ゴブリンの場合 ―理不尽―
診断結果を母と一緒に聞いた。ブラインドがきっちり締め切られた薄暗い診察室で、青白い顔色の医師が重々しく告げる。
「脳挫傷で、事態は深刻です」
脳内に出血と腫れがあり、昏睡状態が続いている。
「意識が戻る可能性は、ないわけではありませんが、極めて低いでしょう」
母は、診察室を出ると人目もはばからず声を上げて泣いた。俺は、どうすることもできずに、母を見ていた。不思議と涙は出なかった。
「どうして、璃子を止めなかったの?」
母は、成績が良く、快活で、陸上部のエースだった璃子を誇りに思っている。俺にとっても璃子の兄であることは、数少ない取り得のひとつだった。
「止めたよ。あいつが聞かなかったんだ」
「お兄ちゃんでしょ? 代わりに行くべきでしょ?」
母は、顔すら見ずに、声色だけで汚名を着せる。
「なんでだよ」
「あんたは、男でしょ? それに璃子の代わりはいないのよ」
「俺ならいいっていうのかよ」
「そうよ、璃子を返してよ」
母が廊下の真ん中でうなだれて、泣き続けている姿を見て璃子に深く嫉妬した。
家に帰りたくない。帰ったところで誰もいない。かといって学校に行っても仕方がない。しばらく自転車でさまよった挙句、事故が起こったガードレールのところにやってきた。道路の脇に自転車を止めて、同じ場所から用水路の縁まで降りていく。璃子が落ちた場所を見下ろした。
―璃子が無茶をするからだ。
―璃子を止めることもできたはずだ。
―いや、そんな時間もなかった。
―やりようはあったんじゃないか?
―じゃ、俺が行けばよかったのか? こんな高い壁を飛び降りてまで?
―ケガすることぐらい、予想できただろ?
―勇気がなかった。いや、面倒だった。靴が汚れるし、汗もかきたくなかった。
―ちょっと手伝ってやれば、こんなことにはならなかった。俺は最低だ。
―いや、あんなところに猫がいたのが悪いんだ。そうだ、猫が悪い。
子猫の声がした。左右の目の色が違うあの子猫が、遠くにおぼつかない足取りで川底を歩いている。
―お前がいなければ、お前が鳴かなければ、こんなことにはならなかった。
子猫に向かって思い切り石を投げつけてみる。大きく外れ、用水路の壁に当たって、乾いた音が反響する。子猫は、驚いて逃げるが、悪い足を引きずり早く走れない。
「くそっ」
子猫が段差をうまく登れず、立ち往生しているのが見えた。子猫から目を離さず、用水路の縁を大股で歩くうち、いつの間にか走っていた。雑草と壁に垂れ下がる蔦を避けながら夢中で走る。突然、足が取られた。体が浮いて前に倒れる。咄嗟に手を突いて、手のひらに痛みが走った。ゆっくり起き上がって、手のひらを見ると、擦りむいて血が滲んでいる。
「このぉ。お前のせいで」
落ちているものを手あたり次第拾って、子猫に投げつける。汗にヘドロの匂いが染み込んで、ヘドロをまとっているような気分だ。
子猫に石が当たり、よろけて座り込む。俺は、驚いて手を止めた。子猫は何が起こったかわからない様子で、警戒しながら周囲を見回し、ふら付きながら立ち上がる。
鼓動が血管を伝って、細胞のひとつひとつまで同じリズムで波打つ。血が騒いだ。必死で逃げていく子猫の後姿に、背中がゾクゾクする。震えているのに、妙な笑いが込み上げてきた。




