恋かもしれない…恋愛偏差値ゼロ 58
私と新造さんが、タクシーに乗ると、
「…ゴホゴホ…」
と、新造さんが、咳込んだ…
私は驚いて、新造さんを見た。
新造さんは、私の横で、ゴホゴホと、数分間咳込んでいた…
その間、私は、どうしていいか、わからず、途方に暮れた…
そんな私の心配そうな表情に気付いたのだろう…
「…大丈夫…すぐに治まりますから…」
と、意外にも、タクシーの運転手が、私に告げた。
「…このお坊ちゃまは、昔から、こうなんです…」
私は、驚いて、初老のタクシー運転手を見た。
「…この米倉のお坊ちゃまは、子供の頃から知っていますが、高校の頃から、ぜんそく持ちになって…歳をとってからのぜんそくは、治りにくいから…」
穏やかに告げる。
私は、
「…運転手さんは、米倉新造さんをご存じなんですか?…」
と、訊いた。
「…この駅で、タクシーを運転している者で、米倉家の人間を知らない人間はいませんよ…あれほどの豪邸です…これまで、米倉の豪邸にお客様をお送りしたことは、数え切れないほど、ありました…」
「…そうですか…」
私は言った。
…なるほど、この初老のタクシー運転手の言うことはわかる…
…あれほどの米倉の豪邸だ…
…大勢のお客さまが、この駅で降りて、タクシーを利用して、あの豪邸に向かったのだろう…
私は思った。
と、そこまで、考えたとき、
「…もう大丈夫だから…」
という声がした。
見ると、隣に座った新造さんが、まだ青い顔をして、言った。
「…大丈夫ですか?…」
「…ええ…なんとか…」
新造さんが、青白い顔のまま、細く、小さな声で、呟く。
「…発作が起きると、いつもこうなんです…でも、数分すれば、大抵は、治る…」
「…大抵ですか?…」
「…そう…大抵です…二十分も三十分も、発作が治まらないで、救急車で、自宅から運ばれたことも、一度や二度じゃない…だから、今は平気…今日は、まだ軽いものです…」
新造さんが、苦しそうな表情のまま、私に告げた。
私は新造さんの青白い顔を見ながら、今さらながら、今日、米倉の豪邸に伺うことを、申し訳なく思った…
「…すいません…新造さんが、そんなに調子が悪いのに、わざわざ、私を迎えに来て下さって…」
「…気にしないで下さい…オレが好きで、やってることだから…」
「…好きで…」
「…そう…好きでやってることです…このカラダです…このぜんそくとの付き合いも、もう十年以上です….だから、その日の調子は、自分でわかる…高見さんを迎えに来たのも、自分で、大丈夫と判断したからです…だから、高見さんは、なにも気にしなくて、いいです…」
新造さんが、蒼白な表情で言う。
「…でも…」
「…いや、ホント、気にしなくていいです…この前、高見さんから、電話をもらったときには、体調が、良かったんです…だから、今週は、当面、体調がいいと思っていた…それだから、今日、こうして、高見さんを迎えに来たんです…」
「…」
「…ただ、ちょっと見込み違いだったかな…」
新造さんが、蒼白な顔のまま、少し照れたような表情で、言った。
「…新造さん…」
私は言った。
ただ、その後、どう言っていいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、黙った。
車内に、数秒間の沈黙が訪れた。
すると、その沈黙を察したのか、初老の運転手が、
「…発進しますよ…お坊ちゃま…」
と、新造さんに、声をかけた。
新造さんは、蒼白な顔のまま、
「…頼みます…」
と、答え、タクシーが動き出した。
私は、タクシーの車内で、
「…」
と、押し黙ったままだった…
顔面蒼白な新造さんを隣に見ていて、いかに自分が、我がままで、自分勝手な女だと思い知った感じだった…
…なんて、自分勝手なんだろう…
…新造さんが、こんなに体調が悪いのに、わざわざ出迎えに来させて…
自分の愚かさを呪った…
そんな落ち込んだ、私の表情に気付いたのだろう…
「…高見さんが、悪いわけじゃありませんよ…」
と、突然、新造さんが、呟いた。
「…高見さんが、この前の電話で、水野の親父さんが、高見さんに、どうして、姉貴が水野を好いてないのか、教えてくれと、頼まれたと、言ったでしょう…アレで、今日、高見さんに会うことにしたんです…」
「…水野の親父さん?…」
まるで、旧知の仲のような言い方だった…
