第一話 勇者召喚
魔術師長「……成功だ」
宮廷魔術師長の声に、広間の視線が集まった。
床の中央に描かれた召喚陣から、白い光が立ち上っている。
周囲に置かれた十二の魔晶石は、既に半数が色を失っていた。
残る石にも亀裂が走り、その一つが乾いた音を立てて砕ける。
近くの侍従が肩を跳ねさせたが、魔術師長は振り返らなかった。
杖を握る両手を震わせながら、光の奥を見つめている。
術師「陛下! 勇者召喚の儀、成功にございます!」
玉座に座るエルドリック三世が、肘掛けから身を起こした。
王「……おお。ついに、成ったか」
王の声に安堵が混じっていた。
玉座へ続く階段の脇で警護に立つ近衛騎士セラも、胸を撫で下ろした。
十年後、魔王との大戦が起こる。
聖庁からもたらされた託宣を受け、諸国は戦への備えを始めていた。
まだ十年もあると語る者もいたが、王は十年しかないと言った。
兵を育て、武具や馬を揃え、兵糧を蓄える。
諸国と手を結ぶにも、誰が兵を出し、誰が費用を負担するかで会議は止まった。
勇者を召喚すれば、それで済むわけでもない。
異界から来た者には、この世界を知り、自らの力を確かめ、共に戦う者を得る時間が必要だった。
今日、アルディア王国は他国に先んじ、その勇者を迎えようとしている。
王「皆、静粛に。異界より参られるばかりである。いたずらに騒がせてはならぬ」
王の命令に、貴族たちの囁きが止まった。
セラも姿勢を正す。
磨き上げた白い鎧に、腰には支給された直剣。
髪は襟足で固くまとめ、顔を覆う兜の下へ収めてあった。
儀式が成功しても、警護の務めが終わったわけではない。
そのとき、全身が冷えた。
セラは反射的に背後を窺った。
あるのは壁だけだ。
誰かが近づいた気配もない。
それでも冷たさは消えず、皮膚の内側へ染み込んでくる。
セラの持つ〈危険察知〉は、迫る危険の方向と切迫の度合いを身体の感覚で知らせるスキルだった。
街道警備では物陰の弓兵に気づき、戦場では盾が砕ける寸前に足を止めたこともある。
ただし、何が襲ってくるのか、どうすれば助かるのかまでは分からない。
それを判断し、動くのはセラ自身の役目だった。
冷たさの来る方へ目を向ける。
召喚陣の光の中に人影があった。
白い外套をまとった背の高い男。
その姿を捉えた途端、セラは呼吸を忘れた。
広間の扉を見る。
あそこを出れば廊下があり、階段があり、城門がある。
城を離れ、王都を抜け、さらに国境を越えたとしても――身体の冷たさが薄れる気がしなかった。
〈危険察知〉に、遠く離れた土地を見通す力はない。
それなのに、目の前の男から逃げ切れる場所を思い浮かべることができなかった。
やがて光が収まった。
男は長い白銀の髪を背へ流し、黒い衣服の上に白い外套をまとっていた。
剣も杖も持っていない。
足元の召喚陣を眺めた後、柱や窓、壁の旗へと目を移していく。
居並ぶ貴族や騎士を見ても表情は変わらず、最後に銀色の瞳が玉座へ向けられた。
王「よくぞ参った、異界より招かれし勇者よ。余はアルディア王国国王、エルドリック三世。突然の招きに戸惑いもあろう。まずは無事にこの地へ至ったことを喜びたい」
男は答えなかった。
王はその沈黙を動揺と受け取ったらしく、落ち着いた声で続ける。
王「案ずることはない。ここに、そなたへ害をなす者はおらぬ」
セラは王を見た。
違う。
害をなされるのは、こちらの方だ。
そう伝えたかったが、強張った喉から声は出なかった。
王「そなたを召喚したのは、魔王討伐のためである。十年後、我らの世界は大いなる戦を迎える。その災厄に立ち向かうべく、そなたの力を求めたのだ」
魔術師長が頭を垂れた。
