恋かもしれない…恋愛偏差値ゼロ 43
「…その振り出しって、一体なんの…」
私が言い終わらない間に、
「…金崎実業に対する大昭和の買収の一件です…」
またも、中村君が、横から口を挟んだ…
私は唖然として、中村君を見た。
それから、中村君の叔父である、溝口を振り返った…
たしかに、金崎実業に対する大昭和の買収が、振り出しに戻るのであれば、これまで、溝口が、密かに買収に際して、労した努力は、すべて無駄になる…
そう考えれば、否が応でも、溝口の落胆がわかる…
なにしろ、溝口は、金崎実業の買収に二年もかけてるのだ…
その二年の努力が、すべて無駄になる。
これまで、私は溝口の落胆は、あくまで、大昭和の社内の評価だと、考えていた。
つまり、溝口は、上から、金崎実業の買収を命じられ、その任務を忠実に実行した…
その評価が、大昭和の大株主が、米倉から水野に代わることで、覆るというか、無になった…
そう考えていた…
つまり、わかりやすく言えば、店の経営をオーナーから任されて、運営していた…
そして、一定の利益を得ていた。
しかしながら、店のオーナーが代わって、やり方が変わる…
それまでの、自分の努力が認めてもらえない可能性が出てきた…
そういうことだろう…
米倉は、大昭和の今の経営に口を出さなかった…
しかし、水野は違うかもしれない…
なにしろ、そのお坊ちゃまは、自ら、身分を隠して、買収先の会社に接触しようとする、行動力の持ち主…
その父親にしても、どんな人間か、わかったものではない…
私は考える。
しかし、
ということは?
ということは、もしかしたら、大昭和による、金崎実業の買収は、白紙になったということか?
振り出し=白紙になったということか?
私は思った。
米倉平造は、大昭和による金崎実業の買収を了承したが、水野は、了承しなかったということか?
しかしながら、もし、そうだとしたら、なぜ、金崎実業の買収が、世間に知れた…
テレビや新聞で、流れた…
考える。
「…振り出しに戻ったということは、白紙に戻ったということですか?…」
私は溝口に訊いた。
「…いや、違う…振り出しは、振り出しだ…」
溝口が言う。
「…どういう意味ですか?…」
意味がわからなかった…
「…つまり、保留中ということだ…」
溝口が苦々しげに言う。
「…保留中?…」
「…そうだ…水野は、大昭和による金崎実業の買収に、なんの答えも出さない…OKか否か、聞いても、考えさせてくれの一点張りだ…」
「…」
「…それで、上の一部の人間が、マスコミにこの買収劇をわざと漏らした…二年の努力が、株主が変わったぐらいで、白紙になるのは、堪ったものじゃないと…その結果、その行動が、水野に知れて、取締役解任の動議が、今度の緊急取締会で、議題に上がるそうだ…」
「…取締役解任ですか?…」
「…ああ…」
力なく、溝口が頷いた。
私は、おそらく溝口は、その取締役となんらかの関係があると睨んだ…
会社には、派閥がつきもの…
これは、いい悪いではなく、人間が集まれば、いやでも派閥ができる。
学校を例にとれば、わかりやすい…
小学校でも中学校でも、男女とも、仲の良い者同士が、集まる…
要するに、クラスにいくつかのグループができるというわけだ…
これは、会社でも同じ…
ただし、その違いは、クラスのグループは、横のつながりだが、会社の派閥は縦の繋がりだということだ…
そして、その先輩なり上司が自分を引き上げてくれる=出世させてくれる…
溝口の場合は、今回、水野によって、その上司が失脚=取締役を解任されるのでは?と、考えた。
要するに、溝口の属する派閥の長=リーダーが、会社から追放されるのだ…
当然、次は、自分が狙われる可能性がある。
いや、
そこまで言わなくても、自分の属する派閥のリーダーが、会社から追放されたことで、もはや溝口に、出世の目は消えたのではないか?
そして、それが、わかっているからこそ、このように、落胆しているのではないか?
