第11話 断念(1)
その日の夜。ナシルはいつものように教会の屋根の上に座って夜空を仰いでいた。
「今日も来ないかな」
ナシルはフォルスを待っていた。諦めるって決めたが、まだ一日しか経っていないせいか、会いたい気持ちはmだ消えずに心に残っていた。
しかし何十分を待ってもフォルスは来なかった。もちろん、この時間にここで会おうと約束をしたわけでもないから文句は言えない。だが、今日は来るかなと期待して、結局来ないって落胆するのは、ナシル自身の力ではどうにもならなかった。頭ではこんな感情を抱いてはいけないとわかっているのに、心は思い通りには動いてくれなかった。
「今日は星もよく見えないね」
ナシルは夜空を仰いでつぶやいた。今日は曇って星が見えなかった。まるでナシルの気持ちを空が代弁しているかのような天気だった。
「はあ、どうすればいいんだ」
ナシルはあれこれのことで頭がゴチャゴチャだった。フォルスの護衛のこと。ペテールから言われた自分の運命の重さ。庭の手入れの際に偶然と目にした男か女かわからないスーツ姿の人のこと。昨日の襲撃でフォルスを完全に守りきれなかったという自責の念。そして、フォルスがここに来ないという失望感。これらすべてが入り混じり、複雑な心境だった。
「やっぱ諦めよう」
ナシルは力なくつぶやいた。
「彼氏がいる人だから」
彼氏どころか、まだ男か女かすら確定していないのに、ナシルはすでに彼氏だと思い込んでいた。そうでなければ、男女が一緒に歩いたり後ろから抱きしめたりするはずがないと、ナシルは思っていた。
「彼氏がいる人と一緒に旅に出たいと言ったのか。ほんとバカなだ。この愚かなもの。間抜け」
ナシルはあらゆる言葉で自分を罵り始めた。恋人がいる人と一緒に旅に出たいなどと思ってしまった自分が、あまりにも情けなくて恥ずかしかった。
「諦めよう。この想いを捨てるんだ。その方が僕にとってもあの人にとってもきっといいはずだ」
自分にそう言い聞かせながら、ナシルは空を仰いだ。星一つ見えない真っ暗な夜空が、ただ黙って彼を見つめ返している。ナシルはため息をついた。フォルスへの想いを諦めようと決心し、消そうとしているのに、なぜかフォルスが頭に浮かんで邪魔してきた。
本当にそれでいいのか。その人と一緒にいなくても平気なのか、と頭の中で問いかけてきた。そのたびに胸の奥がぎゅっと締め付けられて涙が溢れそうだった。
静かな夜。誰もいない場所で、ナシルは声を殺して涙を流しながらフォルスのことを忘れようとしていた。
******
その時、教会の応接室。羊たちを導く牧者の姿をした神が描かれた絵が壁にかけられていた。中央には細長い長方形の机、その周りにはいくつかの椅子が置かれている。そして最も上座には、金髪の少女が優雅に足を組んで座っており、その傍らには黒いスーツ姿の長身の女性が背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。そのスーツの女性は腰に剣を帯びていた。
「遅いわね。約束の時間、もう過ぎたんじゃないかしら」
「まだ三分ほど残ってます、セシル様」
「ちょっと、ラティス。セシルって呼んじゃダメでしょ」
金髪の少女は黒いスーツ姿の女に手を伸ばして言葉を遮った。
「今はフォルス・スティンガって名を使ってるから、注意して」
「はい、わかりました」
ラティスはまるで軍人のようにキビキビと頭を下げた。
「そんなに堅苦しくしなくていいんだって。それに、ずっと立ってたら足が疲れるでしょ。あそこの椅子に座って待ってなさい」
「結構です。わたくしがセ、いえ、フォルス様と同じ立場で相手を待つことはできません」
「だから、今はそんなにかしこまる必要ないって言ってるでしょ」
フォルスは「座りなさい」と言って、自ら立ち上がって隣の椅子を自分の方へ引き寄せた。それにもかかわらず、ラティスは座ろうとせず、フォルスのそばにじっと立っているだけだった。
「ラティスは真面目すぎて問題だわ。まあいいわ。そんなに立ってるのが好きならずっと立っていなさい」
フォルスはふてくされた様子で椅子に座った。
「それで、旅の護衛として連れて行く人を紹介したいってわたくしを呼んだのね」
「はい。信頼して任せられる神官を用意したと聞きました」
「ふーん、わたくしが思うあの人ならいいけど」
「はい? 今なんとおっしゃいました?」
「いや。ああ、誰かしら。気になるわ」
フォルスは足を組んで、身を前に乗り出したまま、膝に肘をついて頬枕をついた。閉ざされた白い扉をボーッと見つめていると、しばらくして扉が開き、大神官ペテールが入ってきた。ペテールは申し訳なさそうに頭をかきながら、フォルスに頭を下げて謝罪した。
「遅くなってしまい申し訳ございません。用事がようやく終わったため、遅れてしまいました」
「構いません。大神官様がご多忙なのはわたくしもよく存じておりますので。お気になさらないでください」
フォルスは背もたれに体を預け直した。
「わたくしの旅の護衛を務める方をご紹介いただけると聞きましたが、その方はどちらにいらっしゃいますか」
「上がりなさい」
ペテールが扉の外に向かって声をかけると、真っ白な神官服を着たパウルが入ってきた。パウルはフォルスの前で片膝をつき、丁寧に礼をした。
「このたびフォルス様の護衛を務めさせていただく神官パウルと申します」
「ふーん」
フォルスは何も言わず、じっとパウルを見下ろした。
前に見かけた神官様だわ。
「我が教会で最も強く、信頼できる神官です。セシル様の旅において、必ずや大きな力となると思います」
「お言葉はありがたいですが、お断りします」
「はい? お断りというのは・・・」
「この人ではなく、別の方にしてください」
「セシル様!」
フォルスの言葉に声を上げたのは大神官でもパウルでもなくラティスだった。
「わたくしたちが教会側にお願いする立場です。それなのに、ご本人の前で別の人にしてほしいというのは、礼を欠いた振る舞いです」
「わかってる。申し訳ありません。言葉選びを間違えました」
フォルスは大神官とパウルに向かって頭を下げて謝った。
「あと、わたくしのことフォルスって呼ぶって言ったわね」
フォルスは鋭い目でラティスを睨んだ。ラティスは「申し訳ありません」と言い一歩退いた。
「私たちは構いません。それより、理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「実は、教会にいる間に目をつけていた神官様がいるんです。ナシル神官様ですけど、こちらの教会に所属している方ですよね?」
フォルスは組んでいた脚を解き、身を前に乗り出した。
「わたくしの護衛はあの人に任せたいです。ナシル神官様を連れてきてください」
「・・・・・・」
フォルスの言葉に、応接室の空気は一瞬で凍りついた。
あれ、わたくしなんかまずいこと言っちゃった?
