第六章 商人ギルドの扉
看板を見上げて、思わず姿勢を正してしまう癖は、何年経っても、消えないものらしい。
集会所に向かうと、土間の中央に、白髪の老人が、丁寧に座っていた。
足元には、毛皮の長靴。腰には、銀の留め金がついた革帯。背筋が、まっすぐ伸びていた。
「失礼。あなたが、ササクラ殿か」
「はい」
「商人ギルド、北方支部から参った。ヴァルトと申す。引退した行商の、ただの老人じゃ」
老人は、にこりともせず、頭を、わずかに下げた。
「お話し中、申し訳ない。ノートを、見せていただけまいか」
俺は、しばらく、迷った。
ノートは、自分の十年分だ。会社の名前も、お得意先の名前も、書いてある。本当は、誰にも見せたことがない。
だが、ここで断る選択肢が、あるとも思えなかった。
「分かりました」
俺は、ノートを、ヴァルト翁に、差し出した。
ヴァルト翁は、両手で、まるで割れ物を扱うように、ノートを受け取った。
それから、ぱらり、ぱらり、と、頁を、めくった。
最初の頁。次の頁。次の次の頁。
字が読めるのか、と、俺は、不思議に思った。
ヴァルト翁は、手を止めなかった。
ある一頁で、ぴたり、と止まった。
俺が、シェバ村―ハム村―鍛冶村の三角を、線で結んで書いた、頁だった。
「……これは」
ヴァルト翁の声が、少しだけ、震えた。
「これは、街道地図、ではないか」
「街道地図、というほどのものでは」
「いや、街道地図、だ」
ヴァルト翁は、ノートを、自分の膝の上に、ゆっくり置いた。
「いや、もっと、古いものじゃ。失われた、『ルート』」
俺は、息を、止めた。
「『ルート』、って」
「神話の言葉。神々が、大陸に張り巡らせた、魔力の流路。それを、商人ギルドの古老たちは、敬意を込めて、自分たちの行商路と、同じ名で呼んだ」
ヴァルト翁は、しばらく、目を閉じた。
「神話では、世界ルートが、すべて、繋がっていたとき、世界は、一つの体だった。村と村は、孤立せず、痛みも、知恵も、すべて、流通していた」
「それが、今は」
「ある日、ぷつり、と切れた。原因は、神々の喧嘩、と言われておる。詳細は、誰も覚えておらん」
「で、街道は」
「街道は、世界ルートの、上に、人間が後から作った、影みたいなものじゃ。だから、世界ルートが切れた場所は、街道も、いずれ、機能を失う」
俺は、自分のノートを、見つめた。
シェバ村と、ハム村と、鍛冶村が、線で繋がれていた。
ただ、それだけの線だ。
それが、神話と関係する、と、ヴァルト翁は言っている。
「ヴァルトさん」
「なんじゃ」
「俺、たぶん、そんな、たいそうなことは、できません」
「うむ」
「ただ、十年、地元で、決まった三十六軒を、回り続けてきただけです。それで、ここでも、回ってるだけです」
「うむ。それでよい」
「え」
ヴァルト翁は、初めて、にやり、と笑った。
「世界ルートが、神話の道だなどと言うとな、皆、力みおる。力んだ者が引いた線は、世界ルートに、ならぬ」
「……はい」
「お主のように、淡々と、村と村を、繋いだ者だけが、結果として、神話の道を、踏み直す」
俺は、なんと答えていいか、分からなかった。
ノートを、握る手だけが、わずかに、震えた。
ヴァルト翁は、ノートを、両手で、俺に返した。
「お主が、いかなる出自の者か、知らぬ」
「俺は、たぶん、外の世界から」
「言わずともよい」
ヴァルト翁は、軽く、首を振った。
「言わずともよい。商人ギルドは、出自を、問わぬ」
「いいんですか」
「我らが見るのは、どこから来たかではなく、どこに、足跡を、残すか、じゃ」
ヴァルト翁は、立ち上がった。
「商人ギルドへ、専属契約の話を、持ってきた。お主の三十六軒、いや、三軒を、ギルドが買い上げる。お主は、ギルド傘下の、安全な行商として、街に、住まう」
「街に」
「うむ。北の都ではない。北方の地方都市、バルカ。そこなら、安全じゃ」
ヴァルト翁は、革袋を、軽く、揺らした。中で、金属の音が、鳴った。
「契約金は、これじゃ。シェバ村が、今後一年、暮らせる量の、麦を買える」
俺は、息を、ゆっくり、吐いた。
それは、誘惑だった。
シェバ村は、これ以上、苦しまなくて済む。リーゼも、彼女の父も、安心できる。
そして、俺は、街で、屋根のある家に、住める。
ふと、十年前、新規開拓のチームに、最初に応募したときの夜のことを、思い出した。
夜、ノートを開いて、お得意先の名前を、ひと晩中、見ていた。彼らに、もう会えないかもしれない、と思って、結局、応募書類を、出さなかった。
俺は、ヴァルト翁を、見つめた。
「ありがたいお話、です」
「うむ」
「ですが、専属契約の前に、一つだけ、お願いが、あります」
ヴァルト翁が、目を、細めた。
「申せ」
「俺、まだ、あと三十三軒、回ります」
ヴァルト翁の、目が、止まった。
「三十三軒?」
「合計で、三十六軒。それが、俺の、いつもの担当エリアの、数なんです」
俺は、自分でも信じられないくらい、まっすぐに言えた。
集会所の隅で、リーゼが、口に手を当てて、こちらを見ているのが、視界の端で、揺れていた。
ヴァルト翁は、しばらく、無言だった。
それから、深く、深く、頷いた。
「お主は、神話を、自分のサイズに、削っとる」
「すみません」
「いや、褒めとるのじゃ」
ヴァルト翁は、革袋を、しまった。
「分かった。ギルドは、お主の三十六軒を、後ろから、支援する。専属契約は、保留。代わりに、フリーの行商として、ギルド登録だけ、認めよう」
「ありがとうございます」
「ササクラ修。お主の名は、わしが、ギルドの台帳に、書いておく」
集会所の外で、雪が、また、ぱらぱらと、降り始めた。
俺は、頭を、下げた。
下げながら、自分の胸ポケットの中で、ノートが、わずかに、ぬくもっていた気が、した。
集会所を出ると、リーゼが、外で待っていた。鼻の頭が、雪で白くなっていた。
「ササクラさん、街に、行かないの」
「うん」
「契約金、シェバ村が、楽になるって」
「うん」
俺は、リーゼの肩に、薄く、雪が積もるのを、見つめた。
「でも、街に行ったら、たぶん、リーゼは、もう、入り口で、待ってくれない」
リーゼの、目が、瞬いた。
「……なに、それ」
「すみません。営業の癖で、お得意さんの顔を、ぜんぶ、覚えてしまうんです」
「私、お得意さん?」
「うん。俺の、最初のお得意さん」
リーゼは、ぷいっと、横を向いた。
「失礼な人」
そう言いながら、口元が、少しだけ、ほころんでいるのを、俺は、見ないふりをした。
雪が、また少し、強くなった。
ノートの新しい頁に、俺は、たった一行だけ、書いた。
『商人ギルドに、登録された』
書いたあと、なぜか、わずかに、笑いそうになった。
十年、転職もせず、地味な営業を続けてきた俺が、ある日、雪山で死にかけて、別の世界の、別のギルドに、登録される。
人生は、たまに、こういうことを、する。




