第十二章 棚卸しの夜
営業に、「棚卸し」、という業務がある。
売れ残りと、消えたものを、ぜんぶ、数え直す、地味な仕事だ。
ハム村で、十一名。
鍛冶村で、七名。
シェバ村で、村長と、もう三名。
オーリ村で、二名。
合計、二十三名。
俺は、ノートに、亡くなった人の、名前を、書き写していった。
書きながら、横線を、引いた。
線を引くたび、自分の手の中で、ペン先が、震えた。
「ササクラさん、もう、いいよ」
リーゼが、隣で、ぽつり、と言った。
「いい、って、何が」
「ぜんぶ、書かなくても」
「書く」
俺は、首を、振った。
「書かないと、忘れる。忘れたら、二度、殺す」
リーゼは、もう、何も、言わなかった。
代わりに、椀に入れた、薄い麦粥を、俺の前に、置いた。
シェバ村の集会所で、村人たちと、薄い粥を、すすった。
味は、塩だけだった。
それでも、温かかった。
俺の隣で、イーラ婆さんが、唇に、椀の縁を当てたまま、しばらく、止まっていた。
「ササクラ」
「はい」
「あんたが、ノートから、消さん、と言うた、ハム村のあの男、わしの、息子じゃ」
俺は、椀を、置いた。
「すみません」
「謝るな」
イーラ婆さんは、震える指で、自分の白い髪を、撫でた。
「あの子が、最後に、お前さんに、頼んだのは、お前さんが、一番、信用できたから、じゃ」
「俺、信用される、ような、ことは、何も」
「ノートを、見せたじゃろ」
「はい」
「あれが、ぜんぶじゃ」
イーラ婆さんは、頷いた。
「ノートを、見せて、家の名前と、孫の名前を、書いてあると、見せた。それは、その家を、忘れんと、約束した、ということじゃ」
「……」
「商人ギルドの、古い古い言い伝え、では、ノートを、見せる、というのは、家紋を、見せ合うことより、重い、契約じゃ」
俺は、ノートを、握り直した。
知らなかった。
知らずに、十年、見せ続けてきた。
「あんた、それを、ぜんぶ、知った上で、続けてきた人、と、ハム村の連中は、勘違いしとった、と思うで」
「勘違い、ですか」
「いや、勘違いじゃ、ない」
イーラ婆さんは、ふっ、と笑った。
「お前さんは、知らんで、それを、十年、続けてきた。それのほうが、ずっと、本物じゃ」
俺は、目を、ゆっくり、閉じた。
知らずに、続けてきた。
それは、十年前、新規開拓のチームに、申し込んだとき、面接官に、言われた言葉と、ちょうど、反対の評価だった。
面接官は、こう、言った。
「ササクラ、君は、十年、同じことを、繰り返してきた。それは、強みではなく、惰性だ」
俺は、何も、言い返せなかった。
惰性、と、本物。
判断するのは、結局、誰が、見るかだ、と、今、ようやく、分かった。
夜、俺は、シェバ村の村はずれの、小さな小屋に、こもった。
リーゼが、毛布を、運んでくれた。
「眠れる?」
「分からない」
「私、戸の前に、いる」
「中に、入っていいよ」
「ううん。今日は、外がいい」
リーゼは、首を振った。
「今日のササクラさんは、私が、近くにいると、たぶん、もっと、苦しいから」
俺は、頷いた。
リーゼの言葉は、ときどき、自分のことより、俺のことを、よく、見ていた。
戸が、閉じた。
俺は、毛布の中で、ノートを、開いた。
二十三名の、横線を、もう一度、撫でた。
それから、ノートの最初の頁に、戻った。
最初の頁には、十年前、入社して最初に書いた、お得意先の、最初の顧客の名前があった。
『○○商店、店主○○さん、奥様の好物は、酒粕入りのアイス』
ぜんぶ、消えそうな、薄い字だった。
その下に、最初の先輩の名前と、彼の口癖が、書いてあった。
『ノートだけは、捨てるな。ルート営業の命だぞ』
俺は、その一行を、しばらく、見ていた。
先輩は、半年前に、死んだ。
俺は、彼の葬式に、出られなかった。会社の、決算期で、忙しかったからだ。
そのことを、ずっと、悔やんでいた。
葬式に出るより、彼に教わった通りに、ルートを、回っているほうが、彼が、喜ぶ、と、自分に、言い聞かせていた。
でも、本当は、行けばよかった。
俺は、ノートを、ぐっ、と、握った。
「先輩」
声が、自分でも驚くほど、ふるえた。
「俺、ぜんぶ、間違ってたんですか」
返事は、ない。
返事は、ない、けれど、ノートの背の、丸まった角が、俺の指の腹の感触に、優しく、応えた。
俺は、毛布を、頭まで、被った。
被った中で、しばらく、声を、押さえた。
押さえた声の音は、十年、誰の前でも、出さなかった音だった。
夜が、明けていく音は、雪国では、雪の、踏み締められる音から、はじまる。
朝、俺は、毛布の中から、出た。
戸を、開けた。
戸の前で、リーゼが、立ったまま、寝ていた。
毛布を、半分、被って、半分、引きずって。
俺は、彼女の肩に、自分の毛布を、もう一枚、被せた。
リーゼは、目を、開けなかった。
ただ、口の中で、何か、つぶやいた。
「父さん、頼むって、言ってた」
寝言、らしかった。
俺は、その横に、しばらく、座った。
ノートを、開いて、新しい頁に、書いた。
『リーゼ、戸の前で、待っていた』
書いた瞬間、視界の端で、文字が、すぅ、と、現れた。
【記録】に最重要の信頼関係が登録されました。
俺は、しばらく、その文字を、見ていた。
最重要、という単語が、ノートの中で、ぽつり、と、起き上がっていた。
会社のノートでは、最重要、という言葉は、年に、数回、書いた。
入札の時。新規契約の時。社運を賭けた、と言われた取引の時。
そのどれも、結局、俺の、最重要、ではなかった。
最重要は、いつだって、別の人間に、奪われた。
ここでは、奪われない。
奪う側の人間が、いない、というだけのことだったが、それが、こんなに、軽い言葉ではなかった。
リーゼの、肩が、毛布の中で、ふっ、と、深く、息を吐いた。
雪が、また、ふわり、と、屋根の上に、降り始めた。
俺は、ノートを、ゆっくり、閉じた。
胸ポケットに、戻すとき、ノートが、いつもより、軽く感じた。
二十三名分の、横線が、書かれた、はずなのに。
軽く感じた理由は、たぶん、彼らの名前が、もう、紙の中ではなく、俺の中に、移ったから、だった。
俺は、立ち上がった。
立ち上がりながら、自分の足が、もう、震えていないことに、気づいた。