「…新造さんは、水野さんのお父様をご存じなのですか?…」
「…知ってますよ、子供の頃から…」
「…子供の頃から?…」
「…親父同士が、仲が良かったから、昔は、しょっちゅう家に遊びに来たんです…」
「…遊びに…」
私は、あまりにも、意外な言葉に、唖然とした。
「…ということは、新造さんは、水野さんの息子さんのことも…」
「…透ですか? …当然、知ってます…」
私は、新造さんの言葉に、ただただ驚いた。
まさか、新造さんが、あの水野を知っているとは、思わなかった…
「…ということは、新造さんだけでなく、米倉家のひとは、誰もが、あの水野さん父子を知っているということですか?…」
「…いや、父子というのではない…」
「…父子ではない? どういうことですか?…」
「…うちによくやって来たのは、水野の親父だけです…」
「…お父様だけ?…」
「…透は、あの親父の愛人の子です…だから、子供の頃は、ウチにやってくることはなかった…初めて会ったのは、たしか、中学生ぐらいに透がなっていたかな…」
新造さんが言う。
私はそれを訊きながら、以前、好子さんが、水野について、
「…たしか、聞いた話だけど、あの息子さんは、水野さんの愛人の子供で、子供がいない水野さんが、養子縁組をして、水野の家に入った…」
と、言ったことを思い出した。
そして、あのとき、好子さんは、聞いた話だけどと、わざとボカシて言っていたが、なんのことはない…
本当は、水野の父も息子も、知っていたわけだ…
私は、それに気付いた。
「…ということは、好子さんも、透さんとは、子供の頃から、面識がある?…」
私の問いに、
「…その話は、家に着いてから、しましょう…」
と、新造さんが、言った。
私は、新造さんが、この前の電話で、
「…壁に耳あり、障子に目ありという言葉があるけど、外で話すと、誰が聞いているかわからないから…」
と、言ったことを、思い出した。
ここは、タクシーの車内で、私と新造さん以外には、初老のタクシー運転手しかいない…
しかしながら、そのタクシー運転手の口から、洩れる可能性は、当然ある。
だから、今は、その話をするときではない…
米倉の豪邸に着いてから、するべきだ…
私は思った。
その後、米倉の豪邸に着くまで、私と新造さんは、押し黙ったままだった…
車内で、迂闊に、米倉と水野の話をすることは、厳禁だが、それでなくとも、新造さんの青白い顔を見ると、やはり、話しかけづらくなる。
体調が悪いのは、誰の目にも明らかだからだ…
私は、今さらながら、申し訳ない気持ちになった…
「…着きました…」
ほどなく、初老のタクシー運転手が告げた。
「…ありがとう…」
新造さんが、告げ、私と新造さんは、タクシーから、降りた…
すると、すぐに、お金を渡す間もなく、タクシーが出発してしまった…
私は思わず、
「…会計が…」
と、言って、走り出そうとした。
その私の肩を、いきなり背後から、新造さんが、掴んだ…
「…高見さん…いいんです…」
「…いいって?…でも、まだ会計がすんでないですよ…」
「…後で、会計はします…」
「…後でって?…」
「…この家にやってくる客は多い…その料金は、いつも、米倉の家で、まとめて、払うことにしているんです…」
「…米倉の家で?…」
「…そうです…米倉の家の者が使うだけでなく、米倉の家にやって来た客の分も米倉が払う…それが、昔からのやり方なんです…」
「…そんな…」
私は、新造さんの言葉に驚いた。
と、同時に、お金持ちは、私のような平民の及びもつかない行動をすると思った。
自分たち家族がタクシーを使った料金は、ともかく、自分たちの家にやって来たお客の分まで、料金を払うとは?
つくづく、お金持ちは違うと思った。
と、同時に、そんなお金持ちに、これまで、一度も接したことのない、自分を思った。
今さらながら、身分の差を痛感した…
ひょっとして、自分は、場違いのことをしているのはないか?
そう思った…
いくら、水野の父、良平に頼まれたからといって、なにを勘違いしているのだろうと思ったのだ…
私と、米倉や水野とは、生まれつきの身分が違う…
違い過ぎる…
米倉や水野は、お金持ちの上級国民…
一方の私は、平凡な一市民…
違いがあり過ぎる…
いかに、水野の父親に頼まれたからといって、断るのが筋ではなかったのか?
