第十四章 ノートに残ったもの
ルート営業のノートには、数字の他に、名前と、約束と、好物が書いてある。
街の事務所で目を覚ました朝、俺はヴァルト翁の部屋に入った。
ヴァルト翁は、机の上に地図を広げていた。地図には、二十三名の名前が横に書き加えられていた。
「お主が書け、と命じたわけではないが」
ヴァルト翁はふっと笑った。
「ギルド職員が、勝手に書いた」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「ヴァルトさん、お願いがあります」
「何じゃ」
「俺、しばらく新しい村を書く前に、生き残った村をぜんぶ、もう一度回りたい」
「もう一度?」
「はい。一軒も欠けないうちに、誰が生きていて、何が必要か、ぜんぶ書き直したい」
ヴァルト翁はしばらく俺の顔を見つめた。
それから、深く頷いた。
「分かった」
「馬車を、もう一台お貸しいただけますか」
「貸す」
「あと、職員を二人お借りしたいです。字の書ける」
「四人、貸す」
ヴァルト翁は紙の隅に、何かを書きつけた。
「お主のノートの、複写隊じゃ」
「複写、隊」
「お主が口で言うことを、四人で別々のノートに書く。万一、お主のノートが燃えても、四つ残る」
俺は目を開けた。
考えてもいなかった。
考えてもいなかったが、それは、俺の十年の癖と、まったく同じ発想だった。
俺はお得意先のノートを、十年、毎月、別の手帳に写していた。
会社が火事になったとき、データが消えても俺の手帳が残る、という、念のための作業だった。
会社で、それは無駄、と言われた。
ここでは、それは戦略、と呼ばれていた。
複写隊と、馬車を二台引き連れて、俺はシェバ村を出発した。
リーゼも合流した。
「私、書けるよ。少しだけ、ササクラさんに教わったから」
「いつ、教えた」
「冬のあいだ、雪の小屋で、ササクラさんが寝てる横で、こっそり写してた」
リーゼはふっと笑った。
俺は苦笑した。
複写隊の職員たちは、リーゼの字を見て目を丸くした。
「字、上手いですね」
「ササクラさんの真似だから」
「これ、ササクラ殿の字ですか」
「うん」
職員たちは、急にお互いを見合わせた。
「ササクラ殿の字を、ぜんぶの職員に写させてください」
「神話の字に、似てるんです」
俺は首を傾げた。
「神話の、字?」
ヴァルト翁から預かった職員のリーダー格の男が、頷いた。
「神話に出てくる、世界ルートを最初に引いた行商の字、とギルドに伝わっています」
「いや、これは、俺のふだんのボールペンの字なだけで」
「ぼーるぺん?」
俺は首を振った。
「気にしないでください」
シェバ村を出発して、生き残った七つの村を順に回り直した。
各村で、俺はまずバックヤードから入った。
挨拶をし直した。
亡くなった人の名前を、ノートに書いてある通りに、村人とひとつずつ確認した。
確認しながら、俺は村人にこう言った。
「俺のノートに、まだ皆さんの名前がぜんぶ残っています」
「これから、四人の職員が、皆さんの名前と必要なものを、もう一度書き直します」
「書き直したら、ギルドに四つの控えが保管されます」
「皆さんの家、皆さんの家族、皆さんの約束は、燃えても消えません」
村人たちの目が、ひとつずつ変わっていった。
最初は絶望の色だった。
途中から、不思議なざわつきの色になった。
最後にはぽつりぽつりと、頭を下げた。
「ありがてえ」
「俺たち、まだ消えてねえ、っちゅうことか」
「消えてないです」
俺は頷いた。
「消すのは、俺じゃなくて、皆さんです。皆さんが忘れない限り、消えません」
オーリ村の長老が、ノートに目を落とした。
「ササクラ殿。お前さんのノートは、これ、もう街道地図というより」
「世界の家計簿、だな」
「家計簿」
「そう。誰が何を持ってて、誰が何を必要としてて、誰が誰に何を約束したか。ぜんぶ書いてある」
俺は苦笑した。
「家計簿、いい言葉ですね」
ヴァルト翁が街でそれを聞いて、目を細めた。
「家計簿、というのは、商人ギルドの古い古い言い伝えで、神々が最初に書いた、世界の帳簿と、同じ意味じゃ」
「また、神話、ですか」
「また、神話じゃ」
ヴァルト翁はにやりと笑った。
「お主は知らんで、神話の単語を自分の言葉に置き換え続けとる」
俺はノートを握り直した。
七つの村をぜんぶ回り終えた頃には、俺のノートと、職員四人のノートに、一千名を超える村人の名前が書かれていた。
それぞれの、家。
それぞれの、家族。
それぞれの、約束。
それぞれの、好物。
俺はノートの最後の頁を開いた。
最後の頁に、地図を描いた。
七つの村を、線で繋いだ。
そして、その線の中央に、シェバ村の名前を置いた。
【記録】により、世界ルート再接続地図、本登録、完了。
視界の端の文字が、すうっと現れた。
俺はその文字を、しばらく見つめた。
世界ルート、再接続地図。
ヴァルト翁が何度も口にした、神話の単語。
それが、ようやく俺のノートの中で形を持った。
ヴァルト翁が、ノートを覗き込んだ。
しばらく、頁を撫でた。
「ササクラ。これは、本当に神話の地図だ」
「あの」
「うむ」
「これ、何の役に立つんですか」
ヴァルト翁は目を上げた。
そして、にやりと笑った。
「これがあれば、お主のノートを使って、世界中の人を一晩で繋げられる」
俺は目を瞬かせた。
一晩で。
その単語が、頭の中でひっくり返った。
「一晩」
「そうじゃ。世界ルートが再接続された場所では、人と人の声が、ルートを伝ってすれ違わずに通る。古い、伝令の魔法と、同じ仕組みじゃ」
「俺が十年、回って書き続けたノートは、つまり」
「つまり、世界中に声を届けられる、伝令網じゃ」
俺はノートをぐっと握った。
握った手のひらが、わずかに震えた。
ヴァルト翁が机の隅から、薄い羊皮紙を差し出した。
「明日の朝、伝令を走らせる。準備はよいか」
「はい」
俺は頷いた。
頷いた瞬間、自分の中で、何かぱちんと、音がした。
それは、十年前、最初のルートを自分のノートに書いた瞬間の音と、よく似ていた。
ヴァルト翁が、机の上の地図を、ゆっくり、巻き取った。
巻き取る指の動きが、慣れた商人の手つきだった。
俺はその手つきを、しばらく見ていた。
十年、ノートを書き続ける、というのは、結局、こういう手つきを身につけることなのかもしれない。
ヴァルト翁が、机の隅で、ぽつりと言った。
「ササクラ。書く者は、いつかは、読む者に、頁を渡すのじゃ」
「読む者」
「うむ。それが、商人ギルドの、もう一つの古い口伝じゃ」
俺は、その言葉を、ノートの新しい頁に、書き写した。
書き写しながら、不思議と、頭の中に、栗色の髪のひとを、思い浮かべていた。




