第七章 問答の夜
出世しろと言われた夜の方が、ずっと、眠れない。
ヴァルト翁は、その夜、シェバ村に、泊まっていった。
集会所の片隅で、薄い毛布をかぶり、それでも、背筋を伸ばしたまま、眠っていた。眠っている間も、革帯の銀の留め金が、ちかり、と、月明かりに反射していた。
俺は、寝付けなかった。
村長の家の毛布の中で、ノートを開いた。手元には、リーゼがそっと置いていった、小さな蝋燭が、ぽつりと立っていた。蝋の匂いが、わずかに、鼻を撫でた。
「フリーの行商として、登録」というのは、自由のように聞こえる。
だが、本当は、後ろ盾がない、ということでもある。
雪の街道を、たった一人で歩く。魔物が出れば、終わり。雪で滑れば、終わり。そして、誰も、俺の生死を、責任を持って数えてくれない。
ヴァルト翁の専属契約を受ければ、街で、屋根の下で、温かい食事を、毎日、食える。
「俺、なんで、断ったんだろう」
蝋燭の炎が、ふわり、と、揺れた。
そのとき、土間の方で、軋む音がした。
リーゼが、蝋燭を持って、こちらを覗いていた。
「眠れない?」
「うん」
「私も」
リーゼは、土間と居間の境の段に、ちょこんと、座った。手のひらの中で、お父さんの咳止め薬の包みを、握っていた。
「ササクラさん」
「うん」
「街、行ったら」
「うん」
「私も、ついて行きたい、って、言ったら」
俺は、しばらく、ノートの上に、視線を落とした。
リーゼの声が、思ったより、まっすぐに、入ってきた。
俺の十年は、お得意先の婆ちゃんに、ついて行きたいと言われたことがない。妻にも、子どもにも、ついて行きたいと言われたことがない。
そもそも、妻も、子どももいない。
「それは」
俺は、慎重に、言葉を選んだ。
「リーゼが、街で、何をしたいか、にもよる」
「お父さんの、薬」
「薬」
「街には、薬草の専門店がある、って。村長から聞いた。ササクラさんが、街の商人になったら、そういうお店から、もっといい咳止めを、買ってくれるかも、って」
リーゼは、自分の指を、こつり、と組んだ。
「あなたを、利用してる、って、思った」
「思わない」
俺は、首を、振った。
「お得意先のために、商品を仕入れたい、って、ふつう、商人が、言うことだから」
「私、お得意さん?」
「お得意さん。もう何度目だろう」
リーゼは、ふっ、と、笑った。
蝋燭の炎が、彼女の頬を、わずかに、照らした。
「ササクラさん、街に行ったほうが、楽だよ」
「うん」
「楽な方、選ばないと、損だよ」
「うん」
「でも、選ばないんだ」
「たぶん、選ばない」
俺は、ノートの空白の頁を、指で、なぞった。
「俺、十年、自分のことを、ルートしか回せない無能だ、って、思ってきたんだ」
「無能」
「うん。会社では、ずっと、そう言われてきた。お前のは、数字にならない、って」
「ササクラさんの、数字にならない数字を、私の村は、もらってる」
リーゼが、ぽつり、と、言った。
「お父さん、咳が、止まった。井戸にも、新しい鉄が、来そう。ぜんぶ、ササクラさんの、ノートのおかげ」
俺は、苦笑した。
「俺、ノートに、書いただけだよ」
「書くって、すごいんだ、と思う」
リーゼは、自分の指を、ぎゅっ、と握った。
「私、字、読めない。村のひとは、ほとんど読めない。書ける人は、もっと、少ない」
「……うん」
「だから、書く、って、すごい」
蝋燭の芯が、ぱちり、と爆ぜた。
俺は、しばらく、何も言えなかった。
書く、というのは、俺にとって、息をすることに近かった。書かないと、自分の輪郭が、ぼやける。書くことで、世界に、自分の足跡を、留める。
それを、すごい、と言ってくれる人に、出会ったのは、初めてだった。
「ササクラさん」
「うん」
「街に行かない、って、決めたんなら、私、明日、また、入り口で待ってる」
「待っててくれるんだ」
「お得意さんだから」
リーゼは、立ち上がって、ぺこりと、頭を下げた。
そして、自分の家へ、戻っていった。
俺は、しばらく、毛布の中で、天井を、見つめていた。
それから、ノートを、開いた。
新しい頁に、字を、書いた。
『専属契約は、保留。リーゼと、約束した』
書いた瞬間、視界の端の文字が、すぅ、と、現れた。
【記録】に主要顧客との契約を保留登録しました。
俺は、苦笑した。
ノートが、俺より、早く、自分の心を、整理してくれていた。
翌朝、ヴァルト翁は、シェバ村を、発っていった。
別れ際、ヴァルト翁は、俺に、一通の、羊皮紙の証書と、革袋を、押し付けた。
「これは、フリーの行商の、登録証じゃ。北方商人ギルドの紋章が、捺してある。これを見せれば、北方の村は、ほぼ、お主に、扉を開ける」
「ありがとうございます」
「もう一つ、革袋の中身は、初期費用じゃ。お主は、契約金を、断った。その代わりに、活動費を、出す。これは、ギルドからの、純粋な投資じゃ」
「投資、ですか」
「投資、じゃ」
ヴァルト翁は、にやり、と笑った。
「神話の道を、踏み直す男に、ギルドが、賭けたいだけじゃ」
ヴァルト翁の、馬車が、雪の道を、ゆっくり離れていった。
俺は、その背中を、見送りながら、ノートを、ぐっ、と、握り直した。
三十六軒。
数えるたびに、まだ、三軒。
でも、十年前の俺だったら、三軒で、こんなに、世界が変わるとは、信じなかったはずだ。
リーゼが、入り口の柵で、布を、振っていた。
俺は、振り返さなかった。
振り返さない代わりに、ノートに、もう一行、書いた。
『リーゼに、いってきます』
書いてから、自分でも、気恥ずかしくなって、ノートを胸ポケットに、押し込んだ。
雪の道は、すでに、何度か行き来した分、少しだけ、踏み固められていた。誰かが、俺のあとを、歩いてくれているらしい。
足跡は、増えていた。
ヴァルト翁の馬車の轍が、北の街道に、まっすぐ伸びている。
その轍と、俺の足跡が、しばらく並走して、ある地点で、ふっと、別れる。
ヴァルト翁の轍は、街に。
俺の足跡は、ハム村と、鍛冶村のあいだの、まだ誰も歩いていない斜面に。
俺は、自分の足跡が、なぜか、誇らしかった。
歩きながら、もう一度、ノートを開いて、ヴァルト翁の去り際の顔を、思い出した。
「神話の道を、踏み直す男」
そんな、大層な肩書きは、自分には似合わない、と、まだ思う。
だが、似合うとか、似合わないとか、考えながら歩く必要は、もう、ないかもしれない。
似合うかどうかを、決めるのは、お得意先だ。
そして、お得意先は、すでに、布を振って、見送ってくれている。
それで、十分だった。
雪が、また、ぱらぱら、と降り出した。
俺は、麻袋を担ぎ直して、北の細い道へ、足を、向け直した。
今日も、回るしかない。
回らせてもらえる、というのは、ありがたいことなのだと、何度目かの実感をしながら。




