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第14話 断念(4)

 午後の時間。ナシルとジュダは次の講義を受けるために、講義室に足を向けていた。


「ナシル、あの人、フォルスじゃねぇ?」


 ジュダは講義室の前に立っている金髪の少女を指さした。どう見てもフォルスで間違いなかった。


「ちょうどいいね。今聞いてみろ。え、ナシル?」


 ジュダは周りを見回した。さっきまで隣で一緒に歩いていたナシルがいつの間にか消えていた。


「こいつどこ行ったんだ。ちょうどフォルスもあっちにいていい機会だったのに」


 ジュダはきょとんとしながら講義室の中に入った。


「はあはあ、見られてないよな」


 壁の後ろに隠れたナシルは胸を押さえて息切れをした。ジュダの言葉を聞き、フォルスの姿を目にした瞬間、思わずここへ逃げ込んでしまったのだ。


「聞くって決めはしたけど」


 ジュダの忠告を受けてフォルスに聞くことを決めはしたものの、いざ彼女の前にすると聞くのが怖くて緊張していた。だから、フォルスを見て咄嗟に身を隠してしまったのだ。

 ナシルはひょこっと顔を出してフォルスがまだそこに立っているか確認した。


「まだいる」


 目が合うかもしれないと思ってナシルはすぐに顔を引っ込めた。

 今は無理だ。聞けない。

 フォルスにどう声をかけて近寄ればいいのかもわからないし、どんなふうに聞けばいいのか全くわからなかった。そして何よりフォルスに話しかける場面を頭の中でシミュレーションするだけで緊張して心臓が張り裂けそうなくらいに激しく脈打ち、実際に聞きに行くなんて本当に無理だった。


「聞くのは今度にして、今はフォルス様が戻るまでここで待とう」


 ナシルは廊下の石の床にしゃがみ込んだ。硬くて冷たい感触が尻てい骨に当たる。

 講義には少し遅刻してしまうけれど、今フォルスに会うことより遅刻した方が遥かにマシだとナシルは判断した。

 それから数分が経っただろうか。もうこの辺で諦めて帰っただろう、と思ったナシルは、もう一度ひょこっと顔を出してフォルスがまだいるかどうか確認した。


「いない」


 さっきまで講義室の扉の隣に立っていたフォルスの姿が見えなかった。ナシルは安堵のため息を吐きながら立ち上がった。

 もうこんな時間か。早く講義室に入らないと。

 講義室へ足を向けようと思った瞬間


「あら、いたいた」


 澄んだ声が一つナシルの耳に突き刺さった。最も聞きたかった声であると同時に、今は最も聞こえてほしくなかった声だった。


「ナシル神官様おはようございます」


 いつからそこにいたのかフォルスがナシルの前に立っていた。驚きのあまりに、ナシルはそのまま体も思考も固まってしまった。


「わたしずっとナシル神官様を探してました。この時間にはあの講義室で講義を受けるんだと聞いてずっと待ってましたけど、いくら待っても来られなくて、情報が間違ってるのかと思いましたけど、ここにいたんですね」


 フォルスは興奮したように早口でペラペラ話していたが、ナシルの耳には全く入ってこなかった。


「ナシル神官様に頼みたいことがあります。お時間いただけますか」


 時間。その単語にナシルは頭が閃いた。


「すみません。これから講義を受けに行かなければならないんで」

「本当に少しだけでいいんです。五分、いや十分だけでいいから」

「本当にすみません。今行かないと遅刻してしまうので、急がなければなりません」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 ナシルはすぐに逃げるように講義室へ向かって走り出した。背後からフォルスが自分を呼ぶ声が聞こえてきたが、必死に無視した。


