第8章 僕と謎の美少女Aの関係
高校に着いてから約二時間程度の授業を受け、時刻は放課後となった。未だ陽は高く、空は青々としている。運動部にとっては部活日和だし、帰宅部にもウェルカムな天候だ。ただし僕はまだ帰らないが。
否、帰らないのではない。帰れないのだ。
担任の業務連絡が終わり、学級委員が号令を促す。クラスメイトがこの後の各々の準備を済ませる中、僕はタイミングを見計らっていた。
今まで悩んでいたことの結論を、僕は導き出していた。
犯人に脅迫状を送る。こちらは一つだけ奴の弱みを握っているため、指定の場所へ呼び出すのは簡単だ。時間は夜がいい。人気がなく、また僕の顔はできるだけ相手に見せたくないからだ。場所はどこでもよかったが、一応この学校内にした。未だ数人の警察が徘徊しているも、保健室から離れた場所なら気づかれることもないだろう。
そしてのこのこと指定の場所に現れた犯人の背後から忍び寄り、忠告する。
これ以外の方法は無い……と思う。頭の悪い僕程度が考えた計画なので大きな穴があるかもしれないが、どの道あまり時間がない。事件発覚からもう二日以上たった。警察はいつでも犯人を捕まえる準備をしているだろう。
脅迫状はまだ手元にある。だからこそタイミングが重要なのだ。
幸い、僕は奴の下駄箱の位置を知っている。というか、今日の昼に確認した。そこに脅迫状を入れるベストなタイミングが分からないため、こうして席に座ったまま動きあぐねているのだ。
僕は待った。一時間半近く、空が茜色に変わるその時間まで。
いつの間にか教室には誰もいなくなっていた。しかも電気まで消されてる。僕は完全に空気になることに成功したわけか。嬉しきかな。
「さて……」
席を立った。そろそろ頃合いかもしれない。
午後四時半過ぎ。いつも僕が『彼女』を迎えに行く時刻だ。
「荊木さん……か」
何故か無性に会いたくなった。
廊下に出て、二年一組の方に視線を送った。歩いてほんの十秒だ。そう大した時間の消費でもない。窓の外から顔だけでも確認したい。
甘い言い訳で自分を納得させながらも、僕は二年一組へと向かった。
廊下を歩きながら、横目で教室内を盗み見ただけなのだが……『彼女』の姿が無いのは一目で分かった。代わりに見知らぬ人物が一人、こちらに向けて手招きしているのが目に入った。知り合いかどうかも判断できないのに、ついつい足を止めてしまう。
「やぁ、こんにちは」
「こんにちは」
自信は無かったが、どうやら僕を呼んでいることには間違いなかった。
無人の教室でただ一人、少女が机に座っている。とても行儀が悪い。誰もいないから見咎められないとはいえ、セーラー服で机の上に座るのはあまりお勧めしない。
乗り気ではなかったが、無視するわけにもいかないので、僕は二年一組の中へと侵入した。少女に面する位置で適当に座る。
「呼び止められて恐縮ですが、あなたは僕の知り合いですか?」
「愚問だね。こうやって顔を突き合わせて言葉を交わしてるくらいだから、我々はすでに顔見知り程度には知り合いだと思うよ」
「屁理屈をありがとう。それだと道行く人々はすべて知り合いだと豪語できますね。友達百人なんて、入学前で達成されているわけだ」
「人類皆兄弟だしね」
「驚いた。僕とあなたは兄弟だったんですか」
「知らなかったのかい?」
「変な方向へ会話が進んで行ってるので早々に軌道修正しますが、ところで僕って、以前あなたとどこかでお会いしませんでしたっけ?」
「わお。ガングロ娘もビックリするほど古典的なナンパ方法だね。でも吾輩、古きに囚われた男の子も、案外嫌いではないぞ☆」
「茶化さないでください。こちらは本気で質問しています。そもそもあなた、本当に女の子なんですか?」
「カチーン。その発言には、仏の顔を三度殴るのと同程度の威力があるね。普段は温和な私でも、一気に怒りゲージMAXだ。いいかい、ちゃんと見ておれよ」
そう言って机から降り立った少女は、その場でクルリと一回転を決めた。紺色のスカートはパラソルのように広がり、肩甲骨辺りまで伸びたセミロングの髪が彼女の顔を包む。そして見事なターンを決め、再び僕に向き直った少女は、『キラッ☆』とでも言いたげなポーズで静止した。
