ゴブリンの場合 ―敵討ち―
誰も、俺のことを気にも留めない。母は、一日の大半を病室で過ごし、帰宅するとすぐに寝室にこもる。何日も口を利いていない。湿った匂いを放つ洗濯物が無造作に積み上げられ、さらに気分を荒廃させる。重い。体も瞼も空気も重い。静けさが、俺を裁判にかける。
黒い感情に溺れてしまわないように、自転車を思い切り漕ぐ。その間だけ、息ができる。
「うおーーー」
どれだけ大声を張り上げても、気が晴れない。
クソっ、クソっ、クソっ、クソっ、クソっ、クソっ、クソっ、クソっ。どうして、こんな目に合わされるんだ。俺が何をしたというんだ。俺は悪くない。すべてをあの黄色と緑の目をした猫に壊された。あいつは、悪魔だ。あいつだけは許さない。
学校の帰りに、BB弾を発射できるモデルガンを購入した。サバイバルゲーム用の本格的な小型ライフルだ。店員によると、イギリス軍が使用しているライフルを忠実に再現したエアライフルで、射程距離は百メートル、三十メートル先のアルミ缶なら撃ち抜けるほどの威力があるらしい。三万円の出費は痛いが、躊躇はしなかった。
一旦家に戻って、学校の鞄を置き、ライフルをスポーツバッグに入れて用水路に向かった。斜面を降りて、用水路の縁まで来ると、ライフルを取り出し、マガジンにBB弾を詰める。
ライフルを構え、照準を川底にある石に合わせて、トリガーを引く。軽い衝撃と小気味よい音とともにBB弾が発射され、石に当たって乾いた音を響かせた。
「いいねぇ」
用水路の縁を歩いて子猫を探す。気持ちが逸り、自然と早足になっていく。しかし、こちらの気配を感じさせてはいけない。極力音を立てず、目立たないように気を付けながら、歩き続ける。
用水路の向こう岸に、別の茶色い猫を見つけた。まだこちらには気が付いていない。音を立てないようにしゃがみ、ライフルを構える。照準に気持ちを集中させると、途端に視野が狭くなり、なかなか合わない。照準から目を外すと、その気配に気づかれてしまい猫に逃げられてしまった。
「くそっ」
用水路に沿ってコンクリートの縁を歩き続ける。途中でスズメやカラスを狙ってみたものの外した。そして、ようやく用水路のヘドロの中州の上に、あの子猫がよろよろ歩いているのを見つけた。昨日よりも痩せているように見えた。ゆっくりしゃがんで、ライフルを構え、時間をかけて猫の肩に照準を合わせる。
―撃っていいのか?
―璃子の敵だぞ。いいに決まってる。
―まだ子猫なのに?
―そんなの関係ない。あの猫が悪い。
ためらいが、指先を震わせる。
―弱ってるぞ? 見られたら虐待してるって言われるぞ?
―こっちには、撃つだけの理由がある。
―子猫を撃ちたいだけなんじゃないのか?
―そうだよ。撃ちたくてウズウズしてる。
指先の震えを抑えながら、トリガーに掛けた指に力を入れた。衝撃と同時に「ギャゥ」という子猫の声が聞こえた。驚いて逃げていく子猫に再び照準を合わせ、トリガーを引く。今度は、子猫の腹に当たり、弾むように倒れた。激しい運動をしたわけでもないのに息が荒い。そして、石を当てたときと同じ、痺れるような感覚が身体を駆け抜けた。
「へっ。やった」
ぬるい熱風が汗だらけの背中を柔らかく撫でた。
ライフルを鞄に仕舞い、肩に担ぐと、用水路の縁に指をかけてぶら下がり、用水路に飛び降りた。淀んだ水の細い流れを避けながら、ヘドロの中州の上を歩いて子猫のところまで行く。
力なく横たわる子猫を上から見下ろした。息をするたびに、血が滲んだ腹がわずかに動く。つま先で子猫の背中を軽く蹴ってみた。子猫の頭が傾いて、黄色と緑の目がこちらを向いた。
「こいつ……」
鞄からライフルを取り出し、構えて、銃口を子猫のこめかみに合わせる。全身から汗が吹き出し、体中が小刻みに震えているのに気が付いた。荒い自分の呼吸音と鼓動が耳の中で大きく響いている。こわばる口角を無理やり引き上げ、強く深くトリガーを引いた。
面会時間の終了間際、見舞客が誰もいない璃子の病室に入った。何もかもが白くて境界線があやふやな空間の中に、璃子が紛れていた。白さと消毒液が、あらゆる汚れを清めているようで気に食わない。唇にも瞼にも、まるで生気が感じられない。肌には、張りがあるものの生きるための熱を感じない。ベッドの縁に座って、髪を撫でながら話しかける。
「敵を討ったぞ。子猫を殺してやった」
璃子の瞼がほんのわずかに上がったような気がした。そして、薄く開いた隙間から、侮蔑と憐みが俺を見ていた。
「なんだよ」
立ち上がり、鞄からライフルを取り出した。銃口を璃子の眉間に当てて、トリガーに指をかける。
「お前も殺してやる」
璃子の目を見る。指先の震えを抑えられない。
「ははは」
俺は、ライフルを下ろした。