その後ろでは、儀式を補佐した若い魔術師が涙を拭っている。
誰もが、現れた男を救いだと信じていた。
王「無論、そなた一人にすべてを負わせるつもりはない。我らも兵を整え、諸国と共に戦う。住まいも鍛錬の場も用意してある。望むものがあれば申すがよい」
返答はない。
王は構わず、用意した待遇を並べていく。
王「身分を望むなら爵位を、土地を望むなら領地を与えよう。働きに応じた褒賞も約束する。魔王討伐の暁には、王家の名において――」
男「貴様」
王の言葉が止まった。
男「先ほどから、何を喚いている」
男が初めて口を開いた。
大声ではなかったが、広間の誰もが聞き取った。
王は目を見開き、男を見つめる。
王 「……何?」
団長「無礼者! 陛下の御前である!」
セラの隣から、近衛騎士団長が進み出た。
王への侮辱を咎めるのは、近衛として当然の行動だ。
それでもセラは止めてほしかった。
男の目が団長へ向いた瞬間、背筋の冷たさが一層強まったからだ。
男「ほう。陛下、だと?」
男はすぐに玉座へ目を戻した。
王の頬に赤みが差す。
王「異界の者ゆえ、我らの礼を知らぬことは咎めぬ。だが、ここはアルディア王国の王城である」
男「貴様が王だと?」
王「先ほど名乗ったであろう。余がこの国を治める――」
男が笑った。
王冠を眺め、礼装へ目を落とすと、とうとう堪え切れなくなったように声を上げる。
男「くく……ふはははは! 頭に飾りを載せ、椅子へ腰掛ければ王か。その上、この我に褒賞を与えると申す」
団長の手が剣の柄へ掛かった。
貴族たちの間にも怒りが広がり、玉座の近くから一人の男が進み出る。
軍馬の調達や城の財政について、たびたび王へ進言するベルント伯爵だった。
伯爵「聞くに堪えぬ。異界の蛮人め」
伯爵は一度王の顔色を窺い、召喚された男へ指を突きつけた。
伯爵「召喚された身でありながら、陛下への恩義も知らぬか。跪き、非礼を詫びよ」
怒りに満ちた声だった。
その一方で、この場で王を庇う自分を誇るような様子もあった。
男は笑みを残したまま、伯爵へ顔を向ける。
男 「誰に申しておる」
伯爵「貴様に決まって――」
伯爵の頭が消えた。
セラには、何が起きたのか分からなかった。
男はその場から動いていない。
腕も上げていなければ、武器も持っていない。
それなのに、伯爵の首から上だけがなくなっていた。
残された身体が膝から崩れ、床へ倒れる。
その鈍い音を聞いて、誰かが短い悲鳴を上げた。
周囲「ひっ……!」
貴婦人が後ずさって椅子へぶつかり、侍従が慌てて支えた。
魔術師の一人が口元を押さえる。
伯爵の近くにいた者たちは、倒れた身体から逃れるように身を引いた。
団長「陛下をお守りしろ!」
団長が抜剣した。
セラも王の前へ出ようとする。
だが、足を踏み出すより先に男が右手を上げた。
王「な、何ということを――」
男「…騒々しい」
王が立ち上がる。
男はその姿を見上げ、告げた。
男「礼儀を教えてやる。――頭が高い」
セラの膝が石床へ叩きつけられた。
両手をつくと、胸から息が押し出された。
鎧が軋み、踏ん張ろうとしても身体が動かない。
隣では団長も、抜いた剣を握ったまま伏していた。
魔術師も貴族も侍従も、皆が床へ押さえつけられている。
玉座の方から王の呻きが聞こえた。
その身体が椅子から引きずり下ろされ、絨毯へ落ちる。
外れた王冠が階段を転がり、セラの目の前で止まった。
手を伸ばせば届く距離だった。
だが、その手を動かすことさえできない。
怖い。
死にたくない。
それでも、王を守らなければならない。
セラは床についた指へ力を込めたが、身体は命令を聞かなかった。
靴音が近づいてきた。
