第二十二章 ルート三十六番、新しい朝
ルート営業のノートには、数字の他に、名前と、約束と、好物が書いてある。
冬が、来た。
退院から半年経った、その朝、俺はいつもの時間に出社した。
オフィスは変わらず、蛍光灯がちかちかと点滅していた。
それを最近、誰かが直そうとしているらしく、脚立が隅に立てかけられていた。
直すコストより、直さないコストの方が高い、とようやく誰かが気づいたのかもしれない。
俺は自分の机に座った。
机の上には、新しい紺色のノートと、もう一冊、まだぴかぴかの紺色のノートが、並んで置いてあった。
二冊目は、新人用だった。
「ササクラさん、おはようございます」
声がした。
机の前に、若い女性が頭を下げて立っていた。
短い髪。緊張した頬。
栗色の髪、ではない。それでも、髪をひとつに束ねている結び方が、不思議と見覚えがあった。
「藤宮、です。今日からルート営業に配属になりました」
「ササクラ、です。よろしく」
「ちょうじょう社員に教わりたい、と配属希望に書いたら、ササクラさんになりました」
「長上社員、なんていう肩書き、聞いたことないけど」
「課長がそうおっしゃっていました」
俺はふっと笑った。
長上、というのは、たぶん、課長の苦肉の肩書きだった。
ルート営業のヒラ、十一年。それが、今の俺の正式な肩書きだった。
「藤宮さん」
「はい」
「これ」
俺はもう一冊のぴかぴかの紺色のノートを差し出した。
「あなたの、相棒です」
藤宮は両手でノートを受け取った。
「これは」
「営業ノート。お得意先の家族構成、好物、趣味、誕生日、ぜんぶ書きます」
「メモ帳とか、業務用タブレットじゃダメなんですか」
「ダメです」
俺は頷いた。
「ノートじゃないと、ダメなんです」
「なんで」
「分かりません」
俺は苦笑した。
「俺の最初の先輩も、その理由を教えてくれませんでした。だから、俺も教えません。十一年、書き続けたら、たぶん分かります」
藤宮は目を瞬かせた。
「十一年、ですか」
「うん」
「十一年も、書き続けるんですか」
「うん」
「それまでに、AIがぜんぶ置き換えるかもしれません」
「置き換えない」
俺は頷いた。
「置き換える、っていう話は、半年前にも出た。実証実験で、お得意さんの苦情が止まらなかったので、撤回された」
「お得意さんは、人を求めるんですか」
「求める」
「なんで」
「人と人とを繋ぐのが、商売だから」
俺は自分のぼろぼろのノートを、引き出しから取り出した。
机の上に置いた。
開いて、最初の頁を藤宮に見せた。
「これ、十年前の最初の頁。最初の先輩から教わったことが、書いてあります」
最初の頁の、最後の行。
『ノートだけは、捨てるな。ルート営業の命だぞ』
藤宮はその行を、しばらく見ていた。
「ササクラさん」
「うん」
「先輩は、今は」
「亡くなりました」
「すみません」
「謝らなくていいです」
俺は頷いた。
「俺、先輩の葬式に出られなかったんですけど、十年、彼に教わった通りにルートを回ってきたから、葬式に出るより、たぶん、彼が喜ぶ気がする、と自分に言い聞かせてきた」
「半年前まで、それが本当に自分への言い聞かせか、本当にその通りなのか、分からなかった」
「でも、半年前、ある人に最後にノートを預けて」
「俺、その後、たぶん、ようやく本当の意味で、教わったことの半分だけ、分かった気がする」
「半分?」
「うん。残り半分は、たぶん、藤宮さんに教えながら、自分でも、ようやく分かるんだと思う」
俺はぼろぼろのノートを、藤宮の手にそっと持たせた。
「だから、これ、しばらく貸します」
「いいんですか」
「いい」
「十年分のお得意さんの、名前と家族構成と好物が、書いてあります」
「全員、もう、お会いになれない人ばかりですか」
「いいえ」
俺はふっと笑った。
「ほとんど、まだ生きてます。今日から、藤宮さんも回ります」
藤宮は目を丸くした。
ノートを両手で抱きしめた。
その抱きしめ方が、不思議と、向こうの世界で囲炉裏の前でノートを抱きしめた誰かと、よく似ていた。
俺は新しい紺色のノートを、自分の胸ポケットに入れた。
胸の内側で、紙の角が皮膚に当たる感触がした。
その感触は、十一年前とまったく同じ感触だった。
「藤宮さん、行きましょうか」
「はい」
「営業車、暖気しときました。雪、まだ降ってます」
オフィスを出るとき、課長が片手を上げた。
「ササクラ、藤宮、いってらっしゃい」
「いってきます」
俺は頭を下げた。
藤宮も頭を下げた。
下げた頭の頂で、蛍光灯のちかちかが、二人分、揺れた。
外は、雪が降っていた。
営業車のドアを開けると、シートの上に、お得意先の婆ちゃんからもらった、干し柿の新しい袋が転がっていた。
「これ、孫が作ったから」
そう言って、婆ちゃんが押し付けてきたのは、先週だった。
孫が作ったから、を、業者の俺に渡す意味は、もう、ぼんやり分かるようになっていた。
俺はその袋をひと粒開けて、藤宮にひとつ渡した。
「これ、お得意先の婆ちゃんの孫が、作ったやつ」
「いただいていいんですか」
「うん」
藤宮は口に入れて、目を丸くした。
「甘いです」
「うん」
「美味しいです」
「うん」
俺は頷いた。
エンジンをかけた。
ラジオが、古い演歌を流し始めた。
最後のサビまで、覚えている曲だった。
向こうの世界の商人の歌のメロディが、頭の中でふっと重なった。
『道は、人に、繋がる。
人は、道に、繋がる。
道が、消えても、
人が、覚えていれば、
道は、また、戻る』
ハンドルを握った。
朝の、雪のない駐車場の出口から、車を出した。
バックミラーに、ほんの一瞬、見覚えのある栗色の髪の少女の影が、映った気がした。
俺はもう、振り返らなかった。
振り返らない代わりに、ハンドルをぐっと握り直した。
藤宮が助手席で、新しいノートを開いた。
「ササクラさん」
「うん」
「最初のお得意さんのお名前、教えてください」
「○○商店の、店主と奥様。奥様の好物は、酒粕入りのアイス」
「分かりました。書きます」
藤宮はペンを取った。
俺はそのペンの走る音を、しばらく聞いていた。
紙の上を滑るその音は、十一年前、最初のノートの最初の頁に、俺自身のペンが走った音と、まったく同じ音だった。
世界は、たぶん、こうやって繋がっている。
別の世界の別の誰かのところで、たぶん、別の誰かがノートを開いて、続きを書いている。
俺はハンドルを切った。
行ってきます。
声に出して、言った。
声に出すと、不思議と、肩から力が抜けた。
行ってきます、というのは、必ず戻る、という契約だった。
ハンドルが、十一年前と同じ感触を、手のひらに返してきた。
道が、目の前にあった。
道は、雪の山道のときと違って、もう、滑らなかった。
今日も、回るしかない。
回らせてもらえる、というのが、こんなにも幸せなことだとは、十一年前は知らなかった。
胸ポケットの中で、紺色の新しいノートが、わずかに温かくなっていた。
その温かさは、たぶん、向こうの世界に置いてきたもう一冊のノートと、まだ繋がっている温かさだった。
了




