一切皆空
リノンに連れられて辿り着いたのは、霧に包まれた険しい渓谷だった。
「ねえレンジ、この先に『精霊の雫』が湧く泉があるの。そこなら、高いポーションを買わなくても魔力を補充できるわ!」
リノンは意気揚々と進むが、レンジの目は周囲の岩壁に刻まれた「不自然な傷跡」を逃さなかった。
「……リノン、止まれ。この傷、獣じゃない。鋭利な刃物による断裁痕だ。それも、相当な手練れの」
「えっ?」
霧の向こうから、カツン、と硬い足音が響いた。
現れたのは、白銀の長髪を後ろで束ねた、冷徹な美貌を持つ青年だった。身に纏うのは東方の装束を思わせる漆黒の着流し。腰には一振りの長刀を帯びている。
「……ここから先は、我が主君の命により封鎖している。立ち去れ、俗物が」
青年の瞳には、感情の機微すら存在しない。まるで完璧に手入れされた精密機械のようだ。
「ちょっと! ここはみんなの泉よ! どきなさいよ、このイケメン堅物!」
リノンが杖を構える。だが、青年は抜刀すらしない。ただ、鯉口を僅かに切った。
「無益な殺生は好まぬが、命に従わぬというのなら……断つのみ。『一切皆空』」
刹那、青年の姿が消えた。
いや、あまりの速さに視認できなかったのだ。レンジの視界に映ったのは、青年の背後にあった巨大な岩柱が、斜めにズレ落ちる光景だった。
「ひっ……! 魔法も使わずに、岩を……!?」
リノンが凍りつく。レンジは冷や汗を拭いながら、その青年の動作を脳内でリプレイした。
(今の……ただの抜刀術じゃない。踏み込み、角度、そして鞘から抜ける瞬間の加速。物理法則を限界まで利用した、固定モーションの極致……!)
「待て。君、その技……。さっきから一定の間隔でしか使っていないな?」
青年の眉が、僅かに動いた。
「……何の話だ」
「一撃放った後、君は必ず左足を引き、呼吸を三度置いている。そして、刀の『鳴き』が止まるまで次の動作に移らない。……その技、一度放てば再充填に約4.2秒の冷却時間が必要なんだろう?」
レンジの脳内には、格闘ゲームやスロットの「演出キャンセル不可時間」のフレーム数が、デジタル数字となって並んでいた。
「リノン。あいつの『一切皆空』は、一度発動させれば次は4秒間、ただの棒振りに成り下がる。つまり、**『確定の隙』**が存在するんだ」
「な、なによそれ! 4秒なんて一瞬じゃない!」
「パチスロの1ゲームは4.1秒だ、リノン。その一瞬があれば、僕らはリプレイを外してボーナスを狙い撃てる」
青年——ハクレンは、不快そうに目を細めた。
「戯言を。ならば、次の一撃でその口を閉じさせよう」
ハクレンが地を蹴る。最速の踏み込み。
レンジは動かない。ただ、手元の懐中時計の秒針を、心の目で見つめる。
(来る……。判定が発生する直前、0.1秒の『前兆』!)
「リノン、足元に目眩ましの小魔法を! 今だッ!」
「えいっ!」
リノンが放った不発寸前の火花が、ハクレンの視界を一瞬だけ遮る。その刹那、ハクレンの刀が虚空を裂いた。
「一切皆空……!」
レンジは、あえてハクレンの懐へ飛び込んだ。
刀身がレンジの髪を数本かすめて通り過ぎる。
「……外したか」
ハクレンの顔に、初めて動揺が走る。
必殺の技。その空振り後の硬直。レンジはその胸ぐらを掴み、至近距離で言い放った。
「1ゲーム、消化。……さあ、ここからは僕のターンの継続だ。君のその『設定』、僕が暴いてあげるよ」
数字ですべてを測る男と、空を斬る剣士。
異世界の「期待値」を巡る戦いは、さらに混沌へと加速していく。




