聖カレリア学園襲撃事件:闇を蹂躙せし至高の剛拳 その名はリョーオー
12時42分54秒。鍛錬場に張り詰めた静寂を、針の先のような殺気が貫いた。
武術師範リョーオーは、その一瞬、自らの呼吸を止めた。彼には、魔法を操る者たちが誇る「魔力」など微塵もない。彼はただ、純粋に拳と魂を研ぎ澄ませることのみで、この学園の師範へと登り詰めた男である。
その経歴は、伝説を地で行く修羅の道であった。幼少期は父の背を追い、峻厳な野山を駆け、素手で虎や熊を屠る日々。
独り立ちしてからは、まだ見ぬ強者を求めて幾多もの国を彷徨い、戦いの荒野を歩み続けた。
そんな彼が、我が国の大王父アレッサンドロ8世と邂逅したのは、半世紀前のことだ。身分を隠し、一介の武芸者として諸国を巡っていた若き王。両者は言葉を交わす必要すらなく、一目見ただけで理解した。目の前に立つ者こそが、己が生涯で出会うべき「真の強者」であることを。
三日三晩に及ぶ死闘は、文字通り大地を揺るがし、天を焦がした。拳と剣が火花を散らすたびに地表は砕け、最終的には地形を歪め、巨大な地層のずれを生じさせたほどだ。その亀裂から、清冽な地下水が噴き出したのは、戦いの終わりを告げる天の涙であったろう。
現在、その場所は『出会いの泉』と呼ばれ、王国随一の避暑地として人々に親しまれている。だが、穏やかに水を湛えるその泉の底に、かつて二人の勇者が繰り広げた、天地を分かつほどの戦いの記憶が眠っていることを忘れる者はいない。
その伝説の体現者であるリョーオーが、今、鍛錬場を襲う不穏な気配に、静かに拳を握り締めた。
瞬間─────リョーオーの背後の空間が、ガラスを叩き割ったかのように無残に裂けた!
だが、その亀裂から這い出した死神の鎌が、彼の首筋を撫でることはなかった。
リョーオーは、既にそれを見切っていたのだ。魔力による探知ではない。幾千の死線を越え、骨の髄まで染み付いた戦士の「予感」が、音もなく迫る黒き影を捉えていた。
岩盤のように屈強なその身体が独楽のように回転する。
「ぬんッ!」
老いてなお鋼を引き絞ったが如き屈強な筋肉が、静から動へと爆発的に転換される。吐息より先に放たれたリョーオーの手刀が、空を裂き、迫り来る黒き影を真っ向から叩っ斬った。
その一撃は物理的な破壊を超え、音速の壁を突破した衝撃波を伴って、亀裂の向こう側に潜んでいた襲撃者の本体へとまで到達する。
好機!
常人ならば逃げ出すべき異形の亀裂。しかし、戦いの化身であるこの男は違った。丸太のごとき剛腕を迷わずその裂け目へと突っ込み、内側から空間をこじ開ける!
地面に根を張る千年大樹の如き二本の足が、踏みしめる。
訓練場のタイルが、その下の硬い地層が、逃げ場を失った衝撃によって粉々に砕け、抉り取られていく。
吸い込もうとする引力と、それを力ずくで繋ぎ止める人間離れした膂力。二つの強大な力が拮抗し、空間そのものが軋み、歪む。
リョーオーの立つ場所を中心として、周囲の地面は地鳴りとともに同心円状に陥没していった。
魔力に頼らぬ者が、ただ純粋な「武」の練度と生存本能のみをもって、魔法という超常を捩じ伏せようとしていた。
天地を震わせ、異形の亀裂さえも腕一本で繋ぎ止めていた狂気じみた膂力。だが、そのあまりの圧に恐怖した襲撃者が、文字通り「腰を抜かして」術式を強制解除した瞬間、事態は一変した。
空間を支配していた強大な引力が唐突に消失し、リョーオーの剛腕が掴んでいた手応えが虚無へと還る。全力で大地を踏みしめ、重力と拮抗していた巨軀は、その反動で行き場を失った。
「ぬ、おぉっ!?」
不動を誇った足並みが乱れる。
リョーオーは凄まじい勢いで踏鞴を踏み、あわや無様に転倒するかと思われた。
しかし、そこは幾多の戦場を潜り抜けた修羅の業だ。地面に激突する寸前、彼は丸太のような片腕を支点に、鋼のバネを仕込んだかのような身のこなしで空中で身を回転させた。
ドォォォォンッ!!!!!!