予想とは違う反応に、フォルスは少し気まずさを覚えた。また謝らなければならないのかと思った刹那、大神官のペテールが口を開いた。
「ナシルはこちらでお断りいたします」
「理由を教えていただけますか」
「ナシルはまだ見習い神官ですので、セシル様の護衛任務のような重要な任務を任せることはできません」
「あら、ナシル様、実は見習い神官なんですか。ちょうどいいですね」
フォルスはパンと手を打った。
「平民のふりをしなければならないのに、がっしりした神官様を連れていたら、かえって目立って疑われやすいじゃないですか。でも見習い神官様なら、疑われることもあまりないし、ちょうどいいと思うんですけど」
「それでもフォルス様を護衛するという重要な任務に見習い神官を向かわせるわけにはいきません」
「本人であるわたくしがいいと言ってるんじゃないですか。ナシル神官様でお願いします」
「ダメです。大神官であるわたしが許可しません」
ペテールは頑なに拒否の意思を示した。何を言っても、絶対に許可してくれそうになかった。しかし、フォルスは落ち込むどころか、かえってニヤリと笑った。
「本当に理由は見習いだから、それだけですか。他にも理由があると思いまけど」
「何が言いたいんですか」
「大神官様のその表情。何かを隠しているように見えます。ナシル神官様を行かせたくない本当の理由があるんですよね?」
「さっきも申し上げたとおり、見習い神官をこのような重要な任務にーー」
「あら、昨日教えていただきました。教会では嘘は禁じられていますよね? まさか神官の模範であるべきの大神官が、嘘をつくことはないですよね?」
「・・・・・・」
「そんなことないとわたくしは信じてますよ。教会の掟を大神官様が破るなんてことはありえませんから」
フォルスの言葉に、大神官はぐうの音も出ない様子で口をつぐんだ。この全てを背後から見据えていたラティスは思った。
なんて恐ろしい人なんだ。
昔からセシル様は人の表情を読み取るのが得意だった。これを利用して人々が隠している部分を突いて自分の望むものを得てきた。そう、今のように。
ラティスはフォルスに視線を移した。フォルスは脚を組んだまま大神官を真っ直ぐに見据え、追い詰めるように問い詰めている。
「ナシル神官様がダメな本当の理由はなんですか。わたくしが納得して諦められるように、教えてください」
「それは、申し訳ありませんが、言えません」
「そうですか。わかりました。理由を知りたいですが、言えないとおっしゃるなら仕方ありませんね。同じやり取りを繰り返すほど、時間の無駄はありませんから。さっきの無礼はお許しください」
フォルスは軽く顔を下げて謝った。
「いいえ、こちらこそ申し訳ーー」
「だからといってナシル様を諦めると意味ではありません。わたくしの意見はしっかりとお伝えしましたので、明日までにご検討のうえ、お返事いただけると幸いです。大神官様もフォ承知の通り、わたくしにはあまり時間がないのです」
そう言い残してフォルスは椅子から立ち上がった。
「ラティス部屋に戻るわ」
「はい」
フォルスの言葉に、ラティスは元気よく返事をして彼女の後に続いて歩き始めた。フォルスが応接室の扉の前に立って出ようとした瞬間、ペテールが呼び止めた。
「一つだけお聞きしたいことがあります」
「なんですか」
フォルスはゆっくりと振り返った。
「なぜナシルなのですか。ナシルを名指しで指名した理由が気になります」
「当然のことを聞きますね」
フォルスは完全に扉に背を向けて立った。
「昨日の件は、大神官様もご存知だと思っております」
「ええ、聞きました」
昨日の件とは、間違いなくフォルスを狙った襲撃のことだろう。
「では、昨日わたくしを守ってくれた方が誰かも、よくご存知ということですね」
「ナシルだと聞きました」
「はい。昨日ナシル神官様はご自身の身を挺してわたくしを守ってくださいました。もしナシル様がいなかったら、わたくしはこの場にいなかったでしょう」
「・・・・・・」
「理由としてはこれだけで十分だと思いますが」
「ばい、わかりました」
フォルスの言葉に、ペテールは納得したように頷いた。フォルスは再び背を向けた。ラティスが扉を押さえて立っていた。
フォルスは扉の外を示すラティスの案内に従って応接室を後にした。
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