第五章 ノートに増える、たった三軒
昨日まで一軒だった。
今日は二軒。明日は、三軒目を目指す。
シェバ村に戻ったとき、リーゼは、村の入り口の柵に、布をかけて、目印にしていた。
「ササクラさん」
雪の上で、リーゼが駆け寄ってきた。麻の靴の足音が、ぽふぽふと、こもって響いた。
「無事」
「うん」
「咳止め」
俺は、麻袋を、ゆっくり開いた。
ハム村でもらった咳止めの調合薬は、ふた包みあった。リーゼは、その包みを胸に押し当てて、ぎゅっと、目を閉じた。
「ありがとう」
「礼は、お父さんが治ってからで」
リーゼは、頷いて、走って家へ向かった。
その日の夕方、村長は、ようやく、咳の発作なく、椀の麦粥を食べた。匙を持つ指が、ふるふると震えていたが、目には、はっきり、力が戻っていた。
「ササクラ殿」
「はい」
「明日、また、ハム村に行かれるか」
「いえ。明日は、東の鍛冶村に」
「鍛冶村」
村長は、目を閉じて、しばらく、考え込んだ。
「鍛冶村は、ハム村よりも、ひと回り遠い。雪が、まだ深いぞ」
「ハム村に行ったときに、年配の男から、聞いたんです。鍛冶村は、半年前まで、ハム村と、麦と鉄の交換をしていた、と」
「ふむ」
「だったら、シェバ村の毛皮と、ハム村の麦と、鍛冶村の鉄を、三角に回せたら、ぜんぶ、楽になる、と思って」
村長は、目を、ゆっくり開けた。
「お前さん、商人ギルドで習った口だな」
「いえ、ただの、職業病で」
俺は、笑った。
職業病という言葉を、村長は、知らないようだった。だが、笑いながら、頷いた。
翌朝、俺は、また、雪の道を歩いた。
道は、慣れてきた。膝まで埋まる箇所、足元の凍りやすい場所、風の抜け方。すべて、ノートに書きつけながら、歩いた。
途中、一度、雪原の真ん中で、白い狐のような獣と目が合った。獣は、しばらく、俺を見ていたが、攻撃してこなかった。たぶん、ステータス的に、獲物として弱すぎて、興味を持たれなかったのだろう。
ノートに、書いた。
道中、白い狐。攻撃せず。観察すべし。
書きながら、俺は、ふっと、笑った。
会社のノートでは、こんなことは書かなかった。あちらでは、得意先の家族構成と、好きな菓子の種類と、誕生日の月が書いてあった。
書く対象は、違う。だが、書く理由は、同じだった。
次に来た誰かが、困らないように。
鍛冶村は、岩と岩の間に挟まれた、急斜面の村だった。
家々の屋根は、鉄板で葺かれていた。鉄板は、雪を、つるりと、滑らせていた。
入口で、また、槍が出迎えた。
「シェバ村の、商人です」
俺は、ノートを、見せた。
「ハム村と、商談中で、こちらにも、商談を、お願いしたく」
槍を持った男が、ノートに目をやった。
「これは……」
「俺の、仕事道具です」
「中身、見ていいか」
「ご自由に」
男は、ノートをぱらぱらとめくった。
文字は、男には読めない。だが、何かが、伝わったらしい。
「分かった。村長のところへ、案内する」
鍛冶村の村長は、髭の長い、巨漢だった。鍛冶屋を営みながら、村長を兼ねている。
俺は、麻袋を開いた。中には、シェバ村の毛皮と、ハム村でもらった麦の袋があった。
「ハム村の、麦……だと」
村長は、麦袋を、両手で持ち上げた。
その瞬間、髭の中から、目が、丸く、開いた。
「これ、本当に、ハム村のか」
「はい。ハム村の村長から、預かりました」
「半年、見てなかった、麦袋だ」
巨漢が、麦袋を、抱きしめた。
「俺たちは、麦が、どうしても、要る。鉄ばかり打っても、腹は、減るんでな」
「鉄、いただけますか。ハム村も、井戸の補修に、鉄が必要だと」
「もちろんだ」
村長は、目を、輝かせた。
「お前、こっそり、ハム村にも、鉄を売りに行く役、やらんか」
「やります」
俺は、即答した。
村長は、しばらく、俺の顔を、まじまじと見ていた。
それから、髭をしごきながら、ぽつり、と言った。
「お前、商人ギルドに、登録しとるのか」
「いえ。していません」
「なんで」
「これから、するつもりです」
村長は、はあ、と、長い息を吐いた。
「した方がいい。お前みたいな男を、独り歩きさせとくのは、危ない」
「危ない?」
「街の悪い連中に、目をつけられる」
俺は、ノートを、ぐっと、握り直した。
【記録】により鍛冶村ルートが本登録されました。
俺の頁に、三つ目の村が、加わった。
シェバ村、ハム村、鍛冶村。
たったそれだけだ。
それだけだが、十年間、毎日、同じ三十六軒を回り続けてきた俺にとって、ノートに新しい村が三つ書き加わる、というのは、嘘みたいな出来事だった。
新規開拓は、向いていない、と、十年、言われ続けた。
それなのに、ここでは、向いているか向いていないかを、誰も気にしていない。
ただ、回るしかないから、回っている。
そしてそれが、向いているように見えてしまうから、不思議だった。
帰り道、俺は、シェバ村の手前で、もう一度、ノートを開いた。
シェバ村―ハム村―鍛冶村。
三つの点を、線で繋いで書いた。
書いた瞬間、視界の端で、文字が光った。
【記録】により世界ルート断片が、復元されました。
世界ルート、という単語が、初めて、出た。
俺は、その単語を、しばらく、見つめていた。
意味は、まだ、分からなかった。
だが、世界、という言葉が、自分のノートの中で、ぽつりと点いたことに、ぞくり、とした。
シェバ村に戻ると、リーゼが、また、入り口で待っていた。
「ササクラさん」
リーゼは、走ってきて、息を切らした。
頬が赤い。雪に当たった頬の赤さではなく、走ってきた血の赤さだった。
「街から、人が来てる」
「街?」
「商人ギルドの、調査員。あなたを、探してる、って」
俺は、リーゼを、ゆっくり、見た。
「お父さんは、咳止め、効いた?」
「うん。うん、大丈夫。今は、寝てる」
「よかった」
俺は、頷いて、ノートを胸ポケットに、戻した。
「調査員さんは、どこ?」
「集会所」
リーゼは、俺の袖を、ぎゅっと、握った。
「ササクラさん、無許可で、商売、しちゃったの?」
「たぶん」
俺は、笑った。
笑うしかなかった。会社では、無許可営業も、勝手なルート拡張も、考えたことがなかった。だが、ここでは、許可を出してくれる人が、まだ、いない。
「でも、たぶん、そんなに、悪い人じゃない、と思う」
「どうして」
「商人ギルドの調査員が、こんな辺境まで、わざわざ来た、ってことは」
俺は、空を、ちらりと、見上げた。
「俺のノートに、興味があるのかも、しれないから」
リーゼは、首を、傾げた。
俺は、ノートの背を、指で、軽く叩いた。
【記録】によりシェバ村に商人ギルド調査員が来訪。詳細不明。
書き終えて、視界の端の文字を、見つめた。
世界、と、ノートが、もう一度、囁いた気がした。
俺は、リーゼに頷いて、集会所のほうへ、足を向けた。
その足取りは、十年、回り続けた、雪の山道のときの足取りと、よく似ていた。




