聖カレリア学園襲撃事件:時計塔の恋人
12時40分、時計塔の下。最高学年に在籍するトニとアニータの周囲には、凍てつくような沈黙が流れていた。
幼馴染であり、恋人。そんな二人の関係に終止符を打つべく、アニータは別れ話を切り出していたのである。原因はトニの度重なる不実─────通算四度目の浮気。
当時のトニは、「他者の影をちらつかせて彼女の気を引く」という、愚かで幼稚な試し行為に溺れていた。しかし、三度まで耐えたアニータの忍耐は限界を超えた。彼女の瞳に宿った決定的な拒絶を見て、トニは初めて、愛する者を永遠に失うという恐怖に直面し、なりふり構わず全力の謝罪を開始したのだ。
12時43分。悲劇、あるいは喜劇が幕を開ける。
突如として大地が激しく脈動し、視界の全てが不気味な「赤」に染まった。
空を裂く轟音、大気を震わせる魔力の奔流。だが、トニはそれらを「世界の異常」とは微塵も思わなかった。
トニは生まれつき「魔力認知過敏症」という特異な障害を抱えている。
それは周囲の魔力を五感のイメージとして過剰に受け取ってしまう体質であり、彼にとっての世界は常に誰かの感情や魔力の色彩で溢れていた。
「ああ、アニータ……! すまない、本当にすまない! 君がこれほどまでに怒っているなんて……!」
トニは、大地を揺らす振動をアニータの怒りの震えだと信じ込み、天を染める赤色を彼女の烈火のごとき憤怒として受け止めていた。
彼は自分たちが危機的状況にあることに気づかず、ただ「アニータの怒り」にのみ慄き、謝罪の言葉を紡ぎ続けたのである。
だが、彼女は一歩も動かなかった。表情一つ変えず、ただ冷ややかな「怒れる恋人」の仮面を被り続けた。
彼女は知っているのだ。トニの過敏症が、この大規模な魔力災害をどう受け止めるかを。
もし今、アニータが「大変! 逃げるわよ!」と動揺を見せれば、トニはパニックを起こし、この莫大な魔力情報の濁流に呑まれてショック死してしまうかもしれない。
だから、彼女は無視した。
揺れる大地も、視界を覆う赤も、全て「私の怒り」ということにしておく必要があった。彼が怯える対象を「訳のわからない恐怖」ではなく、「アニータという一個人の感情」に留めておかなければ、彼の精神は崩壊する。
「アニータ! 許してくれ! 地面があんなに揺れている! 空があんなに赤い! 全部、全部俺のせいなんだ……!」
「……そうね。全部、あんたが悪いわね」
学園が崩壊の危機に瀕する中、二人の間だけには、歪で、それでいてあまりにも深い愛情に基づいた「別れ話」が続いていた。
「トニ、あんたって私の事ほんとはそんなに好きじゃなかったんでしょ。辛い時一緒にいてくれた、同い年の女の子だからちょうど良かっただけなんだわ」
アニータの言葉は、氷の刃となってトニの胸を刺す。アニータの悲しみを示すように、時計塔が視界の中でぐにゃりと曲がり重力に従い捻れ落ちる。
これは正しく“症状”であった。
自前の疾患由来の幻覚と、現実の異常性が混じり合い、トニの中で奇妙な均衡が取れている。
「違う! 俺は本当にアニータが好きなんだ! 今まで、本当にごめん。君の気を引きたくて、バカなことをした。反省してるんだ! 二度とやらない、誓うよ!」
時計塔は高台にあり、そこからは学園の大部分が視界に入る。
トニの過敏な視覚の端で、裏庭に突如として巨大な紅蓮のドラゴンが出現し、天を舐めるような猛炎が吹き上がるのが見えた。
続いて、激しい爆音と共に無数の炎の矢を撒き散らしながら、狂ったように駆け回る巨大な車輪が木々の間を蹂んにしていく。
普通の人間が見れば、それは侵略者と防衛側が入り乱れる地獄絵図そのものだ。だが、魔力認知過敏症のトニにとって、その光景は「アニータの心象風景」として翻訳されていた。
(ああ、あれは全て……アニータの痛み、悲しみ、苦しみだ……)
吹き上がる炎は彼女の烈火のごとき憤怒。暴走する車輪は、彼女がこれまで抑え込んできた、ぐちゃぐちゃに掻き乱された心の叫び。これほどまでに、自分は愛する者を追い詰めていたのか。
トニはその場に跪き、震える手でアニータの靴を掴まんばかりに許しを乞うた。
脳裏をよぎるのは、白く塗り潰された幼少期だ。
ベッドと天井しかない、音のない檻のような世界。
両親の向ける慈愛の魔力でさえ、過敏な彼の心身には耐え難い重圧となり、息をすることさえ苦しかった日々。
そんな彼にとって、アニータの魔力だけは違った。春の風のように甘く、柔らかな木漏れ日のように彼を包み込んだ。
母の友人の子。二人の出会いはありふれていたが、運命的なものであった。