私は、そう考えた。
なにより、金崎実業の買収を水野の了承を得ることもなく、世間に公表するというのは、当然、自分が、溝口同様、金崎実業の買収に関わっていたと考えるのが筋…
つまり、普通に考えれば、溝口に、金崎実業の買収を指示した人間である可能性が高い…
自ら、金崎実業の買収に関わったにも、かかわらず、水野にその買収を否定されるかもしれない…
つまり、これまで、買収にかけた労力が、すべて水泡に帰すかもしれない…
その怒りが、原動力というか、力になって、まだ正式に決まってもないこと=金崎実業の買収をマスコミに公表したに違いない…
マスコミに公表することで、買収を既成事実化しようとしたに違いない…
もしかしたら、すでに、金崎実業の上層部とは、大昭和の上層部も接触済みで、買収も了承済みだった可能性も高い…
いや、そうに、違いない…
そこまで、考えて、ようやく、私は溝口の落胆の理由がわかった…
溝口は、この買収の件で、責任を取らされ、閑職に飛ばされる危険もある…
それが、わかっているからこそ、溝口は落ち込んでいるのだ…
溝口のプロレスラーのような、大柄なカラダが、小さく見える理由があらためて、わかった(笑)…
そして、そこまで、わかると、今度は、溝口に、なんと、言葉をかけていいか、わからなかった…
溝口の置かれた状況が、あまりにも、厳しいからだ…
溝口は、ただ、私を見て、力なく、薄ら笑いを浮かべていた…
それは、見ようによっては、敗者の笑いだった…
自分が、負けたことを悟った笑いだった…
しかし、その敗者であるはずの溝口が、私に一体何の用事があるのか?
あらためて、思った…
…まさか?…
…まさか、私に水野との橋渡しを頼むとか?…
私の脳裏に、そんな考えが浮かんだ…
「…部長…今日、私を呼んだわけは?…」
私は、思いきって、訊いた。
さもないと、いつまでも、溝口の口からは、どうして、私を呼び出したのか、訊けない気がしたからだ…
「…高見さんを呼んだわけは…」
溝口はゆっくりと口を開いた。
「…叔父さん…」
その溝口に、甥の中村君が、たしなめるように、キツイ口調で、声をかけた。
溝口は、中村君を一瞥して、
「…大丈夫…オマエが心配することじゃない…」
と、穏やかに、諭すように、言った。
私は、もしかしたら、中村君もまた、私同様、溝口が、水野との関係の修復を私に願い出てくるのでは、と、思ったのではと、考えた…
私は、水野の連絡先は知らないが、米倉正造や、好子を通じてならば、水野と連絡を取ることも可能…
それを、私に頼もうとしているのでは、と、思った…
それゆえ、中村君は、今、溝口にキツイ口調で、
「…叔父さん…」
と、呼んだのではないか?
もし、そうだとしたら、みっともないというか、哀れというか…
普段、堂々として、威厳のある、溝口におよそ似つかわしくない行動だ…
甥の中村君としては、そんな溝口の姿を見たくなかったのかもしれない…
「…今日、オレが高見さんを呼んだのは、コイツのことだ…」
「…中村君のこと?…」
思いもかけない溝口の言葉だった。
私が中村君を振り返ると、中村君自身が、鳩が豆鉄砲を食ったようというか、呆気に取られた表情で、溝口を見ていた…
「…そうだ…高見さんから、米倉正造氏を通じて、水野に、この中村君の処遇をお願いできないかなと思ってな…」
あまりにも、想定外の言葉だった…
なにより、当事者である、中村君が、驚いていた…
「…でも、それなら、部長が、ご自身で、米倉正造氏を通じて、水野さんに頼めば…」
「…それも、考えた…」
溝口が口を開く。
「…だが、水野に面識のないオレよりも、面識のある、高見さんの方が、適任と思ってな…それに…」
「…それになんですか?…」
「…こういった頼み事は、男より女の方がいい…なにしろ、水野は高見さんと同じ年齢ぐらいの男だ…それにコイツから、高見さんと水野は、仲がいいと聞いているからな…」
「…私と水野さんが、仲がいい?…」
私は驚いて、中村君を振り返る。
が、中村君は、溝口のあまりにも、意外な申し出に、鳩が豆鉄砲を食らった表情のままだった…
「…コイツを、大昭和に転職させてくれと頼みたいところだが、そこまでは言わない…せめて、金崎実業で、公平に出世の道を開かせてやりたいんだ…」