「どうだい? まごうことなき女の子だろう?」
「今の行為のどこに性別を確認できる要素があるのか、一から十までじっくりと訊いてみたい」
「それは私としても大歓迎だ。妙な疑いをかけられるくらいなら、質問に答える方が楽だ」
話が脱線しすぎて、僕は軽く眩暈を覚えた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。あなたは一体、どこの誰なんですか? 名前は?」
「名前は……できれば教えたくないなぁ」
「どうして?」
「君がデスノートの所持者である可能性を考慮して」
「…………」
鈴が鳴るような声で笑う彼女を、僕は無言で睨みつける。
「そんな怖い目で見つめないでくれよ。でも名前がないのは、確かに不都合だね。そうだな……では便宜上、私のことは謎の美少女Aとでも呼んでもらおうか」
「いちいち呼ぶのには長すぎますね。頭文字を取って、ナビエさんってのはどうでしょう?」
「人の名前を勝手に略すな。それだと、目的地に案内してしまいそうな名前じゃないか」
文句は垂れるものの、右腕を広げたナビエさんは「次の信号を右折です」と機械口調で、楽しそうに嘯いた。
「とまあ、つかみはこの辺にしておいて……」
意味深に頷いたナビエさんが、机の上に座ったまま片膝を抱えた。うずくまるように身体を丸めた彼女が、上目遣いで僕をじっと見つめる。
放たれた指摘が、僕の胸を貫いた。
「一つ確認しておきたいことがあるんだけど……君はもしかして、目が見えていないんじゃないかい?」
冷や汗が、こめかみに浮かんだ。背中に寒気を覚え、鳥肌が立つ。
無意識のうちに、拳を強く握りしめていた。
「どうして……そう思ったんですか?」
「君、瞳がひどく虚ろだよ。この教室に入ってから、私と一度しか目が合っていない」
推理ショーで犯人を追いつめる探偵のように、ナビエさんは僕に向けてビシッと指を立てた。
こういう場合、犯人としてはどのような行動を取るのが最適なのだろう。無理とわかっていて弁解する? おとなしくお縄つにつく? それとも無様に逃げる?
どちらにせよ、「バレた」といった心情が僕の顔に出てしまっているだろう。おそらくナビエさんは、得意げな顔で僕を見下しているはずだ。
「よく、分かりましたね。実は僕、盲目なんです」
「そうだろう、そうだろう。そうじゃないかと、最初から疑っていたんだ」
何を納得しているのか、ナビエさんは一人でうんうんと頷く。
そして指を鳴らし、この茶番に終止符を打った。
「それで、君は何に対して盲目なのかな?」
「もちろん……恋ですよ」
『彼女』に首ったけの僕は、前も後ろも分からない盲目な旅人なのさ!
とまあ、聞いてる方がクシャミをしてしまうくらいの臭い決め台詞はさて置いて、僕はナビエさんを直視できない理由を端的に述べた。
「スカートのままそんなところに座ってるものですから、いろいろと大変なことになっていますよ」
「むむ?」
指摘された彼女は、自らの下半身に目を向けた。
僕がナビエさんを直視できない理由は一つ。無防備なまま机の上に座っているもんだから、健康的な太ももの間から、ちらちらと白いものが覗けるのだ。しかもどれだけ無頓着なのか、膝まで抱えるので、もう丸見えになっちゃっています。
自分の秘部がどのような状況にあるのか確認したナビエさんは、慌てて隠すどころか、身じろぎひとつせずに唇を歪めてみせた。
「ほうほう。それで露骨に目を逸らしていたわけか。黙ってりゃ分からないのに。そんな君には、この私から紳士の称号を授けよう」
「変態という名の紳士でないことを祈ります」
「案ずるな。君はまだあの領域には達していない」
ふとここで、当然のような疑問が浮上する。
帰りのホームルームが終わってから、もうすでに一時間半以上が経過しているのだ。とりあえず自分のことは棚上げしておくとして、ナビエさんは一体なにが目的で居残っているのだろう。最初手招きをしていたように、まさか本当に僕を待っていただけなのか?
