第十三章 雪のカーブ、二度目
あの日と似た雪だった。
営業車も、ハンドルもない。
ノートだけが、ある。
棚卸しの夜から三日後、俺はシェバ村をいったん離れた。
ヴァルト翁が、ギルドの馬車を寄こしてくれた。
「お主、しばらく街に来い」
伝令がそう言った。
「ギルドが避難民を受け入れる。お主は、その手配をしながら休むのがいい」
俺は頷いた。
頷いたが、実際は、休むということが何なのか思い出せなかった。
リーゼはシェバ村に残った。
「私は、村人と一緒にいる」
「危ない」
「もう、危ないも何もない」
リーゼはそれだけ言って、俺の背中をぽんと押した。
「ササクラさんも、いったん、ぜんぶ置いてきていい」
「ぜんぶ、って」
「ノート以外、ぜんぶ」
俺は馬車の中で、しばらくノート以外のものを思い浮かべようとした。
ノート以外は、特になかった。
服も靴も、街でヴァルト翁に買ってもらったものだ。それすら、もう俺のものという気がしなかった。
ノートだけが、間違いなく俺のものだった。
それは、たぶん十年前から、ずっとそうだった。
街のヴァルト翁の事務所、その奥の客間に、俺は宿を取った。
最初の夜、ベッドに横になった。
シーツは麻ではなく、絹だった。皮膚に滑らかすぎて馴染まなかった。
天井は白く塗られていた。
天井の隅に、シャンデリアの影がぽつんと落ちていた。
その影を見ていたら、急に、十年前の雪のカーブが頭の中で再生された。
ハンドルが、滑った瞬間。
ガードレールが、迫ってきた瞬間。
胸ポケットのノートを、押さえた瞬間。
あのとき、俺はたぶん死んでいた。
ここに来たのは生まれ変わりだ、とリーゼが言っていた。
生まれ変わったのに、俺はまた、人を死なせた。
二十三名。
数字を声に出して呟いた。
呟いた声が、絹のシーツに吸い込まれた。
俺はベッドから起き上がった。
ノートを開いた。
新しい頁に字を書こうとして、ペン先が動かなかった。
何も書けなかった。
書くという行為が、こんなに重いと感じたのは初めてだった。
ノートを閉じた。
胸ポケットに戻した。
そのまま、ベッドの隅に座った。
座って、しばらく自分の手のひらを見ていた。
手のひらは、乾いていた。
十年、ハンドルを握り続けた手のひらだった。
その手のひらが、こちらの世界では、雪の道を歩く杖を握り、ノートを開く指になり、井戸の傾斜の線を引いた。
十年、何の役に立つのか分からないと思っていた手のひらが、ここでは何かしらの役に立っていた。
それは、嬉しかった。
嬉しかったから、よけい、苦しかった。
役に立ったと思った瞬間に二十三名が死んだ、というのは、つまり、俺が役に立たなければ二十三名は死ななかったかもしれない、ということだった。
「俺、消えたほうが、いいんだろうか」
声に出した。
声に出すまで、自分がそう思っていることに気づかなかった。
部屋の隅に置いてあった水差しから、ぽたりと水滴が落ちた。
水差しは、そっと置かれただけのはずだった。
それなのに、ぽたりと落ちた。
俺はその水滴の音を、しばらく聞いていた。
ふと、頭の中で、十年前のお得意先の婆ちゃんの声が再生された。
「あんたじゃないと、困る」
あれはただの社交辞令だ、と俺はずっと思っていた。
社交辞令だけど、嬉しかった。嬉しかったから、ノートに書いた。
ノートには、その日の婆ちゃんの咳の調子も書いてあった。
『もう、長くないかもしれない』
そう書いた頁の横に、俺は当時、こう書き添えた。
『毎週、絶対に、行く』
俺はその頁を思い出した。
ノートを開いた。
開いて、十年前の頁を捲った。
捲って、お得意先の婆ちゃんの頁を見つけた。
『毎週、絶対に、行く』
その字を、しばらく見ていた。
俺は、毎週、行った。
婆ちゃんは、俺が転生する三ヶ月前に亡くなった。
葬式には、出た。
葬式で、婆ちゃんの息子が俺に握手を求めた。
「母は、毎週、あなたが来る曜日を、楽しみにしてた」
「ぜんぶの、お礼、私からも、言わせてください」
俺は、しばらくその握手の感触を忘れていた。
今、思い出した。
俺はハム村の年配の男に最後に握られた手の感触と、それを無意識に重ねていた気がする。
二人とも、最後に、ノートを見たがった。
ノートを見るというのは、自分の名前がまだ誰かのところに残っているかを、確認する行為だった。
俺はベッドに戻って、毛布を被った。
被った中で、ノートを開いた。
ペン先が、ようやく動いた。
新しい頁に字を書いた。
『俺は、消えない。消えたら、二十三名分、もう一度、消す』
書いた瞬間、視界の端で文字がすうっと現れた。
【記録】に主体の生存意志が、再登録されました。
俺はその文字を、しばらく見つめた。
主体の生存意志、という単語がノートの中で起き上がっていた。
その単語は、十年前の俺なら、絶対に書けなかった単語だった。
俺は毛布の中で目を閉じた。
目を閉じる前、もう一度、ノートをぐっと握った。
明日の朝、たぶん俺は、街の宿で目を覚ます。
その朝が、雪のカーブの二度目の朝になることだけが、分かっていた。
夜が、長かった。
長い夜の中で、ノートの背の感触だけが、変わらずそこにあった。
俺は何度か目を開けて、自分の胸ポケットに手を当てた。
ノートが、あった。
そのたびに安心して、また目を閉じた。
朝が来ても、雪は止まなかった。
絹のシーツの隙間から、冷たい空気がそろりと入ってきた。
俺はベッドの外に足を下ろした。
足の裏が、床の冷たさをぴたりと踏んだ。
「行くか」
声に出した。
声に出すと、自分の声が十年前より、少しだけ低くなっていた。
たぶん、二十三名分、低くなった。
それで、ちょうど、いい。
ノートを胸ポケットに押し込み直した。
押し込みながら、自分の胸の、心臓のあたりが、少しだけ温かくなった気がした。
部屋の窓を開けた。
冷たい風が、絹のカーテンをぱたぱたと揺らした。
街の通りには、すでに商人たちの馬車の音が聞こえ始めていた。
俺はその音を、しばらく聞いていた。
商人たちは、誰一人、止まらない。
止まったら、商売が終わるからだ。
俺も、止まらない。
止まったら、二十三名がもう一度、消えるからだ。
部屋のドアを開けた。
廊下の冷たい空気が、絹のシーツを抜けて、足の甲に届いた。
抜けた風の中に、ヴァルト翁の事務所の、薄い緑の香炉の匂いが、混じっていた。
その匂いを、俺は、ゆっくり、ひと呼吸、吸い込んだ。
吸い込んだ呼吸の長さで、ようやく、自分が今日、また、歩けることが、確かに分かった。




