恋かもしれない…恋愛偏差値ゼロ 65
…現実…
この現実というものは、重い…
空想ではなく、現実…
現実に、水野透が置かれた立場を考えれば、仮に、私、高見ちづるに気があっても、私と付き合うわけがない…
米倉好子を選ぶに決まっている…
こんな、当たり前のことが、今さらながら、わかった…
私は、米倉の豪邸を後にして、用意されたタクシーに乗り、帰途に着きながら、考えた。
誰もが、現実に生きている…
置かれた状況の中で、少しでも、自分にとって、良い状況を作り出そうと、必死になって、もがいてる…
恋かもしれない…
違うかもしれない…
私は、今さらながら、考えた。
私は、水野に、そして、米倉正造に、惹かれているのは、事実だが、それも、もしかしたら、現実逃避…
33歳と、職場で、高齢になり、居づらくなってきた…
それゆえ、退職の二文字が、頭の隅にちらつき出した…
それから、逃れるために、私は、水野と、あるいは、米倉正造と、付き合いたいのではないか?
そんな思いが、心の底から、湧き上がってきた…
それゆえの、恋…
無理やり、水野と、あるいは、正造と付き合いたいと、考えたのではないか?
それが、真相なのではないか?
そう思えてきた…
が、
真実は、わからない…
自分でも、わからない…
本当に、水野が好きなのか?
あるいは、
米倉正造に惹かれているのか、自分でもわからなくなった…
わかっているのは、生きるのは、大変という事実だけだ…
仮に、今の、金崎実業を退職しても、どこかの職場で、働かなければならない…
となると、自分は、そこの職場になじめるのか?
その職場の仕事は、自分に合うのか?
当然、考える。
考えれば、考えるほど、不安になる…
不安で、圧し潰されそうになる…
これが、二十歳の小娘ならば、ここまで、不安になることは、ないだろう…
同じ不安を感じても、ここまで、考えない…
いわば、これが、歳を取るということ…
二十歳のころに比べて、現実の重みをひしひしと感じてくる…
だから、臆病になる…
それゆえ、退職の二文字が、頭の中に浮かんでも、すぐに、会社を辞めることはできない…
会社を辞めるのは、簡単だが、その次の職場を探すことが難しいのが、誰よりもわかっているからだ…
それならば、直接退職勧奨を受けるまでは、会社に残ろう…
金崎実業に、いようという思考になる…
私は思った。
と、そこまで、考えたとき、米倉の豪邸から、タクシーに乗った私の目に、見知った大柄のカラダの男の姿が、映った…
…溝口…
…溝口部長の姿だった…
金崎実業を吸収合併するかもしれない、取引先の大昭和の部長である、溝口…
おそらくは、失脚したであろう溝口の姿だった…
私は、一瞬、見間違えかと思った…
なぜなら、溝口は私服だった…
いつも、溝口と会うのは、当然のことながら、会社…
私の勤務する金崎実業か、大昭和か、どちらかだ…
だから、溝口と会うときは、いつもスーツ姿の溝口だった…
それゆえ、一瞬、見間違えた…
しかしながら、溝口は、五十代後半だが、身長が180㎝を超える大男で、体格が、プロレスラーのように、ガッチリとしている…
だから、目立つ…
大勢の人込みの中でも、嫌でも目立つ…
五十代後半で、180㎝を超える、プロレスラーのような体格の大男は、それほど多くない…
だから、顔を見れば、わかる…
仮に、同じような大柄な体格の男がいても、顔を見れば、見分けがつく。
その顔を見て、溝口に間違いなかった…
と、同時に、なぜ、ここに溝口がいるのか?
その目的を思った…
…米倉!…
私の脳裏に、米倉の二文字が浮かんだ…
おそらく、溝口は、米倉平造を頼って、あの米倉の豪邸に行こうとしているのではないか?
すでに、失脚した溝口は、米倉平造の口利きで、復権を目指しているのではないか?
米倉平造は、すでに、大昭和の株を、水野良平に売ってしまったが、平造は、良平と仲がいい…
おそらくは、それを知っている溝口は、平造を頼って、米倉の豪邸に向かおうとしているのではないか?
