恋かもしれない…恋愛偏差値ゼロ 82
「…な、中村君?…」
私は、驚きのあまり、思わず声がうわずった…
まさか、中村君が、背後に立っているとは、思わなかったからだ…
「…ど、どうして?…」
私が、うわずった声で、言うと、
「…所長が、顔色を変えて、この営業所にやって来て、高見さんを呼ぶから、てっきり、叔父さんのことかなと思って…」
中村君が言いづらそうに、言う。
「…中村君…溝口さんが、自殺したのを、知ってたの?…」
「…いえ、知りませんでした…でも…」
「…でも、なに?…」
「…ありそうなことだと思って…叔父さん、気が弱いから…」
「…気が弱い?…」
私が、さっき、以前、この中村君が、溝口さんが、気が弱いといったのを、思い出したのと、同じ言葉を繰り返した…
「…気が弱い、叔父さんが、自殺したのを聞いても、驚きませんよ…」
中村君が言う。
しかし、言いながらも、目が真っ赤に充血し、唇が、小刻みに震えていた…
当たり前だが、中村君のショックの大きさを物語っていた…
私は、中村君の表情を見て、同情した。
同時に、気付いた…
この亀山所長は、中村君が溝口の甥であることに、気付いていたことを、だ…
私と、中村君が、溝口について、語っているのを、違和感なく、聞いている。
なにより、中村君が、溝口の甥であることを知っているからこそ、ここで、中村君が、私と亀山の話を盗み聞きしていたことにも、怒らなかった…
普通ならば、誰もが怒るところだ…
中村君が、溝口の甥であることを知っているからこそ、怒らないのであろう…
そして、以前、これまた、中村君が、
「…亀山さんも、ボクが、溝口部長の甥であることは知ってますよ…」
と、言ったのを、思い出した。
亀山とて、バカではない…
それぐらいは、知っていたということだ…
「…中村君には、ショックが大きいだろうな…」
亀山が、中村君を気遣った。
もはや、なにも言わずとも、亀山が、中村君が、溝口の甥であることを知っているのは、明らかだった…
「…叔父さんが、大昭和をリストラされて、叔母さんが、家を出て行ったのを、聞いて、もしや…と、思っていたんだけど…」
中村君が、蒼ざめた顔で言う。
「…叔父さんは、気が弱いから、大昭和に戻れないことを悟って…それで…でも、もう少し待ってくれれば…」
中村君が、悔しそうに言う。
「…もう少し、待ってって…どういうこと?…」
思わず、私は中村君に聞いた。
「…水野ですよ…」
「…水野?…」
「…ほら、この前も高見さんと、あの水野透とボクがいっしょにいるときに、会ったでしょ?…」
「…」
「…実は、ボクもボクなりに、叔父さんを、大昭和に戻せないか、考えていたんです?…」
「…溝口さんを大昭和に戻せないか?…」
「…あの水野さんと、親しくなったから、折を見て、それとなく、叔父さんを、大昭和に戻せないか、頼んでみるつもりだったんです…」
「…そんなことを…」
私は、中村君の言葉に唖然とした。
そして、直後に考えた。
この中村君は、溝口の指示で、金崎実業の実態を知るために、金崎実業に入社した。
いわば、スパイ…
要するに、見た目以上に、能力が高い…
それは、おそらく叔父の溝口譲り…
だから、あの水野が、叔父の溝口を、元の職場に戻せる力があると知り、うまく近付いたのではないか?
不意に、そんなことを考えた。
だが、まさか、そんなことを口にできるはずはない…
が、この会話を、亀山はどう思うのだろうか?
