プロローグ
如月 苗にとってその道を一人で通る事は初めての出来事であった。
学校の帰り道、自分の家と学校の中間にあるバレエ教室に寄るのが苗の日課だ。学校が終わってすぐに始まるバレエ教室は、夜の七時まで行われる。いつもは両親が迎えに来るのだが、今日は急な用事が入り迎えに来る事が出来なくなっていた。苗は今年で小学校4年生になる。家とバレエ教室はそんなに離れていないし、道路には街灯も多く、住宅も多い。夜道であっても大丈夫であろうと両親は判断した。かくして、如月 苗は、生まれて初めて夜道を一人で歩いている。
夜道を一人歩くのはちょっとした冒険の気分だった。苗は女の子ではあるが男の子向けのテレビ番組が大好きだった。特に冒険モノが大好きで、自分の同じ年ぐらいの少年達が暗い洞窟や道の遺跡を探検する場面を見るたびに、いつか自分も冒険家になりたいと思っていた。夜道はまるで未開のジャングルだ。左右に広がる塀は絶壁の壁、時折り立っている電柱は背の高いジャングルの木。その傍らに置いてあるゴミ箱は岩や障害物だ。
たまに野良猫が出てきてびっくりしたが、ジャングルに危険はつきものである。苗の中で小さな野良猫は、虎か何かに置き換えられていた。
しばらく道を進むと電柱の影に人影が見えた。
電柱からはみ出す位に大きいその人影は、かなり太った大人の男性だった。年齢的には二十代後半といった感じではあるが、苗にとって自分より大きい人は一律して大人と認識されている。大きなでぶっちょのおじさんが立っているぐらいにしか苗は思わなかった。
男の近くまで来る。男はぶつぶつと何かを呟きながら、苗をじっとりとした眼で見つめる。その視線に気付いて苗は少し怖くなった。男の目に子供では理解できないなんらかの恐怖を感じて、体が硬くなるのを感じた。
苗は今日の帰り道で初めて怖い、と思った。何も感じていない平静な振りを目一杯して、男の横を通り過ぎる。
男は何もしなかった。何もなかったのだ。苗は体の力が急に抜けるのを感じた。
「ねぇ、ちょっと待ってよ」
背後から声がした。
体がびくりと震え、背筋が伸びる。恐る恐る背後を振り返ると、電柱の影から身を出した男が、苗に向かって立っていた。
男の背後にある電柱についている街灯の明かりのせいで、男の表情がよく見えない。ただ、何かに興奮しているのだろう。はぁはぁと荒い息遣いだけが聞こえてくる。
苗は思わずスカートの右ポケットに手を突っ込んだ。硬いプラスチックの感触が手に当たる。両親が持たせてくれた携帯電話だ。それを強く握り締める。
「な、なんですか?」
震える気持ちを抑え、男の呼びかけに苗が応える。
この人はあそこに立っていただけだ。何も怖い人じゃない。道か何かを聞きたいだけなんだ。苗は必死に自分にそう言い聞かせた。
「む、無視するなんてひどいじゃないのよさ」
鼻息荒く男が語りかける。
その後もよく分からない事を立て続けに苗に語ってくるが、苗は男が何を言っているのかが理解できない。
他の連中はとか誰もボクを認めないとか、そういう何かを言っているようだが、恐怖の為か、言葉の半分も耳には入ってこなかった。
「お、お前もボクを、ば、バカにするのかよ?」
男の手が苗に伸びる。
太く大きい、大人の手だ。
思わず体が痙攣し、そのまま後ろに飛びずさる。スカートから携帯電話を取り出して、男に突きつける。
「な、なにか変な事するなら、け、警察呼んじゃいますよ!」
彼女の年齢にすればそれはすばらしい勇気だった。未知の大人に対し、彼女は勇ましく立ち向かったのだ。
「う、うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいっ!」
だが彼女の勇気は男には効果がなかった。
男は苗に掴みかかると、あっという間に体を羽交い絞めにして携帯電話を取り上げる。
助けを呼ぼうと声を出そうとするが、男の手が口をふさいでしまったため、くぐもった声しか出ない。これでは誰も呼べない。
助けて助けて助けて助けて!