「まあ、少しだけネタバレしよう。私と君は、二日前に一度だけ会ったことがある」
「二日前?」
あー……あぁ、思い出した。
一昨日の放課後、確か僕、変な関西弁の女子生徒に話しかけられたんだった。とはいっても、その関西弁の少女が誰だったのかすら分からないので、全然ヒントにもなっていない。
「いやいや、関西弁じゃないからまったく分かりませんでしたよ」
「口調のことは別れ際、君に指摘されたからね。変に演技はしないと心に決めたのさ」
「なるほど、それは重畳です。ではあなたの正体が分かったところで、僕はこの辺で帰らせていただきます。実は急ぎでしたので。それでは」
「ウェイウェイ。唐突な帰宅宣言で、踵を返さないでくれ。君は前戯だけで満足するタイプなのかい?」
「必ずしも本番の方が楽しいとは限らないし、本題に入れないのはあなたのせいです」
「そうか、それは悪かったね。では早速本題へ入ろうじゃないか」
いかにもセリフ臭く宣ったナビエさんが、口元を三日月形に歪めた。
「私が君に忠告できることは一つだけ。やめておきなさい」
「何を?」
「今からやろうとしていることを、だよ」
ピクッと、自分のこめかみの神経が痙攣したのが分かった。
「僕が何をするつもりなのか、あなたは知っているんですか?」
「いいや、知らない。けど、君が一大決心をして何かを為そうとしていることは、私にもわかる。もしそれが、君が望まない可能性を生むことがあるのなら……やめておきなさい」
「アンタに何が解る!!」
予想以上に大きな声が出た。廊下の先まで響き渡る僕の声は、ナビエさんを絶句させることには成功したようだ。彼女は大きく口を開けたまま、じっと僕を見つめていた。まさか僕がそんな大声を出すとは思っていなかったのだろう。
僕としても、このまま駄々っ子のレッテルを張られるのは心外だった。
高鳴った鼓動を、無理やり抑える。
「……ごめん。別に怒るつもりじゃなかった。ただナビエさんの言ったことが的確だったからさ、アレだ、指摘されたことが図星だからこそ憤慨するって言葉が、身に染みて分かったよ」
「いや、こちらこそ悪かった。君の気持を考えずに、自分の意見だけを君に押しつけてしまったようだ。私が身勝手だった」
お互いが謝罪し、気まずい空気が流れる。その間にも時間は経過し、世界は暗闇へと徐々に変化していくのだが、このまま立ち去るのも気が引けた。
「どの道、私には君を強制する権利はない。行きたいのなら行けばいいさ。たとえ後悔することになっても、私には知ったこっちゃない」
「後悔なんてしませんよ。僕は何も、犯罪を犯しに行くわけじゃないんだ。ちょっと人と会って話をするだけです」
嘘ではない。僕は殺人事件の犯人に、少し忠告するだけなのだから。
でも――自信がない。
僕は本当に、忠告するだけに留まることができるだろうか。奴と対面した際、僕の中の鬼が暴走したりしないか。
チャンスさえあればアイツを殺したい。
僕は常々、そう思っていた。
「それじゃあ、僕は行きます。今度は引き止めませんよね?」
「あぁ、そんな無粋なマネはしないさ。けど――」
そこまで言いかけ、ナビエさんは一旦口を噤む。
「けど?」
「いや、なんでもない」
素っ気なく言い残し、彼女は背中を向けてしまった。
僕もまた、無言で二年一組を去る。
謎の少女との会話のせいで、ずいぶんと時間を食ってしまった。煩わしかったと思う反面、同時に感謝もしている。ナビエさんのおかげで、僕の決心は固まった。決して心が揺れていたわけではなかったが、ナビエさんとの問答が、そのまま僕の自問自答の答えとなってくれたから。
今の平穏を保ちたかったら、こんなことはやめておいた方がいい。
そんなことは最初から分かっている。でも僕は実行しなければならない。これは呪いなのだ。『彼女』から与えられた、美しき呪い。
僕は今日、『彼女』のために人を殺すかもしれない。