激しい土煙を上げながら、彼は片膝を突く形で辛うじて着地を果たす。しかし、その顔に浮かんでいるのは安堵ではない。
「……チッ」
鍛錬場に、腹の底から響くような重い舌打ちが落ちた。
リョーオーは立ち上がり、バキバキと首の骨を鳴らしながら、つい先程まで次元の裂け目があった虚空を睨みつける。
「逃げよったか……。腰抜けめが」
そう、侵略者たちは「身の程」というものを痛感したのだ。
魔力を持たぬはずの老人が、魔法そのものを握り潰し、異界の向こう側から自分たちを引き摺り出そうとする狂気。その圧倒的な勇猛さと、理屈の通じない怪物ぶりに、彼らは戦う前から魂をへし折られた。
死の影が網膜に焼き付いた襲撃者たちは、震える指先で術を解き、蜘蛛の子を散らすように敗走した。リョーオーと相対した彼らにとって、この学園は攻略対象などではない。二度と近づいてはならない「猛獣の檻」へと変貌したのだ。
リョーオーは土埃を払い、自らが抉り取った地面の惨状を見下ろして、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「アレッサンドロとの死闘に比べれば、欠伸が出るほど脆いものよ。……さて、残りの掃除が必要か」
師範の背中には、未だ収まりきらぬ闘志が、陽炎のように揺らめいていた。
……以上が、同鍛錬場の隅で恐怖に震えながら事の始終を目撃していた、当時の五年生オッタビオ氏による証言を元にした「極めて忠実な再現」である。
正直に白状せねばなるまい。療養から復帰したばかりのジジ・デ・メモラ記者は、当初この場面をもう少し「穏当な」表現で記述しようとした。
しかし、原稿を確認したオッタビオ氏から「魂の震えが足りない」「リョーオー先生の拳圧はこんな微風ではない」「手刀の速度が音速止まりなわけがあるか」といった熾烈な指摘を受け、実に十二回に及ぶリテイクを繰り返すこととなった。
その結果、記者は再び重度の魔力酔いに似た心身の不調をきたし、もはやこれ以上の加筆修正は不可能と判断。止む無く、この熱き魂の結晶である文章をそのまま誌面に差し込むこととした次第である。
さて、読者の皆様にご紹介しておこう。今回、筆を執りつつ貴重な証言を寄せてくださったオッタビオ・バーナー氏は、自他共に認める武神リョーオーの熱烈な信奉者である。
氏は、自身の代表作である児童書『怪傑! リョーオーくん』、壮大な歴史叙事詩『武神漫遊リョーオー伝』、そして男たちの魂を震わせた『リョーオー~その猛き拳~』など、師範をモデルとした数多のベストセラーを世に送り出してきた人物だ。
自身の執筆活動で過密を極めるスケジュールの中、氏は「師範の真実を後世に残すためならば」と、寝る間を惜しんで今回のインタビューに応じてくださった。
リョーオー伝説を語る上で、これほど情熱に溢れ、かつ“信頼できる語り手”は王国広しといえども他に存在しないであろう。
氏の瞳には、あの日、魔法という超常を肉体一つで捩じ伏せた師範の雄姿が、今なお鮮烈な黄金の輝きを伴って焼き付いているのだ。
肝心のリョーオー師範本人はといえば、学園の混乱が収束した直後、ふらりと姿を消している。
現在は、あの「昔馴染み」の友人……その高貴な身分ゆえに御名は伏せさせていただくが、かつて大地を穿ち泉を湧かせた好敵手と共に、風の向くまま諸国を巡る漫遊の旅に出ているという。
もはや伝説は学園の壁を越え、王国の外へと広がり続けている。
武神リョーオーが次なる旅路でどのような奇跡を起こし、いかなる強敵を屠るのか。その詳細を、骨の髄まで、魂の震えと共に知りたいと願う熱狂的な読者の皆様には、現在好評連載中のオッタビオ・バーナー著『日刊! リョーオー記』の購読を、編集部を挙げて強くおすすめする。
そこには、理屈を超えた「力」の真実と、一人の武人が歩む終わりのない道が、文字が焼け焦げるほどの熱量で綴られているはずだ。
「武神の行く道に、言葉はいらぬ。ただ砕け散る地面と、立ち上る土煙がその足跡となるのだ」
(オッタビオ・バーナー著『武神漫遊リョーオー伝』序文より抜粋)