男は伯爵の死体に目もくれず、その脇を通り過ぎる。
セラの視界を白い外套が横切り、階段を上っていった。
男「ふん。ようやく、相応しい高さになったではないか」
男は玉座に座っていた。
片脚を組み、肘掛けへ腕を預けている。
セラたちが息も満足にできずにいる間に、王の席へ収まっていた。
男「さて。我を異界より呼び寄せたと申したな。理由を述べよ」
王の肩が震えた。
既に話したはずだとは、誰も言わなかった。
男は返答を急かすこともなく、王を見下ろしている。
王「……魔王で、ございます。十年後の大戦に備え……勇者を、お招きし……」
男「我が、その勇者とやらか。貴様らの戦を、我にさせるために呼んだと?」
王「お、お力を、お借りしたく」
男「借りる?」
男の口元が歪んだ。
男「自らの国すら守れぬ無能が、異界の者を呼びつけ、代わりに戦わせようというわけか。我の意も聞かず呼びつけた上、玉座から命じておいて、今更『力を借りたい』などと。随分と都合のよい言葉を使うのだな?」
王「ご、ご無礼を……」
男「貴様は、この我に何を与えられる」
王は答えられなかった。
先ほどは爵位も領地も褒賞も並べていたが、今度は一つも言葉にならない。
男はしばらくその姿を眺め、やがて指先を僅かに動かした。
重圧が消えた。
セラは大きく息を吸った。
喉も胸も痛い。
周囲から咳き込む声が続いたが、立ち上がる者はいなかった。
身体が自由になっても、起き上がってよいのか分からないのだ。
床についた手が震えていた。
少し離れた場所には、伯爵の身体が横たわっている。
剣を向ければ、自分もああなる。
〈危険察知〉は今も、男に抗うべきではないと告げていた。
それは分かっている。
だが、王はまだ床にいた。
王を守る近衛は、一人も立っていなかった。
セラは剣の柄へ手を伸ばした。
指が滑り、握り直す。
膝を立てると痛みが走ったが、そのまま身体を起こした。
団長「セラ――」
団長の声には振り返らなかった。
王の前へ進み、剣を抜く。
その音に、男が顔を向けた。
セラ「……陛下に、玉座をお返しください」
剣先が震えていた。
腕に力を込めても止まらず、声まで震えている。
男は剣と、それを握る手を順に眺めた。
男 「誰に刃を向けているのか、分かっておるのか」
セラ「分かりません」
男 「ほう。そこの者がどうなったか、見えておったであろう」
セラ「……はい」
男 「己も同じになるとは考えぬのか」
セラ「考えて、います」
男 「ならば、何ゆえ立った」
セラは背後の王を意識した。
近衛の鎧を受け取り、剣を捧げた日に、この方を守ると誓った。
相手が強いからといって、誓いを捨ててよいとは思えなかった。
セラ「この方を、お守りすると決めたからです」
男の笑みが深くなる。
伯爵へ向けていたものとは違ったが、何を考えているのかまでは分からない。
男 「名を申せ」
セラ「アルディア王国近衛騎士、セラ・ヴァルド」
男 「その蛮勇に免じて、貴様の名くらいは覚えておいてやろう」
王 「……セラ」
今度は背後から、王が呼んだ。
セラ「陛下!」
王 「剣を収めよ」
セラ「ですが……」
王 「余の命だ」
セラは唇を噛み、剣を下ろした。
鞘へ戻そうとして、剣先が外れる。
息を整え、もう一度収めるまで、男は黙って待っていた。
男 「己の命を捨てても守ると立ち、その者の言葉ならば剣を収めるか」
セラ「私が、お仕えすると決めた方です」
男 「なるほどな」
男が短く笑った。
王は床に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
礼装は乱れ、両手は埃で汚れていた。
