第十八章 ルートの終点
取引の最後は、いつも、こちらの目を見て、頭を下げることだ。
夜明け前、俺はハム村の井戸端を出発した。
ノートはリーゼに預けた。
胸ポケットは、空っぽだった。
その空っぽの軽さが、不思議と楽だった。
馬車ではなく、徒歩で向かった。
雪はもう、ほとんど解けていた。代わりに地面はぬかるんで、靴の底に泥がくっついた。
開けた草原にたどり着いたのは、朝の光が地平線から差し始めた頃だった。
草原の中央に、白銀の鎧の、一人の男が立っていた。
黒木翔。
剣を地面に突き立てて、手をその柄の上に組んでいた。
俺はゆっくり、彼の十歩手前まで歩いた。
「来たな、ササクラ」
「来た」
「ノートは」
「置いてきた」
黒木の眉が上がった。
「お前のノートを置いてくる、っていうのは、初めて聞いたな」
「うん」
「捨てたのか」
「捨ててない。預けただけ」
「同じだろ」
「違う」
俺は首を振った。
「捨てるっていうのは、終わり。預けるっていうのは、始まり」
黒木はふっと笑った。
笑い方は、十年前と何も変わっていなかった。
「お前の屁理屈、相変わらず不愉快だ」
「うん」
「で、俺はお前を、ここで斬る」
黒木は剣を抜いた。
朝の光が、白銀の刀身にぴたりと反射した。
俺はしばらく、その光を見ていた。
それから、頭を下げた。
「黒木」
「何だ」
「剣、降ろせ」
「は?」
「剣、降ろせって、頼んでる」
俺は頭を下げたまま、続けた。
「俺、お前と戦いに来てない。お前の頭を下げに来た」
「お前の、頭、を、下げる?」
「そう。お前は、もう勝てない」
黒木の目が、ゆっくり止まった。
「勝てない、って」
俺は頭を上げた。
そして、彼の目をまっすぐ見た。
「お前の軍は、補給で止まった」
「もう、北の都の市場に肉はない。塩はない。油はない。貴族たちは、すでにお前を見限り始めている」
「それは、剣で戦って負けたんじゃない」
「お前が最初から、繋がりを軽く見たから起きた結果」
「俺のノートが十年、ずっと書き続けてきた地味な繋がりが、お前の剣より強かった」
「ただ、それだけ」
黒木はしばらく、剣の柄を握ったまま動かなかった。
「お前」
「うん」
「いつから、そんな口が利けるようになった」
「いつから、だろう」
俺は首を傾げた。
「たぶん、シェバ村の村長が最後に、絶やすな、って言ったときから」
「絶やすな」
「うん」
「お前、村長に何言われたぐらいで、人格、変えるのか」
「変えてない」
俺は首を振った。
「変わったように見えるなら、それは、十年、変わらず続けてきたものが、ようやく表に出てきた、というだけ」
黒木の剣が、ぴくりと動いた。
「こいつ、本当に」
黒木は剣を振り上げた。
朝の光が、白銀の刀身にもう一度、ぴたりと反射した。
俺は頭を下げなかった。
下げる必要がなかった。
すでに、俺の後ろに、二百を超える人々が、ぞろぞろと姿を現していたからだ。
黒木の目が、俺の後ろをゆっくり見た。
そこには、ハム村の井戸端から徒歩で夜中ずっと追ってきた、ヴァルト翁とギルドの代表団と、商人と職人と村人が、半円を描いて立っていた。
ぜんぶ、剣を抜いていなかった。
ぜんぶ、ただ立っているだけだった。
「これは……」
黒木の声が、わずかに震えた。
「お前、これ、戦じゃないだろ」
「戦じゃない。立会人、だ」
俺は頷いた。
「お前が剣を振り下ろしたら、俺はたぶん死ぬ」
「死んだら、この二百人が街に戻って、お前がハムを振り下ろした、と伝える」
「街はもう、お前を見限り始めている」
「最後の一押しになる」
「お前は、剣を振り下ろせない」
黒木の剣が、ぴたりと止まった。
止まったまま、動かなかった。
しばらく、草原に風だけが吹いていた。
風が、俺の頬を撫でた。
その感触が、十年前、雪のカーブで最後に感じた風と、よく似ていた。
風は、俺を置いていかなかった。
俺は頭を下げた。
下げながら、こう言った。
「黒木」
「……」
「お前、もう、剣、降ろせ」
「降ろして、街に戻れ。街にはまだ、お前を必要としている貴族の何人かが、いる」
「お前は軍を解散して、勇者の称号を返して、ふつうの剣士として生きるべき」
「俺、お前を斬らない。お前も俺を斬らない。俺たちがお互いに、まだ人間でいるためには、それがふさわしい」
黒木の剣が、ゆっくり、ゆっくり、地面に向かって降りていった。
剣の先が、ぬかるんだ土にぬぷりと刺さった。
「ササクラ」
「うん」
「お前、勝ったつもりか」
「いや」
俺は首を振った。
「勝ち、負け、じゃない。これは、商談の最後の頭の下げ、だ」
「商談じゃ、ねえだろ」
「俺の中では、ぜんぶ商談だ」
俺はふっと笑った。
黒木はしばらく俺の顔を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「お前のやり方が……正解、だったのか」
俺は答えなかった。
答える代わりに、もう一度、頭を下げた。
頭を下げたまま、こう言った。
「正解、なんて、ない。ただ、続けてきただけ」
風がもう一度、草原を吹き抜けた。
風の中で、二百を超える人々が、誰一人、声を上げなかった。
ただ、それぞれの目が、俺の頭の頂を見つめていた。
俺は頭を下げ続けた。
下げ続けるほうが、剣を振るより、ずっと力が要ることを、十年、ルート営業を続けてきた俺は、誰よりも知っていた。
黒木はしばらく、立ち尽くしていた。
それから、剣の柄から手を離した。
剣はぬかるんだ地面に、まっすぐ刺さったまま動かなかった。
黒木は踵を返して、北の都の方向に歩き出した。
歩き方が、来たときと別人のように、ゆっくりだった。
ヴァルト翁が後ろからぽつりと言った。
「ササクラ。お主、相変わらず、剣を抜かんで勝ったな」
「勝ってないです」
「勝ってない、というのは、お主の口癖になりつつあるな」
俺は苦笑した。
ヴァルト翁が、俺の肩に軽く手を置いた。
「これで、世界ルートは繋がった」
「繋がった、んですか」
「うむ。お主のノートが線で引いてきた道が、神話の世界ルートとぴたり重なった瞬間に、世界はもう一度、ひとつの体に戻ったのじゃ」
俺は空を見上げた。
朝の光がもう、地平線の上まで昇っていた。
風は、止んでいた。
風の代わりに、二百人を超える人々の息の音が、低く、低く、聞こえていた。
ぜんぶ、生きていた。
それで、十分だった。
俺は、ヴァルト翁の手を、肩の上から、そっと外した。
外した手の温かさが、自分の肩に、少しだけ、残った。
その温かさは、十年前、最初の先輩が、肩を叩いてくれた時の温かさと、同じ温度だった。
風が止んだ草原の上空で、雲が、ゆっくり、北のほうへ流れていった。
雲の流れる方向が、勇者軍が引いた進軍ルートと、ぴたり、重なっていた。