自分の立場を思い知らなければ、ならない…
私は、米倉の豪邸を見上げながら、今さらながら、考えた。
「…どうしたんです?…」
私が、そんなことを考えていると、ポンと、新造さんが、私の肩を叩いた。
私は、一瞬、悩んだが、
「…私、場違いなことをしているかもと思って?…」
「…場違い?…」
「…だって、新造さんは、こんな大きなお屋敷の一族で、私は一般人…それが、同じようなお金持ちの水野さんの父親に頼まれて、好子さんのことを訊こうとしている…でも、そんな重要なことを、私がしようとしていることが、そもそもの間違いじゃないかって…」
「…間違い?…」
「…だって、身分が違い過ぎる…」
私は呟いた。
私の言葉に、新造さんが、大きな目を見開いて、驚いた。
そして、言った。
「…高見さんが、そう言うのは、わかる…でも、おんなじだ…」
「…同じ?…」
「…オレは、この通り、今、ぜんそくで、苦しんでる…これは、金があろうがなかろうが、ぜんそくで、苦しむのは、おんなじだ…金があれば、治るわけじゃない…そう考えれば、どんな人間も、たいした違いはない…」
新造さんが、青白い顔で、言った。
私は新造さんの言葉を考えた。
新造さんの言うことはわかる…
ウソではない…
しかしながら、これは、私、高見ちづるを気遣っての言葉…
ウソではないが、だからといって、私と新造さんが、同じレベルの人間ということは、ありえない…
同じ身分の人間ではない…
だが、それをわかっていながら、そう告げる、新造さんの優しさが嬉しかった…
なにより、ぜんそくに悩まされ、自分の体調が悪いにもかかわらず、私を気遣ってくれる優しさが嬉しかった…
今さらながら、新造さんの優しさが身に染みた…
同時に、これまで、自分の周りに、新造さんのような人間が、身近にいないことに気付いた。
…いいひとだ…
今さらながら、思った。
外見はいかにも、頼りないし、事実、ぜんそく持ちの病弱だった…
しかしながら、その心の内は、これまで、知り合った人間の中の誰よりも、暖かい…
なにより、いっしょにいて、ホッとする…
…こんな弟がいれば、いいな…
不意に思った。
と、同時に、好子さんが、この新造さんを、大事に思う気持ちが、わかった…
この米倉新造さんは、米倉好子さんに、とって、理想の弟なのだ…
どこか、頼りないが、性格は良く、おまけに、病弱…
常に、自分が面倒を見なければ、と、思わせる存在…
そして、それが、負担ではなく、むしろ、嬉しいとまではいわないが、やりがいになる…
自分が、病弱な弟の面倒を見なければ、という思いにさせる…
そして、それこそが、米倉好子が、弟の新造を可愛がる理由だった…
私は、それに、気付いた…
そして、以前、好子さんが、この新造さんに、なにか、自分に、あったときは、高見さんに、相談しなさいといったのは、おそらく、好子さんは、私に、同じ匂いを感じたから…
米倉好子さんは、外見だけでなく、性格もまた、私、高見ちづると似ていると、判断したのだろう…
だから、私に、相談しなさいと言ったに違いない…
私と、米倉好子は似ている…
外見だけでなく、その中身というか、思考形態が似ている…
ということは?
ということは、私が、米倉好子になりきったつもりで、水野のことを考えれば、なぜ、好子さんが、水野を嫌っているのか、わかるはず…
不意に、そう思った…
いや、だとすると、むしろ、米倉好子は、あの水野に惹かれていても、おかしくはない…
なぜなら、私が、惹かれているからだ…
これは、好子さんの兄の正造にも当てはまる…
兄と思われた米倉正造もまた、水野に似ている…
私が、正造と水野に惹かれたのは、その落差…
正造は、そのいかにも信頼できる、爽やかな外見と、真逆な、心…
そして、
水野は、そのおちゃらけた態度と、真逆な、心を内に秘めている…
それが、あの二人に共通する点…
いわゆる、内面と外面の落差に他ならない…
私と、好子さんが、似ているのならば、好子さんも、同じように、水野に惹かれていても、おかしくはない…
だが、現実、好子さんは、水野を嫌っている…
だとしたら、その理由はなにか?
それは、ひょっとして、この新造さんのせいではないのか?
私は、思った…
好子さんにとって、新造さんは、なにものにも代えがたい存在…
大切な弟だ…
好子さん自身は、水野に惹かれているが、おそらく、水野を信頼できないのではないか?
米倉好子にとって、弟の新造は、誰よりも可愛く、生涯面倒を見る存在なのではないか?
そして、水野と好子さんが、結婚した場合、水野は、新造さんの面倒を見ないと判断したのではないか?
つまるところ、米倉好子にとって、弟の新造は、夫ではないが、生涯のパートナーというか、面倒を見る相手…
そう思っているのではないか?
すると、もうひとつの可能性が、脳裏に浮かんだ…
以前、米倉正造は、好子さんは、私、高見ちづる同様、男と付き合ったことがないと告げた…
そのとき、私は、好子さんは、美人…
そして、なにより、お金持ちだから、相手選びに慎重になるのでは? と考えた。
好子さんの美貌とお金に、惹かれて、無数の男が、集まるからだ…
しかし、
しかし、だ…
もし、米倉好子が、自分が、米倉を受け継ぐ人間だと、昔から、知っていたとすれば、どうなる?
父の平造から、本当は、米倉の正当な血筋ではないにもかかわらず、自分が、米倉を受け継ぐ人間だと知っていたら? どうなる?
その結果、自分の夫選びにも、慎重になるし、耐えがたいプレッシャー=重圧になる…
そのプレッシャー=重圧に負けて、酒に溺れ、睡眠薬も併用して、意識を失ったんだとしたら?
辻褄は合う…
あくまで、推測に過ぎないが、その可能性は否定できない…
私は、この米倉の豪邸を目の当たりして、考えた…




