第二十章 帰還、雪のカーブ
目を開けたら、病院の天井だった。
蛍光灯。
四角い、白い、天井板。
病院特有の、かすかに冷たい消毒液の匂い。
俺はしばらく、その天井を見ていた。
しばらく、というのは、たぶん十分か二十分か、それくらいだった。
頬の横で、点滴のぽつ、ぽつ、という音がしていた。
「お、気がついたか」
声がした。
横に、ナース服の若い女性が立っていた。
「ササクラさん、覚えてますか。あなた、雪の山道で、営業車ごと崖下に落ちて、救急で運ばれてきたんです」
「……」
「奇跡的に、骨折と軽い脳震盪だけで済みました。ご家族には、連絡がつきませんでしたが」
俺は頷いた。
頷くだけで、首が痛かった。
それでも、頷いた。
「ノート」
俺は絞り出すように聞いた。
「ノート、ですか」
「胸ポケットの、紺色の」
「ああ。それは入院時の所持品として、ロッカーに保管してあります」
「見せてください」
ナースは頷いて、ロッカーから紺色のノートを取り出してきた。
ノートは表紙の角が丸まっていて、雪で湿った跡が残っていた。
俺は震える指でそれを受け取った。
開いた。
最初の頁から、ぱらぱらと捲っていった。
十年分のお得意さんの、名前、家族構成、好物、約束。
ぜんぶ、そこにあった。
俺は最後の頁を開いた。
最後の頁に、見覚えのある字でこう書かれていた。
『リーゼへ ありがとう ササクラ』
俺はその字を、しばらく見ていた。
それから、ノートの間に挟まれていた、一枚の青い小さな花を、指でつまんだ。
枯れていない、青い、染料用の花だった。
俺はその花を、しばらく指の腹で撫でた。
ナースが、不思議そうに聞いてきた。
「ササクラさん、それ、どこで入れたんですか」
「分かりません」
俺は答えた。
「気づいたら、間に挟まってました」
ナースは首を傾げて、出ていった。
俺はノートを胸の上に置いた。
胸ポケットのある場所に、置いた。
置いた瞬間、いつもの重みが戻ってきた。
その重みは、十年分のお得意さんと、半年分のシェバ村と、二十三名分の横線と、千を超える村人と、青い小さな花、ぜんぶの重みだった。
それでちょうど、いいと思った。
退院は、十日後だった。
家には、誰も待っていなかった。
俺は独り暮らしだった。
いつも通りの、独り暮らしのアパートの扉を開けた。
机の上に、出社する朝、急いで置いた湯飲みが、そのまま残っていた。
冷蔵庫を開けた。
賞味期限の切れた牛乳。
冷凍庫の底に、お得意先の婆ちゃんからもらった、干し柿の袋。
俺は干し柿の袋を取り出した。
袋を開いて、ひと粒、口に入れた。
甘かった。
孫が作った、と婆ちゃんが言っていた。
その甘さを、ずっと食べないでいた。
食べなければ、いつまでも婆ちゃんが生きているように感じられたから、だった。
でも、もう、それは違う。
婆ちゃんが生きているかいないかではなく、俺のノートに彼女の頁が残っているかどうかが、大事だった。
ノートには、まだ彼女の頁が残っていた。
それで、十分だった。
退院の翌週、俺は出社した。
会社は、変わっていなかった。
蛍光灯のちかちかは、まだ続いていた。
直ってないということは、十年前の無能な総務がまだいる、ということだった。
「ササクラ」
声がした。
課長だった。
「お前、生きてたか」
「はい。すみません、ご心配をおかけして」
「謝るな」
課長は頭を掻いた。
「そっちの席、空いてるから座れ」
俺は席に座った。
机の上の書類は、誰かが整理してくれていた。
そして、机の隅に、新しい紺色の営業ノートが置いてあった。
ぴかぴかの新品だった。
「お前のノート、雪でふやけてるって、聞いた」
課長がぽつりと言った。
「総務が、新しいの用意した」
「ありがとうございます」
「捨てるつもりだった、ぼろぼろのノートも、机の引き出しに戻しといた」
「はい」
「黒木はしばらく休職になった」
俺は目を上げた。
「黒木さん、何かあったんですか」
「事故。お前が入院してた時期と、ほぼ同じ頃。バイクでガードレールに突っ込んだ」
「……」
「命は、助かった。だが、しばらく声が出ない、らしい」
俺はしばらく、机の新しいノートを見ていた。
「で、お前のことだ」
課長はふっと息を吐いた。
「来期、ルート営業はAIで回す、って言ったの、覚えてるか」
「覚えてます」
「あれ、撤回だ」
課長は続けた。
「実証実験で、AIにルートを任せたら、得意先からの苦情が止まらなかった。やっぱり、人が行かないとダメだ」
「お前を、課長に推した」
俺はしばらく、課長の顔を見ていた。
「課長」
「うん」
「俺、その推薦、辞退していいですか」
課長の目が、ぴたりと止まった。
「辞退?」
「はい」
俺は新しいノートに手を置いた。
「俺、まだ、三十六軒、回りたいんです」
「ルート、回らせてください」
課長はしばらく、俺の顔を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「ササクラ、お前、入院してから、人格、変わったか」
「変わってません」
「いや、変わった」
「変わってないです」
俺は頷いた。
「変わったように見えるなら、それは、十年、変わらず続けてきたものが、ようやく表に出てきた、というだけ、です」
課長は目を瞬いた。
「お前、どっかでそれ、言ったのか」
「はい。一回、別の人に」
俺はノートを握った。
新しいノートの表紙の紺色は、十年前の最初のノートと、同じ色だった。
課長はしばらく、俺の顔を見ていた。
それから、頷いて言った。
「分かった。お前の辞退、受け取った」
「ありがとうございます」
「ただし、お前のルート、来期から、お前と後輩の二人で回す」
「後輩、ですか」
「ああ。新人が入った。お前に教わりたい、と言ってる」
「俺、教えるとか苦手で」
「言うな。お前みたいに、十年、ノートを続けた人間以外に、何を教えるんだ」
俺は頷いた。
頷きながら、自分の机の上の新しいノートと、引き出しに戻されたぼろぼろのノートを、しばらく見比べた。
二冊のノートの表紙の色は、同じだった。
ただ、新品の紺色だけが、まだ誰の名前も知らなかった。
俺は引き出しのぼろぼろのノートを、ぱらぱらと捲った。
最後の頁、雪のあとが滲んで、字が半分流れていた。
『リーゼへ ありがとう ササクラ』
その字だけは、不思議と、今もはっきり読めた。
俺はその字を、しばらく指でなぞった。
なぞった指先に、薄く、青い小さな花の冷たさが、まだ、残っている気がした。
机の引き出しを、ゆっくり閉めた。
閉める音が、いつもの引き出しよりも、低く、長く、響いた。
それで、いい、と思った。




