか言えない日々を失った。だがそれは、娘や弟を失ったのとは比べものにならない。俺の「失ったもの」は、まだ壊れていない。母親は生きている。家はある。帰ろうと思えば——帰れはしないが、存在している。堂島の娘は消えた。凛花の弟は死んだ。取り返しがつかない。
だから俺は、あの二人と同じ覚悟では戦えない。あの二人の目の奥にある炎は、俺には持てない。持てないまま戦っている。それは弱さなのか、それとも——。
武蔵が黙って立っていた。凛花の話を聞いていたのか、聞いていなかったのか。表情は変わらなかった。静かな目。あの剣士は、凛花の悲しみを知っているのだろう。その上で、黙って隣にいることを選んでいる。
橋の戦士に似ていた。あの男も、俺が泣いても怒鳴っても、黙って隣にいた。英霊と人間の間にある関係は、どの陣営でも似ているのかもしれない。言葉にならないものを共有して、黙って隣に立つ。
*
凛花が立ち上がった。河原の石の砂を和装の裾から払っている。
「もう一つ、忠告しとくわ」
振り返った。目がきつい。だがそのきつさの中に——気遣い、と呼んでいいのか分からない何かがある。
「堂島は諦めないわよ。あの男は——次はもっと汚い手を使う」
「汚い手って」
「マスター狙い。あんたを直接殺すか——あんたの周りの人間を使うか」
凛花の目が俺を射抜いた。
「堂島は元警察官よ。知ってた? 人間の弱点を突くのが上手いの。情報を集める手段も持ってる。あんたの——家族とか、ね」
家族。
母親。
「ごめん」としか返せなかった母親。充電の切れたスマホの向こうにいる母親。捜索届を——いや、まだだ。まだ出していないはずだ。でも時間の問題だ。
手の甲の紋が冷たく脈打った。
堂島は元警察官。人の情報を集める手段を持っている。俺の名前。学校。住所。——母親の存在。全部知られている可能性がある。いや、凛花が「知ってた?」と聞いたということは、魔術師の間で堂島の経歴は知られているのだ。元警察官。捜査のプロ。人間の弱点を突くプロ。
母親は関係ない。儀式とは何の関係もない。ただ俺の母親だというだけで——標的になりうる。
凛花が背を向けた。武蔵の影が並ぶ。夕闇の中を、二人の姿が鴨川沿いに遠ざかっていく。
去り際に、凛花が一度だけ振り返った。
「あんた——弱いけど、目は死んでないわね。悪くないわよ」
それだけ言って、消えた。
家族。堂島が俺の母親を使う可能性に、初めて思い至った。