私が、亀山を見ると、亀山は、無表情のままだった…
あるいは、亀山は、なにか、気付いたことがあったかもしれないが、黙ったままだった…
ようやく、亀山が口を開くと、
「…中村君は、溝口さんの葬式は、どうする?…」
と、訊いた。
「…今日は、早退してもいいぞ…」
「…いえ…早退はしません…」
中村君が言った。
「…どうしてだ?…」
「…叔父さんの葬儀に出席するなら、家族から、電話か、メールがありますよ…それがないってことは、ボクが、出席する必要がないってことです…」
中村君が蒼ざめた表情のまま、言った…
「…そうか…」
亀山は言った。
「…なら、好きにすればいい…オレは、連絡があれば、顔を出すつもりだ…」
それだけ言うと、
「…さあ、話は終わりだ…席に戻ろう…仕事…仕事…」
と、亀山が宣言する。
その言葉を合図に、私と中村君も、席に戻った…
席に戻ると、営業所の全員の視線が、私たち三人に注がれた。
隣の席の内山さんが、小声で、
「…高見さん…なんだったんですか?…」
と、聞いたが、まさか、答えることはできなかった…
それゆえ、
「…後で話すわ…」
と、言うに留めた。
内山さんは、明らかに不満顔だったが、それ以上、私に声をかけることはなかった…
内山さんは、有能…
これ以上、私になにを言っても答えるはずがないと、悟ったのだろう…
結局、その日は、なにもなかった…
亀山も中村君も、営業所から、席をはずさなかった…
後日、溝口の葬儀は、ごく内輪で、執り行われたと、人づてに、聞いた…
大昭和の出世頭と目された人間が、左遷され、倉庫係にまで、落とされ、自ら命を絶ったのは、やはり、遺族として、やりきれなかったんだろう…
ある意味、会社の被害者というか…
会社の人事のせいで、命を絶ったのは、誰の目にも明らかだからだ…
それゆえ、結局、会社関係の人間を誰一人、招くことはなかった…
私もまた、中村君の口からではなく、営業所の噂で、それを知った…
これまでも、テレビや新聞、ネット等で、会社のリストラの末、命を絶った報道を見たことは、あるが、現実に、自分の見知った人間が、命を絶ったのは、溝口が初めてだった…
しかも、その溝口は、会社の出世頭と目された男…
そのプロレスラーのような巨体と、堂々とした態度で、社内外の信頼を勝ち得ていた…
そんな溝口が、自殺した衝撃は大きかった…
亀山が、私と中村君に、溝口の自殺を教えたときは、営業所では、他に誰も知らなかったが、一週間もしない間に、瞬く間に、営業所中に広がっていた…
そして、なんともやりきれない空気が漂った…
少し、大げさに言えば、諸行無常の空気と言うか…
溝口の自殺は、営業所の全員に、人生のはかなさを伝えるものだった…
また、溝口の死は他人事ではない…
この営業所でも、この先、いつリストラがあるか、わからない…
そして、リストラされた後、溝口のように、命を絶つ者が現れたとして、おかしくはない…
そんなことが、誰の脳裏にもあるから、余計に、営業所の空気が重くなった…
だが、溝口の死は、それだけでは、終わらなかった…
溝口には、遺言というか、遺書があった。
そして、その遺書の内容は、大昭和を告発する内容だった…
甥の中村君、曰く、溝口は、気が弱い…
その大柄で、堂々とした体躯とは、裏腹に、気が弱い…
しかし、誰もが、それに気付かない…
気が弱いゆえに、人一倍、他人から、どう見られているか、考えている…
ゆえに、気が弱いことを周囲が、気が付かないように、終始、気を付けていたからだ…
そして、気が弱い=用心深い…
だから、溝口は、大昭和の出世の階段を駆け上りながら、自分が、社内で、聞いた話や、直接、関係した、非合法な取引、例えば、誰が、どこそこの取引先から、キックバック=裏金を得て、仕事を回しているとか、いう話をすべて、記載したノートを持っていた…
なにか、あったときに、それを暴露するつもりだったのかもしれない…
だが、結局、溝口は、自分が生きている間に、それを使うことはなかった…
いや、できなかった…
あるいは、大昭和をリストラされ、関連会社の倉庫係にまで、落ちぶれて、配属されたときに、そのノートを取締役なりに、見せて、脅せば、なんとかなったのかもしれないが、その勇気がなかったのかもしれない…
会社の出世街道を順調に上って来た溝口は、当然のことながら、周囲の信頼も厚く、周囲から、問題を起こすような人物とは、思われてなかった…
だから、そのような行動を起こすことはできなかったのかもしれない…
もし、溝口が、そのような真似をして、取締役等、会社の上層部を脅せば、そのときは、首が繋がるが、その先の出世には、周囲は慎重になるだろう…
なにより、人の口に戸は立てられない…
会社の重役を脅した溝口の行動は、いつのまにか、社内外に知れ渡り、結局は、社内に身の置き所がなくなり、会社を辞めざるを得ないだろう…
