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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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14話 予兆

 三度目の訓練。


 五条大橋の上。朝。俺が時計の方向を叫び、男が動く。繰り返し。もう三日目になる。喉は枯れ慣れた。足の疲れも、筋肉痛を通り越して鈍い重さに変わっている。


 だが反応は速くなっていた。「3時!」——男が右を向く。振り抜いた直後、「9時!」——男が体を回す。タイムラグが縮んでいる。男が「半拍遅い」と言わなくなってから二日。今日は何も言わない。それは合格を意味しているのか、それとも言うだけ無駄だと諦めたのか。たぶん前者だと思いたい。


 起きて、訓練して、飯を調達して、拠点に戻る。殺し合いの中の「日常」。異常な日常。だがリズムができている。人間はどんな状況でもリズムを作る生き物なのかもしれない。


 財布の残りは九十円。明日にはゼロだ。おにぎり一つ買えない。飯の問題が物理的に限界に近づいている。殺し合いの前に餓死するかもしれない。笑えない冗談だが、腹は本気で減っている。


 訓練を終えて、五条大橋の河原に降りた。石に座って水道の水を飲む。蛇口がある公園が橋の近くにある。水だけはタダだ。冷たい水が空っぽの胃に染みる。


 「——来たわね」


 声がした。聞き覚えのある、きつい声。


 凛花が河原の上流側から歩いてきた。和装に革ジャケット。腕を組んで。武蔵の影が半歩後ろについている。



      *



 「葛城が動き始めたわよ」


 凛花が石の上に座って、開口一番そう言った。


 背筋が冷えた。葛城。あの壁。アレクサンドロス大王。「塵」と呼ばれた日。あの圧。あの金色。


 「境界石のネットワークの動きが変わってるの。探知の範囲が南に偏ってる。——堂島の拠点がある方角よ」


 葛城が堂島を狙っている。


 「なんで堂島を」


 「さあ。葛城の考えは読めないわ。でも堂島が暗殺者を使って街中を荒らしてるのは事実だし、元管理者の葛城としては放っておけないんでしょ。——あるいは、もっと別の計算があるのかもしれないけど」


 凛花の目が細くなった。「別の計算」。凛花自身がその計算の一部かもしれないことに、気づいているのか、いないのか。


 「ただね、葛城が堂島を潰しにかかるなら、堂島は追い詰められる。追い詰められた堂島は——もっと危険になるわよ。時間がなくなるから。焦る。焦った人間は、手段を選ばなくなる」


 手段を選ばない堂島。あの暗い目の男が、焦って手段を選ばなくなったら。


 「三つ巴になるかもしれないわね。葛城と堂島がぶつかれば——あんたにもチャンスが来る。二人が消耗し合ってる間に漁夫の利を狙えるかもしれない。でも巻き込まれたら死ぬわよ」


 チャンス。漁夫の利。——そんなことを考える余裕は、俺にはなかった。


 「もう一つ」


 凛花の目が俺を射抜いた。


 「堂島は諦めてない。あんたのこと。前にも言ったけど——次はもっと確実な方法を使う」


 「確実な方法って」


 「あんたを人質に取る」


 声が冷たかった。事実を述べている声。


 「英霊と引き離して、あんたを盾にすれば、橋道の英霊は動けなくなる。綱で命が繋がってるんでしょ? あんたが死ねば英霊も消える。あんたを人質にすれば、あの英霊は手が出せない。——逆に言えば、あんたさえ押さえれば、あの英霊をどうとでもできる」


 人質。俺が盾になる。あの男を無力化するために——俺が使われる。五体の分身体を橋の上で斬り伏せた男を、俺一人を押さえるだけで無力化できる。綱は繋がりであり、同時に弱点だ。


 「どうすればいい」


 「一人にならないこと。英霊から離れないこと」


 凛花が立ち上がった。


 「あと——家族には近づかないこと。前にも言ったわね。堂島は元警察官。情報を集めるのが仕事だった男よ。あんたの家族を知ってるはず。利用される前に距離を取りなさい」


 家族。母親。充電の切れたスマホの向こうにいる母親。


 凛花が背を向けかける。足を止めた。振り返らずに言った。


 「あたしは味方じゃないわよ。忠告してるのは——あんたが死ぬと、堂島を潰す駒が一つ減るから。それだけ」


 ドライだった。だがそのドライさに、もう苛立たなかった。嘘がない。凛花は最初から、利用し合う関係だと言った。その通りに振る舞っている。


 凛花と武蔵が河原を去っていく。武蔵が去り際に橋の戦士を一瞥した。橋の戦士が軽く手を上げた。英霊同士の、短い挨拶のようなもの。



      *



 河原に座ったまま、しばらく動けなかった。


 人質。俺が人質にされる。あの男を無力化するために。


 考えていた。堂島のこと。凛花のこと。葛城のこと。全員が何かを失っている。堂島は娘。凛花は弟。葛城は家の名誉。そしてその全てが——先代の葛城が儀式の管理に失敗したことから始まっている。凛花がそう言っていた。前回の儀式で渡し場の力が漏れ出し、人が消えた。