「どうしてあんなに急いで」


 一人取り残されたフォルスは、急いで講義室へ逃げるように去っていくナシルの姿を呆然と見つめながら独り言を呟いた。


「まさか、わたし避けられてる?」


 フォルスの心の中に、不安という感情が芽生え始めていた。

 一方、ほとんど逃げるようにしてフォルスから離れたナシルは、講義室へ入っていった。


「ナシル遅刻じゃ」

「申し訳ありません」


 教壇に立った大神官ペテールがナシルに注意を与えた。ナシルは頭を下げて謝罪し、ジュダの隣の席に座った。すると、ジュダが小さく囁いた。


「どこに行ってたんだ。しかも大神官様の講義で遅刻までして」

「ちょっとトイレに」

「うわ、なんか臭いから離れて」


 ジュダは鼻をつまむ仕草をした。その様子にナシルは呆れて言葉が出なかった。

 トイレに行ってないのに、何が臭いんだ。と今すぐそう言い返したかったが、そうすればさっきのが嘘だってバレてしまう。そうなるとフォルスと会ってたことを話さなければならなくなる。だからナシルは、ジュダが何を言っても気にしないことにした。

 ナシルは視線を前に向けた。ペテールが教壇で講義を進めている。

 一週間に一度、見習い神官たちは大神官の講義を受ける。多忙な大神官だが、未来の神官となる者たちのために時間を割いて聖書の講義を行なっているのだ。そして今がその時間だった。

 大神官の教えは誰もが受けたがるものである。そのため見習い神官たちは大神官の教えを受けたがり、ほとんど全員がこの時間を楽しみにしている。しかし、ナシルは違った。次の大神官となる者であるため、いつも個別に一対一で教えを受けていた。そのため、この講義を特別だと感じることもなく、楽しみにすることもなかった。「ふあああん、ねむっ」


 ナシル以外にも、大神官の講義を特別だと思っていない見習い神官がもう一人いた。ナシルの隣のジュダで、後ろの席で大神官の話が退屈だと言わんばかりに大きなあくびをしている。それとは対照的に、アビガは最前列に座っている。片手にペンを持ち、目を輝かせながらペテールから一瞬も目を離さず、彼の言葉を全て書き取っている。


「先週の課題、みなさんやってきましたか」


 ペテールの問いかけに、ナシルの頭の上に疑問符が浮かんだ。

 課題? そんなのあったっけ。


「自分が考える『愛』について書いてくるという課題でしたが、まさかやってこなかった不良神官はいませんよね?」


 ペテールの冗談に、見習い神官たちは笑い声を上げた。しかし、その中で笑えない者が二人いた。ジュダとナシルだった。

 そんな課題があった? 全然覚えてないんだが。

 ナシルは必死に先週の講義内容を思い出そうとした。


『・・・・・・・最後に、『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である』という言葉があります。愛については語ることがたくさんありますが、そろそろ終わりの時間ですので、今日の講義はここまでとします。代わりに課題を一つだします。自分が考える愛について、書いてきてください。短くても構いません。期限は来週この時間までにします」