伯爵の遺体を一度だけ見た後、自らの玉座に座る男へ向き直った。
王「……御方の、お名前を伺いたい」
広間の者たちが息を潜める。
男は王を見下ろしたまま、今度は問いに答えた。
男「アシュヴァル・レグナス。皇帝だ」
知らない名だった。
セラは歴史に詳しくない。
それでも、これほどの男がこの世界にいたのなら、名を聞かずに済むはずがないと思った。
皇帝という名乗りにも、誰も何も言わなかった。
どこの国を治めているのか、なぜ召喚されたのか。
確かめる勇気のある者はいない。
アシュヴァルは階段の下へ目を移した。
消えかけた召喚陣の文字を眺め、何かを考えるように目を細める。
セラはその間に口を開いた。
セラ「……どうか、これ以上は」
皇帝「これ以上、何だ」
セラ「陛下に何かあれば、この国は乱れます。兵も役人も、誰の命令を受ければよいのか分からなくなる。民にも、影響が出ます」
言い終えてから、セラは後悔した。
人を殺しても表情を変えない男が、民の暮らしを案じてくれるとは思えない。
それでも、王の命を助けてほしかった。
皇帝「貴様は、国の行く末を案じておるのか」
セラ「……はい」
皇帝「そうか。では、貴様が治めてみよ」
セラは返事ができなかった。
聞き間違えたのかと思ったが、アシュヴァルは楽しげに彼女を指さした。
皇帝「女。貴様が今日より、この国の王となれ」
広間が静まり返った。
セラは王を見て、団長を見た。
誰もがアシュヴァルを見つめている。
セラ「……何を仰っているのですか」
皇帝「聞こえなんだか?」
セラ「聞こえました。ですが、私は騎士です。王家の血も引いておりません」
皇帝「それが何だ」
セラ「国を治めることなど、何も知りません」
皇帝「では、知ればよかろう」
あまりにも簡単に言う。
セラは、自分の耳を疑うよりなくなった。
セラ「お待ちください。そんなことを突然決められても――」
皇帝「この国は誰かが命じ、誰かが責任を取らねばならぬのであろう? 貴様が申したことだ」
セラ「それは、陛下がおられるからこそ――」
皇帝「では、そこのボロ雑巾に選ばせてやろう」
アシュヴァルの目が王へ向く。
皇帝「王座を退き、辺境で余生を送るか。今、ここで散るか」
王の視線が、伯爵の遺体へ落ちた。
つい先ほどまで同じ広間で呼吸し、言葉を交わしていた臣下だ。
王は固く口を結び、反論しなかった。
セラ「陛下……」
セラは王へ向き直った。
断れと命じてほしいのか、別の道を示してほしいのか、自分でも分からなかった。
王はセラを見なかった。
玉座と、そこに座る自分ではない男を見つめていた。
王「……従え」
セラは動けなかった。
王はもう一度告げる。
王「従え、セラ。それが余の命だ」
広間のどこかで、誰かが息を吐いた。
異を唱える声は上がらなかった。
セラは王へ膝をついた。
命令を受けるときの、いつもの動作だった。
皇帝「ふははは! これから己が治めるというのに、まだそちらへ跪くか!」
皇帝の笑い声にセラは動けなくなった。
立つべきなのか、跪くべきなのか。
誰を見て、何を答えればよいのか。
剣を握っていたときには、守る相手も、自分の務めも分かっていた。
今は、それすら分からない。
アシュヴァルは困惑する彼女を眺め、満足げに告げた。
皇帝「励めよ、新王」
階段の下には王冠が落ちていた。
その向こうには、首を失った貴族が横たわっている。
誰も、それを片づけろとは言わなかった。
十年後の魔王との戦いに備え、アルディア王国は勇者を求めた。
召喚の儀式は成功し、一人の人間が異界から招かれた。
だが、求めた力を得ることと、国が救われることは、まったく別なのだった。




