ゴブリンの場合 ―決別―
電車の座席でネクタイを締め直しつつ、公園で見た猫を思い出していた。右が緑、左が黄色の目は、用水路で見た猫とまったく同じに思えた。見透かしたようなあの視線まで。しかし、用水路の子猫が生きているはずはない。二十五年も前の話だ。オッドアイの猫を見かけただけで、これほど動揺する自分に驚いた。ポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐう。
電車を降り、改札を抜けて、会社に戻る。その道すがら、猫を何匹も見かけた。ビルの間や高速道路の高架下のフェンスの向こう側、コンビニの駐車場、ゴミ収集場の脇、住宅の塀の上、公園のベンチの下。こんなに猫がいるということに気が付かなかった。どの猫も俺のことを見る。その視線を振り切るように大股で歩く。
―あのとき、あの子猫が俺に何をした?
―あんな目で俺を見て、璃子の怪我を俺のせいにした。
―何もしなかったじゃないか。
―猫は、存在悪なんだ。猫なんていなくなればいい。
帰宅すると、物置部屋の一番奥にしまわれていた段ボール箱を取り出して、カッターで封を切った。ライフルを手に取って、構えてみると、あの時の高揚感がよみがえる。マガジンにBB弾を詰め、ゴミ箱からビールの空き缶を拾うと、リビングのテーブルに並べて、順番に撃ち倒した。
金曜日の午後六時五十五分、俺は、美香が指定したカフェの前にいる。昨日の夜、珍しく美香から電話があった。話があるというが、間違いなくろくでもない話だ。強い風が数秒ごとに向きを変えて、暑苦しい分厚い雲から吹き降ろす。長い棒で突っつけば、きっと大粒の雨が一斉に落ちてくるだろう。
美香は、隣の営業チームの同僚だった。同い年で、誕生日が近いと分かって、距離が縮まった。仕事の苦労を分かち合い、リスペクトがあった。気が強いところがあるが、見た目よりも繊細で、落ち込みやすい。そのギャップに人間味を感じ、親しみを持った。幸せや心地よさを共有できると信じていた。結婚式の美香は、本当に美しかった。鼻のラインがシャープでありながら、優しさが滲んだ輪郭、希望と幸せに輝く瞳は、今でも思い浮かべることができる。誰もが祝福してくれ、幸せのピースはこれで全部そろったと思い込んでいた。
しかし、娘が生まれて、ギアがかみ合わなくなってきた。娘を心の底から愛している。それは、今もゆるぎない。仕事に忙殺されて、一緒に過ごす時間は確かに少なかった。その分、欲しいというものは、すべて買い与えてきた。やりたいということは、すべて許してきた。子育てについて、口を挟んだこともない。自分のことは後回しにして、自由にさせてきた。仕事だって、管理職になればきっと落ち着く。そしたら、思い描いてきた幸せを形にできる。そんなこと、美香だってわかっているはずだ。それなのに、夫として、父親として、失格だというのだ。
「お待たせ」
美香が、いつになくめかし込んでいる。見覚えのない水色のワンピースに、長く伸びた髪はきれいに切りそろえられている。しっかりと描かれた眉に、鮮やかな口紅。こんな化粧をする女ではなかったはずだ。美香は、カフェの扉を開け一人で入っていく。慌てて美香の後について入った。
こぢんまりした店で、狭い二人掛けの青い木製のテーブルが十ほど並んでいる。窓際の席に着くと同時に、ウェイターが水とメニューを運んできた。メニューを受け取って、ほとんど間を置かずに注文する。
「私は、ホット」
「俺も」
ウェイターは一礼をして、去っていく。
「久しぶりだな」
美香のリズムで会話が進むことを嫌って話しかけた。
「前置きは、もういいの」
美香は、グラスを手に取ると一口水を飲む。
「そろそろ、はっきりさせましょう」
美香は、隙を見せまいと、大きめの声で活舌よく話す。
「一方的だろ。話すことは、まだある」
「何があるっていうの? お金?」
俺は、一寸、天井を仰いでため息をついた。
「そうだな。金は大事だ。家だって……」
「家はいらないわ。一からやり直したいの」
「ほぉ。男でもできたか」
美香の開き直りを感じ取って、喉の奥に渦巻く不満や不信、憎しみを思わず口走った。美香は、呆れたように短い溜息を一つ付いた後、大きな声で吐き捨てる。
「バカじゃないの?」
コーヒーを運んできたウェイターが立ち去るのを待って話を続ける。
「俺は何も悪くない。出ていくなら、慰謝料を請求する」
「家庭を顧みない男の典型なのに」
顎を持ち上げ、軽く鼻で笑う。
「いつも決めつけて、拒絶するのはそっちだろ?」
「あなたに勝ち目はないわ。養育費、払ってもらいますから」
荒げた声を抑えるために、水を一口飲む。
「葵はなんていってんだ?」
「私と一緒が良いと言ってる」
美香がハンドバッグの中から封筒を取り出し、立ち上がりながらこちらに突き出す。
「葵と直接話したい」
「好きにすれば。これ、離婚届。書いて出しておいてね」
美香が、テーブルの上に千円札を置いて背中を向けた。
「おい、ふざけるな」
「それで足りるでしょ?」
美香は、振り返って軽蔑の視線を投げて、そのままカフェを出て行った。美香の姿を追いかけるように窓の外を見ると、白い猫が美香と同じような目でこちらを見ていた。




