第十七章 三十六番目の取引
ルート営業の三十六軒目は、いつも、一番、気を遣う。
俺のノートには、最後にいつも、その日の最も苦手な得意先の名前を書いていた。
苦手な得意先というのは、こちらの提案にいつも難色を示す相手だ。
そうした相手こそ、最後に訪問する。理由は簡単だ。一日のうち、最も自分の状態が整ってきている時間に、回したいからだ。
今、俺の三十六番目の得意先は、勇者軍だった。
集まった二百を超える参加者が、それぞれの与信枠の役割を果たし始めて、二日が経った。
最初に起きたのは、補給の停止だった。
ハム村から東に徒歩で半日のティスカ村が、勇者軍からの塩の徴発を拒否した。
ティスカ村の村長は、ヴァルト翁の伝令石越しにこう言った。
「うちは、シェバ村とハム村とナミナ村と、麦と塩と毛皮の三角の取引がある。それを断ち切るような徴発には、応じられぬ」
それを伝令で聞いた別の村の村長たちが、次々と同じことを言い始めた。
ぜんぶ、俺のノートに名前が書かれた村だった。
勇者軍は、最初の補給の村で立ち往生した。
二日目の夕刻、勇者軍の別働隊が強制徴発に向かった。
その村はすでに、与信の枠で配置された馬具修理係と料理係が、村人を避難させて、家畜を奥地に移していた。
兵士たちは、空っぽの家と、空っぽの麦倉だけを見た。
火を放とうとした兵士の前に、ヴァルト翁のギルドの代表団が現れた。
「商人ギルドが、この村と契約済みです」
「契約済みの商品を焼くことは、商人ギルドへの宣戦布告と見なされます」
「商人ギルドは、北方一帯のすべての輸送路を抑えています」
「焼くなら、どうぞ。北の都の貴族たちは、明日から、塩を舐められず、肉を食えず、油を灯せずになります」
兵士たちは、しばらく躊躇した。
その躊躇の隙に、ヴァルト翁の代表団がこう続けた。
「ササクラ修、北方商人ギルドのフリー行商の提案として、お伝えします」
「勇者の軍は、これ以上、辺境に進まない方がよろしいかと、存じます」
兵士たちは、最終的に火を放たずに引いた。
それから、毎日、似たような出来事が続いた。
俺はハム村の井戸端で、ヴァルト翁の伝令石を通じて、各地の状況を聞き続けた。
聞きながら、ノートにひたすら書き加え続けた。
ティスカ村、塩の徴発拒否、成功。
オーリ村、麦の徴発拒否、成功。
鍛冶村、鉄の徴発拒否、成功。
南西のティル村、人手の徴発、回避、成功。
七日経った頃、北の都から新しい知らせが届いた。
『勇者の軍が、北の都の城に籠もったまま、出てこない』
『街の市場から肉と塩が消え、貴族たちが勇者を責め始めた』
俺はその知らせをノートに書き留めながら、ふっと息を吐いた。
商人ギルドの戦は、剣をほとんど振っていなかった。
血も、ほとんど流れていなかった。
ハム村に集まった二百を超える人々の誰も、まだ剣を抜いていなかった。
俺はノートの空白の頁に、字を書いた。
『流通の戦争は、補給の停止で終わる』
書いた瞬間、視界の端で文字がすうっと現れた。
【記録】に、勝利の予兆が登録されました。
俺はその文字を、しばらく見つめた。
予兆で終わるか、それとも本当の勝利に変わるか。
それは、最後の対面で決まる、となんとなく感じていた。
その夜、ヴァルト翁の伝令石が震えた。
「ササクラ」
ヴァルト翁の声が、苔玉から聞こえた。
「クロキ・ショーが、お主を指名した」
「指名?」
「明朝、ハム村と北の都のちょうど中間の、開けた草原で、一対一の対談を求めておる」
「対談、って」
「決闘、と呼んでもよい」
俺はしばらく答えられなかった。
「俺、剣、振れません」
「分かっとる」
「それでも、行きますか」
「行く、行かないは、お主の判断じゃ」
俺はノートをぐっと握り直した。
行かない、という選択肢もあった。
行かなくても、すでに勇者軍は補給で立ち往生している。あと、ひと月もすれば勝手に崩れる。
しかし、行かなかった場合、勇者軍の崩壊とともに、勇者本人が辺境に向かって、最後の暴発を起こす可能性があった。
そうなれば、また、村が燃える。
俺は目を閉じた。
閉じた目の中で、ハム村の年配の男の最後の言葉が再生された。
『俺の名前も、消さんでくれや』
『消しません』
俺は頷いた、と約束した。
「ヴァルトさん」
「うむ」
「行きます」
「分かった」
「リーゼには、ハム村にいてもらいます」
「分かった」
通信が、切れた。
俺は井戸端の火の前に戻った。
リーゼは、俺の顔を見た瞬間に表情を変えた。
「ササクラさん、何があったの」
「明朝、勇者と対面する」
「私も、行く」
「だめ」
「だめって、どうして」
「俺、ノートを置いていく」
俺はノートを開いて、リーゼの手に押し付けた。
「これ、預かっててほしい」
リーゼは目を丸くした。
「これ、ササクラさんの命だよ」
「うん」
「預けるって」
「預けるっていうのは、戻ってきてから受け取る、っていう意味だから」
俺は笑った。
「商人の約束。ノートを預ける、というのは、必ず戻る、という契約」
リーゼはぎゅっとノートを抱きしめた。
「絶対、戻ってきて」
「うん」
「絶対、絶対」
「絶対」
俺は頷いた。
頷きながら、自分の手のひらが、ノートのない空っぽの感触に、しばらく慣れずに震えていた。
夜は、長かった。
俺は井戸端の火の前で、しばらく座っていた。
集まった人々の中から、誰かが歌を歌い始めた。
辺境の古い、商人の歌だった。
『道は、人に、繋がる。
人は、道に、繋がる。
道が、消えても、
人が、覚えていれば、
道は、また、戻る』
歌は、雪のように、ゆっくり、井戸端を覆った。
俺はその歌を、十年、聞いてこなかったはずなのに、なぜか、口が勝手に動いた。
口の中で、メロディが流れていく感覚があった。
人は覚えていれば、道はまた、戻る。
その一節を、俺は頭の中で何度も繰り返した。
頭の中で、十年のお得意さんの顔が、ぐるぐると回った。
明朝、たぶん、俺は彼らの代わりに、勇者と対面する。
ノートを置いていくということは、彼らの声を、自分の中だけにしまって行くということだった。
それで、いい。
それでも、いい、とようやく思えた。
火の音が、わずかに弱まった。
リーゼが、毛布を掛け直したらしかった。
俺は目を開けずに、ありがとう、と心の中で言った。
明朝までの夜は、もう、長くなかった。