 俺は何を失ったんだろう。日常。母親と暮らす毎日。だがそれは、まだ完全には壊れていない。壊れかけている。ヒビが入っている。でも——まだ。


 男が隣に座っていた。実体化して。橋の近くだから。二人で鴨川を見ている。水面が夕日で金色に光っている。


 「お前は——何を失ったんだ」


 聞いてみた。この男に。


 男が川を見ている。風がない。水面が鏡みたいに光を反射している。


 「さあな。覚えてねえ」


 いつもの軽い声。


 「名前も覚えてねえ。仲間の顔も覚えてねえ。何のために橋に立ったかも——たぶん覚えてたはずなんだが、今はもう曖昧だ」


 間があった。


 「失ったことすら忘れてる。——それが一番の失い方かもしれんな」


 笑っていた。いつもの薄い笑み。寂しくはなかった。諦めでもなかった。ただ、事実を言っていた。自分がどれだけのものを失ったか分からないまま、それでも橋の上に立ち続けている男の、静かな事実。


 この男は全てを失っている。名前も、記憶も、生きていた時間も。それでも笑っている。それでも俺の後ろに立ってくれている。


 俺の「失ったもの」は、まだ手の届く場所にある。母親は生きている。家はある。日常は壊れかけているが、消えてはいない。この男に比べたら——俺はまだ、何も失っていないに等しい。


 だからこそ、守れるものがある。まだ失っていないから。この街を。あの小学生たちを。母親を。——守れるかどうかは分からない。でも、まだ守るものが残っている。それは弱さじゃない。


 手の甲の紋が微かに温かかった。悲しみではない。怒りでもない。もっと複雑な——名前のつかない感情が、綱を通じて揺れていた。



      *



 夜。拠点に戻った。嵐山の社務所。


 男が窓の外を見ていた。目が変わっている。笑みが薄くなっている。警戒の目。


 「近いな」


 「堂島か」


 「ああ。分身体が京都中に散ってる。前より数が多い」


 男が窓から目を離さない。


 「嵐山にも来てる。この辺りまで。——拠点を特定されるのは時間の問題だ」


 前の拠点は壊れた。今の拠点ももう長くは持たない。逃げ場がどんどん狭くなっていく。


 「今度は本気だ。あいつ——堂島。分身体じゃなく、本体を使ってくるだろう」


 本体。ハサン・イ・サッバーフの本体。あの「真っ黒な穴」。存在感を完全に消す暗殺者。分身体五体とは桁が違う気配。あれが本気で俺を狙いに来る。


 凛花が言っていた。「人質に取る」。堂島が俺を英霊から引き離す方法は——ハサン本体の完全な気配消去で奇襲し、俺だけを攫うのが最も確実だ。見えない。感じない。方向を叫べない。あの訓練は、敵が見えることが前提だった。見えない敵には通用しない。


 手の甲の紋が冷たく脈打った。恐怖の脈動。


 「……備えるしかないな」


 男が言った。「ああ」と答えた。だがどう備えればいい。見えない敵に。感じ取れない敵に。


 男が窓から目を離さない。笑みが消えていた。あの夜——廃屋に殺意が満ちたとき以来、二度目だ。この男の笑みが消えるときは、本当の危険が近い。


 眠れない夜が、また来る。



      *



 翌朝。


 スマホの充電がわずかに残っていた。画面を点ける。残り三パーセント。


 通知が溜まっていた。母親からのメッセージ。何通も。


 開かないつもりだった。でも凛花の声が頭にある。「家族に近づくな」。堂島が母親を利用する可能性。母親に何かあったら。——確認しなければ。


 メッセージを開いた。


 「陽太どこにいるの」


 「お願いだから連絡して」


 「友達にも先生にも聞いたけど誰も知らないって言ってる」


 「お父さんにも連絡した。お父さんも知らないって」


 父親。離婚して以来、ほとんど連絡を取っていない父親に、母親が連絡した。それほど追い詰められている。息子が一週間近く行方不明。母親がどれだけ——。


 そして最新のメッセージ。今朝のもの。


 「警察に相談した。捜索届を出した。陽太、お願い、どこにいるの」


 捜索届。


 警察が俺を探し始める。俺の名前と顔と住所が、警察のシステムに載る。街中の巡回で、俺の写真が共有される。コンビニの防犯カメラにも、商店街の監視カメラにも。


 そして堂島は元警察官だ。警察のシステムを知っている。捜索届が出れば、その情報に堂島がアクセスできる可能性がある。凛花が言っていた。「情報を集めるのが仕事だった男」。


 母親が良かれと思ってやったことが、堂島に俺の居場所を教える結果になりかねない。


 堂島だけじゃない。日常の側からも追い詰められている。儀式の敵と、普通の世界の両方が、俺を探している。逃げ場がどこにもなくなっていく。儀式から逃げられない。日常にも戻れない。二つの世界に挟まれて、居場所が消えていく。


 返事を打とうとした。指が止まった。何と書けばいい。「大丈夫」——嘘だ。「心配しないで」——無理だ。「ごめん」——また同じ三文字か。


 何も打てなかった。


 スマホの画面が暗くなった。充電が尽きた。母親の声が、また遠ざかっていく。

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