第二十一章 棚卸し、もうひとつの取引
営業ノートに残された名前を、最後に、もう一度、棚卸しする時間がある。
退院からふた月経った、ある日の午後だった。
俺は新しいノートに、ようやく半分、頁を埋めた。
回り続けた三十六軒のお得意さんは、ひとりも欠けていなかった。
ハム村の年配の男の名前は、書けなかった。
書けなかった、というか、書く必要がなかった。
彼の頁はもう、向こうのノートに永遠に残っているはずだった。
ある日、課長から声をかけられた。
「ササクラ、ちょっと」
「はい」
「黒木の見舞い、行ってこい。お前の推薦になってる」
「俺の、推薦?」
「ああ。あいつの奥さんが、お前にだけ会わせたいって、言ってる」
俺はしばらく、答えに迷った。
迷ったあと、頷いた。
「分かりました」
病院は、街のはずれの、白い、四角い建物だった。
リハビリ専門の病棟、とのことだった。
長い廊下を歩いた。蛍光灯。消毒液の匂い。床のリノリウム。
歩きながら、十年苦手だった同期の顔が、頭の中でぐるぐる回った。
罵倒された会議室の夜。
「お前のは、お遊戯だ」と笑われた廊下。
「お前のルート、来期から俺の管轄ね」と言われた、最後の朝。
ぜんぶ、思い出した。
思い出しながら、不思議と、もう、怒りは湧かなかった。
怒りの代わりにあるのは、ただの淡いため息だった。
そのため息の底に、ほんの少しだけ、別の感情が残っていた。
たぶん、それは、向こうの世界で、剣を地面にぬぷりと刺した白銀の鎧の男に対する感情と、同じ系列のものだった。
リハビリ室の窓際に、車椅子の男が座っていた。
すっかり、痩せていた。
頬の肉が落ちて、目だけが不自然に大きく見えた。
「黒木」
声をかけた。
黒木はゆっくり、顔を上げた。
口は動こうとした。
しかし、声は出なかった。
医師から聞いた話だと、声帯の神経が事故で傷ついたらしい。リハビリ次第では戻る可能性もあるが、まだ何ヶ月かかかる、とのことだった。
俺は隣の丸椅子に座った。
「お前、痩せたな」
黒木はゆっくり頷いた。
「俺も、入院してた」
頷いた。
「先月、退院した」
頷いた。
「お前、声、出ないらしいな」
黒木は目を伏せた。
俺はしばらく、彼の横顔を見ていた。
横顔は、十年見続けてきた傲慢な男の横顔と、同じ輪郭だった。
ただ、傲慢、という色は、もう、どこにもなかった。
「黒木」
「……」
「俺、お前の数字、いつか引き継ぐから、ゆっくり休めよ」
黒木の目がぴくりと動いた。
俺は続けた。
「お前のやり方、俺、嫌いだったよ」
「お前の剣でお前の街道を引く、っていう考え方、ぜんぶ、ぜんぶ嫌いだった」
「お前と同じ会社で、十年、同期でいるのがしんどかった」
「でも、お前がいなかったら、俺、たぶん十年、ノートを書き続ける原動力がなかった」
「お前が俺を見下し続けてくれたから、俺は自分のノートを捨てなかった」
「だから、ありがとう」
黒木の目が揺れた。
唇が動いた。
しかし、声は出なかった。
代わりに、痩せた頬を、ひと筋、涙が伝った。
俺はしばらく、その涙を見ていた。
向こうの世界で剣を振り下ろせなかった黒木と、こちらの世界で声を出せない黒木は、たぶん、同じ人間だった。
赦すというのは、たぶん、こういうことだ。
赦すというのは、相手を許すことではなく、自分がもう、その相手のことで心の中で戦わなくていい、と決めることだ。
俺は頷いた。
立ち上がる前に、もう一度、黒木の肩に手を置いた。
「お大事に、な」
黒木は頷いた。
リハビリ室を出るときに、奥さんと廊下ですれ違った。
奥さんは深く、頭を下げた。
「ササクラさん、ありがとうございます」
「いえ」
「主人、最近、夜中にうなされて、知らない女の子の名前を呼ぶんです」
「女の子?」
「はい。リーゼ、と聞こえます」
俺はしばらく、奥さんの顔を見ていた。
それから、頷いた。
「奥さん」
「はい」
「ご主人が声を取り戻したら、俺に教えてください」
「教えて、ですか」
「はい。話したいことが、たぶん、ご主人にもまだ残ってるので」
奥さんはしばらく、首を傾げてから頷いた。
廊下を出る頃には、夕暮れになっていた。
街の通りの空が、薄い橙色に染まっていた。
俺はその空を、しばらく見上げた。
不思議と、雪の山道で最後に見た白い空と、似た温度に感じた。
帰り道、いつも回っているお得意先のひとつ、駄菓子屋の前を通った。
孫が生まれたばかり、と聞いていた。
ガラスの戸を開けて、入った。
おばあさんは奥で、揺り籠をゆすっていた。
「ササクラさん」
「お久しぶりです」
「ご無事で」
「はい」
「孫、生まれた」
「お名前は」
おばあさんは、孫の頬を軽く撫でた。
「リエ、です」
俺はしばらく、その名前をノートに書く手が止まった。
書かないわけにはいかなかった。
書きながら、俺は笑った。
笑い方を忘れたつもりだったはずなのに、頬が勝手に動いた。
「リエちゃん、よろしくお願いしますね」
俺は揺り籠の前で、頭を下げた。
下げた頭の頂を、夕暮れの橙の光が、ふわりと撫でた。
家に帰る車の運転は、慎重になった。
退院後、最初の冬は、まだ来ていなかった。
それでも、雪の山道のカーブを思い出すたびに、ハンドルがわずかに固くなった。
それでいい、と思った。
固くなった分だけ、慎重になる。
慎重になった分だけ、ノートに書ける。
俺は車のラジオを入れた。
古い演歌の、最後のサビが流れていた。
婆ちゃんがいつも口ずさんでいた曲だった。
俺はしばらく、その曲をハミングで追った。
口の中でメロディが流れていく感覚は、向こうの世界でハム村の井戸端で聞いた、商人の歌のメロディと、不思議とよく似ていた。
『道は、人に、繋がる。
人は、道に、繋がる。
道が、消えても、
人が、覚えていれば、
道は、また、戻る』
二つのメロディが、心の中で重なって、ひとつになった。
ハンドルを、いつもより、ゆっくり切った。
切ったハンドルの、指先の感触に、ふと、向こうの世界の、井戸の水の冷たさが、混じった気がした。
混じった、と感じたのは、たぶん、気のせいだった。
気のせい、で、ちょうどいい。
気のせいぐらいの軽さで、向こうの世界が、まだ、こちらと薄く、繋がっている、と思えるなら、それで、十分だった。