私はそれに気付いた。
私は、駅前で、タクシーを降りようとした。
が、その私よりも、先に、タクシーの運転手の方が、溝口に気付いた…
「…溝口さん?…」
と、小さく、呟いたのだ。
思わず、私は、タクシーの運転手に、
「…溝口さんを知ってるんですか?…」
と、訊いた。
タクシーの運転手は、突然の私の質問に、怪訝な表情を浮かべながらも、
「…ええ…何度か、お嬢さんのように、米倉のお屋敷から、送り迎えをしたことがあって…」
と、答えた。
私はすかさず、
「…溝口さんは、私の勤務する会社の取引先の部長なんです…」
と、言った。
私の言葉に、タクシー運転手は、合点がいったようだ…
「…それで…」
と、小さく、呟いた。
「…ここで、降ります…」
思わず、私は言った。
「…ここで?…」
運転手は当惑した。
すでに、駅前の一端だったが、タクシーが、停車する場所ではない…
運転手は、焦ったが、
「…お嬢さんが、そういうなら…」
と、言って、停車する場を探して、無理に、タクシーを止めてくれた。
「…ご無理をいって、すいません…」
私は詫びながら、タクシーを降りた。
料金は払わない…
すでに、米倉が私の料金を肩代わりすることを知っているからだ…
降りながら、タクシー運転手が、お嬢さんと言ったのを、聞いて、思わず、苦笑した…
…33歳は、お嬢さんじゃない!…
あるいは、タクシー運転手は、職業柄、誰にでも、お嬢さんというのかもしれない…
私は自分でいうのもなんだが、小柄で、美少女然としている…
だから、歳よりも若く見えるのは、自分でもわかる…
ゆえに、運転手が、私を若く見たから、お嬢さんと呼んだのか?
それとも、ただの営業スタイルか?
悩んだ(笑)…
悩みながらも、タクシーから降りて、溝口の背中を追った。
同時に、自分自身、こんなことをして、なんになるのか、考えた。
溝口はすでに、会社から見捨てられてる…
それは、さっき、会った米倉平造の言葉からもわかる…
平造は、溝口を評して、コウモリのような男と、言った…
これは、ある意味、最大級の侮蔑の言葉だ…
平造が、溝口をまったく評価していないことがわかる…
となれば、平造は否定したが、すでに、水野にも、その評価は知れているだろう…
大昭和の新社長は、水野良平の弟の良太…
すでに、経営権は、水野に移っている…
大昭和の旧経営陣が、一掃され、水野良太率いる新経営陣に取って変わるのは、時間の問題だ…
溝口は、それがわかっているのか?
いや、
それが、わからないほど、愚かなのか?
思わず、考えた。
しかし、誰もが、溝口の立場ならば、やはり、一縷の望みをかけるのかもしれない…
溝口は、見捨てられた…
それは、自分でもわかっているに違いない…
それがわかっているにもかかわらず、どうすることもできない…
見知った米倉平造を頼ることしか、できないのかもしれない…
そこまで、考えると、私は、正直、足がすくんだ…
このまま、溝口の背中を追うべきか、悩んだ…
心なしか、溝口の大きな背中からも、哀愁というか、以前ほど、自信に満ちた態度というか、オーラを感じなかった…
むしろ、溝口に自分の姿を見られたくない…
とっさに、そう判断した…
おそらくは、溝口は、この後、米倉の豪邸に向かうだろう…
そして、平造から、相手にされないのは、わかっている。
この先の展開は見えている…
ことによると、あの米倉の豪邸に、足を踏み入れることもできないかもしれない…
要するに、平造が面会を拒否するということだ…
そこまで、考えると、溝口が気の毒に思えてきた…
かといって、その事実を、私が溝口に告げることはできない…
よしんば、告げたとしても、結果は同じだろう…
溝口とて、バカではない…
そんなことは、百も承知の上で、米倉の豪邸に向かおうとしているのだろう…
そう考えると、私は溝口の背中を追うのは、止め、駅に向かって、帰途に着こうと、思い直した。
その時だった…
偶然だが、溝口が、振り返り、私を見た。
文字通り、目が合った。
目と目が、ぶつかった…
…どうしよう?…
とっさに思った。
溝口に見つかった…
さあ、どうする?
