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第17章 1年前の話③

 その後の記憶は曖昧だ。熊谷がどうしたのか、私はどうやって帰ったのか、何も思い出せない。いや、その時の悲劇だけじゃなく、それから数日間の記憶がまったくなかった。


 そして気がついたら、月がとても綺麗だった。


 雲一つない夜の学校。あれは満月だろうか。電灯もないのに、自分の足元まではっきりと見下ろせた。

 だから少し離れていても、先客がいることには容易に気づくことができた。


「君、大丈夫?」


 意味もなく、何も考えないまま、私の決意を先に実行した人物へと話しかける。

 彼にはまだ意識があるようだった。虚ろな瞳が、私の方へと向く。

 それにしても、薄暗くてよかった。もしお昼並みに明るかったら、彼の頭から流れ出ている血を見て、卒倒していたかもしれない。

 そうか。あの高さから飛び降りると、こんなに血が出るのかぁ。


「あそこから飛び降りたの?」


 反応はなかった。どうやら意識はあっても、喋られないようだった。

 ちょうどいい。このまま誰とも話さずに死んでいくのは嫌だった。

 私は彼のために救急車を呼んでから、彼の傍らに腰を下ろした。


「救急車が来るまで、お話しない?」


 それは私の遺書のようなものだった。だから死なれては困ると思い、救急車を呼んだのだ。別に本当に助かってほしいと思ったわけではなかった。


 それから少しの間、私と彼は会話をした。ほとんど私が一方的に喋っているだけだったけど、それなりに楽しかった。だからちょっとした悪戯のつもりだったのだ。もし彼が奇跡的に生き延びた後、私が突きつけた条件をどう捉えるのか。まさかあんな呪いじみた効力になるとは思ってもいなかった。


「じゃあ、バイバイ」


 救急車のサイレンが聞こえたので、キスという最後の純潔を彼に託し、私は立ち上がった。

 そのまま後腐れなく、校舎に立ち入る。目指すは屋上。できれば彼が飛び降りた場所からは遠い所で。

 誰もいない階段を静かに上り、屋上へと出た。大きくて丸いお月様に見守られながら、フェンスを越える。デッドラインを越えてしまった私は、もう死ぬだけ。何も怖くない。未練など何もない。あとは死ぬだけ。死ぬだけ。死ぬだけ。


 フェンスから手を離し、十数メートル下、数秒後の死を見つめる。


 さぁ、終わりの時間です。死に向かって、一歩を踏み出しましょう。

 足場と空中の境界線、物理的なデッドラインを私は――越えなかった。


 瞬時の判断で、私は再びフェンスを掴む。

 別に今さら怖気づいたわけではない。ただ重なっただけだ。想像の中で地面に倒れる私の姿と、さっきの彼が。

 そして思い出してしまうと、唐突に気になってしまう。


 彼のデッドラインは何だったのだろう?


 興味が湧いてきた。死んでいた思考が回復してきた。

 私と同様、飛び降りて死にたいと思ったわけだから、それなりの理由があるはずだ。それはどんな理由だ? 私よりも不幸だったのか、それともほんの些細なことで死を考えてしまったのか。


 自殺なんてその後でもできる。彼のデッドラインを知りたい。


 フェンスを乗り越え、再び屋上に立った私は、急いで階下へ向かった。彼が倒れているところに行くと、ちょうど救急車が到着したようだ。彼を担架に乗せようとしている二人の救急隊員が、訝しげに私を見る。


「もしかして、君が連絡くれた人?」


 私は黙って首を縦に振った。


 救急隊員も事情の追求より、負傷者の介抱を優先したようだ。促されるまま、私もまた付添人として救急車に乗り込んだ。


 寝台に乗せられた彼を見る。もう意識は無いようだった。

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