第十六章 与信と、戦力
取引には、信用の枠が要る。
それが、与信、だ。
ハム村の井戸端に到着したのは、それから四日後だった。
井戸の水は、雪どけでぐっと増えていた。あの日、傾斜を修正した方向に、新しい水脈が開通していた。
水脈の新しい流れの脇に、すでに二百を超える人が集まっていた。
馬車は、五十台。荷馬は、百を超える。
それぞれの家族、それぞれの職人、それぞれの村の長老。
集まった人々の顔には、戸惑いと希望と疑問が、混ざっていた。
俺は井戸の縁に、ノートを開いて置いた。
それから立ち上がって、頭を下げた。
「ササクラ修、です」
「ルート営業、十年、続けただけのヒラ社員です」
集まった人々が、互いに顔を見合わせた。
「ヒラというのは、外の世界の言葉で、肩書きのない者、という意味です」
「肩書きのない者ですけど、ノートだけは十年、書き続けてきました」
俺はノートの背を、軽く叩いた。
「皆さんのほとんどの名前は、このノートか、その複写のどこかに書かれています」
「皆さんが誰の紹介で来てくれたかも、書かれています」
「これから、皆さんを戦力として扱わないといけません」
人々のざわめきが、止まった。
「俺は戦士じゃありません」
「皆さんもたぶん、戦士じゃないと思います」
「ですから、俺たちは戦のやり方ではなくて、商売のやり方で、勇者の軍と向き合います」
俺はノートを開いて、新しい頁に表を書いた。
縦に、参加者の職種。
横に、それぞれの強み。
そして、欄の外側に、与信の枠と書いた。
「与信というのは、信用の枠です」
「俺は、皆さん一人ひとりに、自分の得意分野を書き出してもらいます」
「得意分野が書かれた人には、その分野で行動する信用の枠が、与えられます」
「枠を超えた行動は、しなくていいです」
「逆に、枠の中で最大限の行動を、してもらいます」
俺は井戸の縁に座って、最初の若い男に声をかけた。
「あなた」
「は、はい」
「得意は、なんですか」
「俺、鍛冶屋の弟子で、特に馬具の修理が」
「では、馬具の修理係。馬具の不具合があった人は、この男に相談してください。担当は修理だけ。戦闘はしない」
若い男の顔が、ゆっくり緩んだ。
「俺、戦わなくていいんですか」
「うん。あなたは、馬具の修理というルートで、戦力です」
俺はノートに、彼の名前と、馬具の修理係と書いた。
【記録】により与信枠が、自動配分されました。
文字が、また、視界の端で光った。
俺はその作業を、ひたすら続けた。
鍛冶屋。馬具。料理。薬草。荷物の運搬。子どもの世話。怪我の手当。連絡係。
どの人にも、必ず、与信の枠、つまり得意な役割を与えた。
「戦士は、いますか」
俺は最後に聞いた。
数人の屈強な男たちが、手を挙げた。
「あなたたち、剣を振ったことがある人」
「あります」
「では、あなたたちは後ろで待機です」
集まった全員が、ぽかんとした。
「待機?」
「うん。最初の戦闘は、たぶん起きません」
「起きないって、どういうことですか」
俺はノートの別の頁を開いた。
そこには、北の都の大通りの地形と、勇者軍の進軍ルートが書かれていた。
ヴァルト翁のギルドが調査して送ってくれた、最新の情報だった。
「勇者軍は、ハム村に来る前に、必ずこことここで補給を行います」
俺は地図に、印を打った。
「補給の場所はぜんぶ、もともとこちら側の村です」
「俺たちがこの村たちとすでに繋がっている、ということを、勇者軍は知らない」
「補給の村が、勇者軍に塩を出さなければ」
「勇者軍はハム村までたどり着く前に、進軍が止まります」
集まった人々が、互いに顔を見合わせた。
それから、笑い声がぽつりぽつりと上がった。
「飯と塩、出さねえだけで、勇者軍が止まんのか」
「軍は、剣じゃ戦えるが、空腹じゃ戦えん」
「うちの村も、もう、塩は出さねえぞ」
俺は頷いた。
「そう、それです」
「これは戦じゃなくて、流通です」
集まった人々の目が、ひとつずつ光った。
その光は、十年前、お得意先の婆ちゃんが、俺に干し柿の袋を押し付けたときの目の光と、よく似ていた。
「ササクラ殿」
集まった人の中で、最年長らしい老婆が口を開いた。
「あんたさんの考えはぜんぶ、商人ギルドの古い古い言い伝えと、そっくりじゃ」
「『戦は、剣ではなく、補給で終わる』」
老婆は頷いた。
「あんたさん、神話を知らんで、神話通りに動いとる」
俺は苦笑した。
「神話は、知りません。ただ、十年、卸の現場にいて、補給が止まれば店が潰れる、というのを毎日見てきただけです」
「それを、神話と言うんじゃ」
老婆は、震える指で自分の白い髪を撫でた。
「神話ってのは、いつでも、誰かが地味に続けたことを、後の人が立派に呼び直したもの、じゃ」
俺はその言葉を、ノートの空白の頁に書き留めた。
書き終えた瞬間、視界の端で文字がすうっと現れた。
【記録】に、戦略の最終形が登録されました。
俺はその文字を、しばらく見つめた。
戦略の、最終形。
その単語は、十年前の俺なら、絶対に出会えなかった単語だった。
夜になった。
集まった人々が、井戸端で火を囲んでいた。
家族同士で初めて会った者たちも、すでに互いの村のことを話し合っていた。
俺はノートを抱えて、火の外に座っていた。
リーゼが横に来て、俺の肩に毛布をかけた。
「ササクラさん、寒い」
「うん」
「集まった人、二百を超えてる」
「うん」
「父さん、見たら、たぶん笑うね」
俺は頷いた。
頷きながら、自分の十年が、ほんの少しだけ報われた気がした。
報われた、というより、ようやく形になった、というべきかもしれない。
ノートの何百という名前を、もう一度、頁ごとに見返した。
ぜんぶ、地味な名前だった。
地味な名前が千を超えると、それはもう、神話らしかった。
火の向こうで、子どもがひとり、母親の膝に抱かれて眠りかけていた。
母親は、その子の額を、ゆっくり撫でていた。
俺はその風景を、しばらく見ていた。
戦の前夜、というより、ふつうの夜だった。
ふつうの夜が、ここにあるということが、たぶん、いちばん、難しいことだった。
リーゼが、毛布の端を、もう一度、俺の肩に掛け直した。
「ササクラさん、寝た方がいい」
「うん」
「私、横で起きてる」
「うん」
俺は、ノートを胸に抱えて、目を閉じた。
目を閉じる前、井戸端の火の音が、いつもより、低く、長く、続いていることに、気づいた。