アニータの存在は、彼に「愛の女神カレリア」の実在を信じさせた。女神が自分のような者に与えてくれた、唯一にして最愛の救い。庭で摘んできた淡い桃色の花を差し出して「おみまい!」と微笑んでくれた時の、優しい慈愛の光。常に歪んだ情報を与えてくる狂った五感が、アニータの前でだけ、ただただ優しく美しいものになった。
広く狭い世界で、アニータだけがトニに痛みを与えず愛だけを注いでくれた存在だったのに。
成長と共に症状が和らぎ、普通の人間と同じように外を歩けるようになったことで、彼はあの日の切実な感謝を忘れてしまっていたのだ。
愛されているという甘え、失うはずがないという傲慢。それこそが、何よりも重い己の罪であった。
「アニータ、お願いだ。その怒りの炎で俺を焼き尽くしても構わない。でも、そばにいることだけは許してくれ……!」
一方のアニータは、ドラゴンの咆哮が轟くたびに怯えるトニの背中を、複雑な表情で見つめていた。
アニータはため息をつき、トニの頭を乱暴に、けれど慈しむように抱き寄せる。学園が戦火に包まれているというのに、彼女の胸の中だけは、あの日と変わらない優しい春の風が吹いていた。
「トトのバカ。あたし、本当に悲しかったんだから……」
「ニニ、ごめんね……。僕のことを嫌いにならないで……。二度と君を悲しませないって誓うよ……」
いつの間にか幼い頃の愛称で呼び合い、かつての……出会ったばかりの口調に戻った二人は、崩壊の予兆を見せる世界の中で固く抱き合う。
混乱が極まる中、アニータは「あたしの怒りが収まるまでここにいなさい」と告げるかのように、トニを時計塔の内部へとさりげなく誘導した。
彼女はトニを中へ入れると、迷いのない動作で重厚な鉄の閂を下ろし、扉を厳重に封鎖した。それは外からの侵入を拒むための防壁であると同時に、トニが外の惨状を目にしてその過剰な魔力情報に精神を焼き切られないようにするための、文字通りの隔離壁であった。
トニは外界の地獄絵図をすべてアニータの情動だと信じ込み、冷たい石造りの壁と、彼女が閉ざした強固な閂に守られながら、事態が解決するまでの数時間を過ごした。
学園に何が起きたのか、侵略者が誰だったのか、彼はついぞ気づかないままだったのである。
現在の二人は、王国内でも指折りの仲睦まじい夫婦として知られている。
だが、あの日、学園が赤く染まり大地が震えた瞬間、彼らが「別の戦場」にいたことは、当事者である二人以外、誰も知らなかった真実である。
「……いまだに、あの日起きたことが現実だったとは信じられないんだ」
トニ氏は、今もなお困惑の色を隠せない様子で、当時の空の赤さを思い出すように遠くを見つめて語る。
「あの時のアニータの怒りといったらなかった。空は燃え、地面は割れ、得体の知れない轟音が響き渡る……。自分の身勝手な振る舞いが、これほどまでに一人の女性の心を壊してしまったのかと、魂が凍りつく思いだったよ」
そんな夫の横で、アニータ夫人は当時の「何事もなかったかのような顔」ではなく、いたずらっぽく、それでいて慈愛に満ちた笑みを浮かべてこう返した。
「あら、トト。あれは紛れもない現実よ。私は本当にあれくらい怒っていたわ。あなたのことを、このまま捨ててしまおうかと思うくらいにね」
トニ氏はその言葉を聞くや否や、医学の進化とともに寛解した魔力認知過敏症が再発したかのように、大慌てで妻の手を握りしめた。
「わ、分かってる! 怒らないでくれ、ニニ! 自分がどれだけ馬鹿だったか、あの日から一秒たりとも忘れたことはないんだ。……そうだな、このインタビューを読んでいる若い方々に伝えたい教訓がある。『愛を試すような真似はするな』。さもないと、一生、妻の尻に敷かれることになるぞ!」
「あら、よかったわねえ。一生敷いてもらえるお尻が、こうしてすぐ隣にあって」
アニータ夫人の軽やかな笑い声に、トニ氏は観念したように、しかしこの上なく幸せそうに微笑んだ。
「……ああ、本当によかったよ」
王国が誇る学園が悪しき者に囚われたあの日。
トニ氏を守り抜いたのは、騎士の剣でも魔導師の杖でもなく、ひとりの少女が貫き通した「完璧なまでの怒りの演技」であった。
そして今、かつての脆弱な少年は、自分を欺いてまで生かしてくれた女神のような妻の傍らで、静かな幸福を噛み締めている。
学園の危機は去り、歴史は彼らを「幸運な生存者」と記録した。
だが、その生存の裏側には、崩壊の音を「恋人の叱咤」へと塗り替えた、たった一人の女性の、あまりにも深く、あまりにも強靭な愛の魔法がかかっていたのである。