自分自身に問いかける。
…溝口に話しかけるか?…
それとも、このまま、知らないフリをするか?
溝口を知らない他人のフリをするか?
考えた。
溝口とて、バカではない…
ここで、私、高見ちづると会ったことを、誰かに知られたくないだろう…
溝口の目的は見え見えだ…
先ほどまで、私がいた、米倉の豪邸に、向かい、米倉平造に、自分の地位の保障を懇願するつもりだろう…
その目的に、私が気付いていると、溝口は、気付くだろう…
いや、
気付かぬわけはない…
なにしろ、米倉正造を私に初めて紹介したのは、他でもない、溝口…
溝口そのひとだったからだ…
私は、溝口と目を合わせながら、考えた。
…どうしよう?…
私と溝口は、互いに、視線を交えながら、微動だにしなかった…
お互いが、睨み合ったままだった…
おそらくは、溝口もまた、どうしていいのか、わからないのかもしれない…
溝口自身もまた、会いたくない人間に会った…
それが、本音だろう…
…知らなかったことにしよう…
…気付かなかったことにしよう…
ようやく、私の中で、決心がついた。
私は、溝口から、視線を外し、溝口のいる場所とは、違う方向に歩き出した。
が、
すぐに、私の背中に、
「…高見さん…」
と、声がかかった…
その声の主は、当然のことながら、溝口…
溝口のものだった…
…どうしよう?…
私は悩んだ…
溝口もまた、ここにいることを、私に見られたくなかったに違いない…
…このまま、溝口の声が聞こえないフリをして、歩き出すか?…
…それとも、溝口の声に応じて、振り返って、部長、ご無沙汰してます…とでも、声をかけるか?…
…どっちにしよう?…
悩んでいると、
「…高見さん…」
と、もう一度、溝口の声が聞こえた。
…これは、逃げられない!…
私は観念した。
仕方なく、振り返った。
「…部長、ご無沙汰してます…」
と、同時に、頭を下げ、声をかけた。
が、その返答は、意外なものだった…
「…もう、部長ではないよ…」
穏やかにというか、力なく、溝口が言った。
その言葉に、私が驚いて、頭を上げて溝口を見た。
すると、溝口が自嘲気味に笑っていた…
「…オレはてっきり、部長をクビになったから、高見さんが、オレに挨拶しないのかと思ったよ…」
ありえない言葉だった…
「…そんなこと…」
と、言ったきり、私は絶句した…
と、同時に、眼前の溝口は、会社の同僚や、取引先など、自分の周囲の人間から、掌を返されたのだと、納得した。
部長という肩書がなくなり、社内の出世頭の一人と見られていたのが、窓際というか、リストラ候補の筆頭に成り下がったのだろう…
その結果、周囲の誰もが、相手にしなくなった…
そういうことだろう…
「…前に高見さんに会った時に、社内の出世競争から降りて、肩の荷が下りたようなことを言ったが、現実は、甘くなかった…もはや、完全にお荷物扱いだ…」
溝口が自嘲気味に呟く。
私は溝口の言葉に、ただただ驚いた。
溝口は、上司の命令で、私の勤務する金崎実業を買収するプロジェクトチームのリーダーだった…
その買収も、大昭和の大株主である米倉が、水野に株を売り、その結果、大昭和の社長も水野の一族に変わったことで、なくなったとうか、留保した…
買収の決定を先送りした…
その結果、溝口の上司が失脚して、溝口の出世の目がなくなった…
そのことを、自分自身が悟っていた…
しかしながら、おそらくは、溝口の扱いというか、環境は、溝口自身、想像もしていなかったほど、過酷と言うか、耐えられないものだったのだろう…
部長の肩書はすでに剥奪された…
そんなことを考えていると、
「…今の職場は、倉庫係だよ…」
と、溝口が、自嘲気味に言った…
…倉庫係?…
私は呆気に取られた。
しばらく、言葉が出なかった…
大昭和の出世頭…
将来の取締役候補の一人と目されてきた溝口が、倉庫係…
あまりといえば、あまりの扱い…
まさに天と地の違いだ…
溝口が、米倉平造に会いたい理由がわかった…