気が弱い=慎重な溝口は、そこまで、考えたのかもしれない…
だから、結局、生きているときは、会社を告発する手段を持ちながらも、それをすることはできなかった…
だが、残された遺族は、当然、それを躊躇わなかった…
まずは、ネットで、それを晒し、大手の新聞社やテレビ局に、それと同等の内容を送った…
その結果、当然のことながら、溝口の遺族の告発に賛同する会社が現れた。
恰好のスクープになると踏んだのだろう…
そして、それは、当然のことながら、世間を賑わした。
すでに、水野傘下になったが、まだ、取締役等の面々は、旧来の経営陣のままだった…
しかし、溝口の告発で、旧来の経営陣は、総入れ替え…
大昭和の経営陣は一新された…
結果的に、溝口は、まんまと自分の属した会社に復讐を遂げた形になった…
同時に、溝口の告発は、水野にとっては、経営陣を一新する、よい機会になった…
もっとも、いずれは、経営陣を一新するつもりだったのだろうが、まだその機会に至っていないと思っていただけなのかもしれない…
しかし、溝口の告発が、きっかけとなり、従来の経営陣は総退陣…
結果的に、水野の主導する、新たな経営陣になり、大昭和の取締役の面子が変わった…
だが、ことは、それだけに終わらなかった…
その余波は、私の勤務する金崎実業にまで、及んだ…
どういうことかというと、この金崎実業の取締役の中にも、溝口のいた大昭和と結託して、仕事を受注する上で、個人的に裏金を受け取って、便宜を図っているものがいたのだ…
それが世間にバラされて、その取締役は、解任…
その結果、経営陣は一新され、あろうことか、金崎実業の社長まで、変わった…
そして、その新社長の名前は、内山…
そう、私、高見ちづるの隣の席の内山さんの父親だった…
私はそれを知って、内心仰天した…
しかしながら、それを知っているのは、社内でも、ごく一部の人間…
私は、あの中村君を通じて、偶然それを知った…
なぜ、中村君が、それを知っていた…いや、私に教えてくれたのか?
それは、やはり、死んだ溝口が絡んでいる…
溝口は、私について、自分でいうのもなんだが、思いのほか、私、高見ちづるを高く評価していたらしい…
ただし、この場合の評価というのは、私が美人だからだとか、そんなのでは、当然ない…
いわば、私が信頼でき、それなりに仕事をこなせる人間として、評価していたということだ…
そして、この場合の仕事というのは、当然、社内外の業務ではなく、対人関係のスキルというか…
よく言えば、どこにでも違和感なく入り込め、周囲の信頼を勝ち得ることができる人間…
つまり、やり手ばああと言っては、身も蓋もないが、そのような人間として、私を見ていた…一目置いていたということだ…
それゆえ、私をあの米倉正造に紹介した…
私を通じて、米倉の内情を探るためだ…
米倉は、当時、大昭和の大株主…
米倉の当主である、米倉平造の後継者が、正造となるか、直一になるか、知りたかったからだ…
それゆえ、正造を通じて、米倉の内情を探り、それを大昭和の上層部に伝えていた…
一方で、溝口は、米倉平造とも繋がっていた…
おそらくは、平造が、大昭和の大株主であることを当然知っていたので、大昭和の情報を平造に流していた…
また、それを平造自身、見抜いていた…
いわば、溝口が二重スパイのように、どっちにも通じていたのを知りながら、溝口を使っていた…
そして、それを、溝口もまた気付いていた…
だから、溝口が、大昭和を左遷され、関連会社の倉庫係に飛ばされたのを知り、溝口に利用価値がないことを知り、溝口との接触を断った…
互いが、互いを利用する関係でしか、なかったゆえに、一方の利用価値がなくなれば、関係は断たれる…
当たり前のことだった…
その結果、溝口は、落胆し、死を選んだ…
だが、変な話、溝口は死んでなかった…
当然、溝口自身は、死んだが、甥の中村君という後継者を得た。
内山さんが、金崎実業の社長の娘であることを、知っているのは、この営業所でも限られた人間のみ…
それを容易に、今年入った新入社員に過ぎない中村君が知っているのは、仰天すべきこと…
いや、
あるいは、ただ単に、死んだ叔父の溝口から、情報を得ていただけかもしれない…
しかしながら、中村君には、十分に、溝口の後継者たる資質を備えている。
やはり、血は争えない…
そして、血ということを考えて、ふと米倉を思い出した。
米倉正造と、澄子は、米倉本家の血筋を引くもの…
本当に、このまま、終わるのか、考えたのだ…
いや、
違う。
そうではない…
米倉と水野の合併協議会において、すでにメンバーに、正造と、澄子の夫である、直一が入っている…
これだけ見れば、米倉平造から、米倉本家を取り戻したとも言える。
だが、だとすると、好子は、どうなる?
やはり、水野透と、結婚するのか、しないのか?
それがわからない…
いずれにしろ、終着点は近い…
私は思った…