 あ、あった。

 ナシルの記憶の奥に隠れていた課題が、ふと蘇ってしまった。

 どうするんだ。課題やってない。

 ナシルは周囲を見回した。皆の表情は自信に満ちていて、ナシルのように不安げな表情をする人は一人もいなかった。


「今、課題をここに提出してください」


 ペテールの言葉に、見習い神官たちは一斉にた立ち上がって列を作って教壇の上に課題を提出し始めた。空いた席の間に、一人だけ座っているナシルの姿がやけに目立っていた。

 恥ずかしい。僕だけ課題を・・・ジュダ? 君はなんで座ってるんだ。

 灯台下暮らしとよく言ったものだ。さっき周囲を見回したときには気づかなかったのに、一番近くにいるジュダが今になって視界に入ってきた。


「ジュダ、課題は?」

「課題? やってないが」


 ジュダは堂々と答えた。同じ境遇の仲間を見つけた安心感に、ナシルは自分でも気づかないうちに微笑んでいた。


「ジュダもやっぱ忘れたんだな」

「何言ってんだ。俺はただ面倒くさくてやらなかっただけなんだ」

「・・・・・・」


 ジュダの返答は予想外だった。ナシルとは違って忘れていたわけでもなく、課題があると知っていながら面倒臭いという理由でやってなかった。それも大神官の講義の課題を。

 これはジュダらしいというか、バカっていうか。

 ナシルはこれをなんと呼べばいいのかわからなかった。


「ところでお前はなんでここにいるんだ。お前も課題やってないのか」

「うん」

「やっぱ俺の友達だな。課題なんての元々やらないもんだぞ」

「そ、そうだな」


 ナシルは苦笑しながら頷いた。

 そうしてナシルとジュダが雑談しているうちに課題の提出が終わり、他の見習い神官たちはそれぞれの席に戻っていた。提出された課題にざっと目を通していたペテールが、ナシルとジュダの方を見て言った。


「ジュダ、それにナシル。課題を提出していないようだが、やってないのかい」

「「はい」」


 ジュダとナシルは同時に答えた。二人の違いがあるとすれば、ナシルは面目なさそうに頭を下げて答えたのに対し、ジュダは堂々と顔を上げたまま答えたということだった。


「はあ、あの二人は明日までわしの執務室に課題を提出するように。分かったかい」

「はい」


 今度はナシルだけが答えた。ペテールはジュダが答えなかったことに気づいていなかったのか、それとも半ば諦めたのか、講義を進めた。

 約二時間ほどの講義が終わった後。ナシルとジュダは疲れ果てたように机に突っ伏した。そこへアビガが近づいてきた。


「二人とも何してるのよ。課題もやってないでしょ」


 アビガは片手に本を、もう片方の手を腰に当ててナシルとジュダを叱った。


「それがさ、課題があるの忘れてて」

「忘れてやってなかったのかよ。お前マジでバカだな」

「お前にだけは言われたくないんだけど」


 アビガにそう言われるのは構わないが、ジュダにだけはバカだと言われたくなかった。


「明日までには提出してね」

「うん。そうする」

「ちょっと待って。なんで俺には聞かないんだ」


 ジュダがアビガとナシルの会話に割り込んできた。


「俺も課題やってないのに、なんでナシルにだけ聞くんだ」

「どうせあんたは面倒臭いからってやってないんでしょ。違う?」

「当たり」


 怒っていたジュダは納得したように椅子に座った。


「あ、そうだ。ナシル、フォルス様があんたを探してたよ」

「僕も知ってる」


 ちょうど講義の前に会ってたから。


「もしかしてなんで僕を探してるのかわかる?」

「さあそこまではわたしもわからない」


 アビガの返事に、ナシルは少しだけがっかりした。アビガならフォルスが自分を待っていた理由を知っているかもしれない、と少し期待していたのだ。


「それより早く立ちなさい。庭の手入れに行く時間だよ」

「もうこんな時間? 分かった」


 アビガの言葉に従ってナシルは立ち上がった。ジュダも立ち上がった。庭の手入れに行くわけではないが、講義が終わったので部屋に戻って少し休むつもりだった。

 アビガ、ナシル、そしてジュダの順に並び、講義室を出ようと歩き始めたところだった。


「そこ、フォルス様だね。ナシルを探しにきたみたいだけど」

「ええぇ!?」


 ナシルは驚いて慌ててドアの外へと視線を向けた。廊下の大きな窓の前にフォルスが立っているのが見えた。


「僕はあっちから出るから、フォルス様にはいないって言ってくれ」

「え、急に何言ってるのよ」

「じゃ庭で待ってるから」


 ナシルは逃げるように講義室の前のドアへ走り出した。


「あいつ、急にどうしたんだ。なんかわかる?」

「いいや、わたしもわからない」


 ジュダとアビガはきょとんとしながら講義室を出た。すると、ドアの外で待っていたフォルスが明るい笑みを浮かべながら彼らに近づいてきた。


「講義は終わったみたいですね。ナシル神官様はどこにいますか」


 フォルスは周囲見回すような仕草をした。アビガは答えにくそうに、少し視線を逸らした。

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