苗は男から逃れようと必死でもがく。その苗の背中に男は何かを突きつけた。シャツの後ろが切り裂かれ、その冷たい感触が苗の皮膚をそっと撫でる。
「さ、叫ぶなよ? 叫んだら、お前、死ぬよ?」
男が手にしていたのはナイフだった。それが苗の背中をツンと押し上げる。切れてはいない。だが、その感触は生まれて始めて感じる死の恐怖だった。
苗は唇を震わせたまま、うんうんとうなづく。彼女が従順になった事に満足すると、男はナイフを突きつけたまま、苗の拘束を解いた。しかし、苗からは離れない。ぴたりと後ろにくっついたままだ。
逃げられない、と苗は思った。
そして後悔した。一人で帰るんじゃなかった。寂しい怖いと我がままを言って、無理やりにでも両親に迎えに来てもらえばよかった。そうすれば今頃は暖かい晩御飯を両親と一緒に食べていたはずだ。家に帰れたはずなのだ。
その時、苗達の前方の暗がりに人影が見えた。
学生服を着た高校生ほどの年齢の女性が、下を向きながらこちらに向かって歩いてくる。
苗は助けてと声をあげようとした。その動作を男はナイフを押し付ける事で止める。ナイフの感触を感じた苗は、口を開いた状態のまま動けなくなった。
女性が苗の横を通り過ぎる。
助けて、助けて、助けて! 苗は視線で女性に助けを求める。だけど、女性はそれに気付かない。そのまま通り過ぎていってしまう。
もうだめだ。自分はこの大人に殺されちゃうんだ。
苗の心を絶望が支配した。
「ねぇ、ちょっと」
後ろから声がした。
「あんた達、こんな所で何やってるわけ?」
女性は足を止め、無表情のままこちらを見ていた。
「い、妹がわがままを言うから、ちょっとお説教してたんだな。あ、あんたには、か、関係ないんだな?」
「ふぅ~ん……」
女性は眉を少し吊り上げると、興味がなさそうにため息をついた。
「ずいぶん似てない兄弟なのね?」
「よ、よく言われるんだな」
「そっか、そっかぁ」
その瞬間、女性の体が苗達の前から姿を消した。
次に気付くのは何かの衝撃。上を見ると、女性の足がまるでカマのように男の首に振り下ろされていた。
「ぐあぁっ!?」
男はそのまま吹き飛ばされる。
道連れで一緒に吹き飛びそうになった苗は、ふいに右腕が引っ張られる感触を感じ、次の瞬間には、暖かい何かに包まれているのを感じた。
上を見上げると先ほどの女性の顔が見える。
どうやら彼女に片腕で抱きしめられているようだった。
「あが……歯が……首が……腕がぁっ……!?」
男が痛みに悶える。
「な、なにすんだよ……ボクが一体なにしたっているんだよ!?」
「あんた、それ本気で言ってんの? いたいけな小学生いじめてたのは、だぁれ?」
女性が腕を胸の上まで上げ、パキリっと鳴らす。
「嘘をつくんならもうちょっとマシなのにしなさい。実の妹に殺気をぶんぶん飛ばしている兄がどこにいるってのよ。あほじゃないの?」
彼女は男を見ながら、苗を優しく立たせると、背中に隠すように立った。
「ま、覚悟する事ね。私、ロリコン犯罪者には厳しいの」
彼女が動く。
男はただ悲鳴を上げるしかできなかった。
苗はぼうぜんとしていた。
あの後、女性は男を完膚なきまでに叩き潰した。苗から見ればそれはすごいの一言だった。あんなに大きい大人を、それよりもずっと華奢な女性が圧倒的な力でねじ伏せてしまったのだから。まるで日曜日の朝にやっているアニメのドリピュアみたいと苗は思った。ドリピュアは中学生ぐらいの女の子が変身して悪い大人と戦うアニメで、そこで戦う女の子達は皆一様に強かった。現実の戦いはアニメほどスマートではないのだが、苗の目からはどちらも同じものに見えていた。
警察官が保護した苗に向かって、あれこれ言っている。
お母さんがすぐ来るよとか、もう心配いらないよとか、色々と気を使って声を掛けてくれている。だが、苗の耳には届いていなかった。苗の目はあの女性を探していた。そしてそれは警察官達の向こう側に見えた。
苗は駆け出した。警察官が彼女を呼ぶ声が聞こえるが、苗には関係なかった。全力疾走で女性の元に駆け寄る。
「お姉さんっ!」
苗の呼びかけに、彼女が気付く。にっこりと微笑んで、苗に手を振ってくれる。先ほどの無表情な顔とはまったく別人の、温かみのある笑顔だ。
「お姉さん、あのね、あのね!」
苗は聞きたい事がいっぱいあった。だが、興奮のあまり言葉にならない。あのねあのねだけを繰り返す。
「大丈夫よ、もうすぐお母さんが来てくれるってさ。もう心配要らないよ?」
彼女は少し前かがみになると、苗の頭を優しく撫でる。
「うん! 助けてくれて、ありがとう!」
苗は精一杯の気持ちを篭めてそう言った。苗の気持ちが伝わったのか、女性はにっこりと微笑む。
「それでね、それでね!」
考えがまとまらない苗は、とにかく一番聞きたい事を彼女に聞く事にした。
「お姉さん、なんでそんなに強いの!?」
苗は目を輝かせながら、女性に向かってはっきりとそう聞いた。
あまりのまっすぐさに女性は少し苦笑したが、軽く力こぶを作るポーズを作ると、ショートカットの髪を揺らし、彼女――望月 静音は答えた。
「私、こう見えても、JHKのヒーローさんなのよ?」