溝口が、絞り出すような声で言った…
「…頼む…」
溝口が、私に頭を下げた。
私は、どうしていいか、わからなかったので、つい、隣の中村君を見た。
中村君は、
「…叔父さん…」
と、だけ言って、絶句していた。
中村君もまた、予想外の溝口の行動に、唖然としていた。
それは、私も同じだった…
私も、正直、どう言っていいかわからなかった…
どう、言葉をかけていいか、わからなかった…
私は、とりあえず、
「…部長、頭を上げて下さい…」
と、だけ、言った。
それ以外、言いようがなかった…
いつも、堂々として、威厳の塊のような態度の溝口の、そんな姿は見たくなかった…
以前、米倉正造との見合いで、溝口が、今と同じように、私に頭を下げたことがあったが、あのときと、今では、状況が違った…
あのときは、出世競争の階段を先頭で、上る男だった。
溝口の未来は、前途洋々だった…
が、今の溝口は、その出世競争に敗れ、落ち込んでいる敗者だった…
その結果、自信を無くし、自分より、二十歳も年下の私に頭を下げている。
その頭は、頭頂部が薄くなりかけていた。
普段、180㎝を超える大男の溝口の頭頂部を見ることは、あまりない…
誰もが、溝口よりも、背が低いからだ…
ゆえに、溝口の頭頂部を見ることができない…
とりわけ、私のように155㎝と、小柄な女ならば、なおさらだ…
前回、溝口に頭を下げられ、初めて、溝口の薄くなりかけた頭頂部を見たときは、思わず笑ってしまったが、今では、笑うどころか、薄くなりかけた頭頂部に、溝口の年齢を感じさせて哀れだった…
50歳を超え、前途洋々な、自信の塊だった、溝口から自信=オーラが消えて、今は、ただの大柄な中年男に過ぎなかった…
成り下がったといってもいい…
「…部長、顔を上げて下さい…」
私はもう一度繰り返した。
溝口は、私の声で、ゆっくりと顔を上げた。
「…では、高見さん…水野に…」
溝口が言い終えないうちに、
「…叔父さん…」
と、中村君が声をかけた。
これ以上、溝口の惨めな姿を見るのが、忍びないに違いない…
「…オマエは黙っていろ…」
溝口が鋭く言った。
私は悩んだが、一瞬後、これはチャンスだと思った…
水野に会うチャンスだと思った。
溝口の頼みを聞き入れることで、水野と会うきっかけを作ることができる。
溝口の頼みを口実に、米倉正造か米倉好子に頼んで、水野と会うことができる…
水野と再会できる!
そう考えると、ここで、溝口の依頼を受けるに越したことはない…
そこまで、考えたとき、
「…わかりました…部長…」
という言葉が、自然と、私の口から出た。
溝口の顔が喜色満面といってはなんだが、ホッとした表情になった…
「…頼まれてくれるか?…」
「…ハイ…」
私は言った。
「…水野さんと会って話してみます…」
「…そうか…ありがとう…」
溝口は、言った。
「…これで、オレの役割は終わった…」
溝口が言う。
「…役割? …ですか?…」
予想外というか、思ってもみない、溝口の言葉だった…
「…そうだ…これで、オレはオレの人生を生きれる…」
溝口がホッとした表情でいう。
「…オレの人生を生きれるって、どういうことですか?…」
「…こう言っては、身も蓋もないが、出世競争は疲れる…だから、一時も早く、その舞台から降りたかった…」
「…」
「…遊園地のメリーゴーランドじゃないが、一度会社で、自分が出世競争の舞台に上がると、自分の意志では、その舞台からは、降りれない…だから、今度のことで、出世の目がなくなったことで、これから好きに生きれる…」
溝口の顔から、憑き物が落ちたように、スッキリとした表情になった…
明らかに強がりではない溝口の言葉だった…
溝口の表情がそれを物語るというか、表していた。
「…叔父さん…」
中村君が声をかけた。
「…これでいいんだ…」
溝口が自分自身に言い聞かせるように言った。
「…これでいい…」
私は黙って溝口の顔を見た。
それから、中村君の顔を見た。
中村君もまた私同様、溝口の顔を見ていた。
当然だ…
中村君は甥…
溝口の甥だ…
「…オレはこれから、オレの人生を生きる…オマエはオマエの人生を生きろ…」
溝口が、中村君に言った。
「…叔父さん…」
中村君が、絶句する…
まるで、叔父と甥の今生の別れのような光景だった…




