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第18章 私と精神科医の関係

「家族が……!?」

「そう。旅行先で不慮の事故に見舞われてね。それから彼はひどい鬱状態に陥ってしまった。それが自殺した直接の原因だと思う」


 あの夜から数日後、私は彼が入院している大学病院へと足を運んだ。本当は毎日来ていたのだけど、ずっと面会謝絶だった。そして今日、彼の意識が戻ったということで、短時間の面会を許可されたわけだが、その前に何故か、この精神科医と話さなければならなかった。


 赤木恵子。とてもグラマラスな身体をした、彼の主治医だ。


 入院患者に会うため、医師の忠告を聞くことになろうとは思っていたけど、どうして精神科医なのか。その理由を訊いたところ、意図せずして彼が自殺した理由を耳にしてしまった。


 二ヶ月くらい前、彼の家族が事故で亡くなった。共に旅行へ行かなかった彼は生き延び、しかしショックのあまり自らの殻に閉じこもってしまう。極度の鬱病と、自傷行為。赤木先生はその時から、彼のカウンセラー役として顔を合わせていたそうだ。


「正直、あの子が自殺したことについては、それほど驚いていない。むしろすぐに実行しなかったのが意外だったかな」

「……無責任なんじゃないですか? それ」

「かもね」


 癇に障ったが、怒鳴りつけるのは阻まれた。

 ここは大学病院のロビーだ。入院患者も外来も見舞い人も看護師もいる。あまり目立つ行動はしたくなかった。


「ところで君は、あの子とはどういう関係?」

「私ですか? 私は……」


 関係と言えば、別にない。ただの通りすがりだ。縁あって、救急車を呼んであげただけの仲。

 特に言い訳することもないので、そのまま答えた。


「そう……。ちょっと場所を変えよう」

「?」


 私の返事を待たず、赤木先生が立ち上がった。

 向かった先は、ロビーの隅。まるで世間から隔離されているように存在する、ガラス張りの空間……喫煙所だった。

 喫煙所の中には誰もいなかった。


「本当は私の部屋がいいんだけど、ちょっと歩かなきゃいけないからね。今から彼に会うつもりなら、ここがいい」

「はぁ」


 生返事になるのも仕方がないだろう。赤木先生の意図が分からない。

 彼女はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。嫌な臭いが、密室内に充満する。この人、私が未成年だってこと知っているのだろうか。


「君、実は自殺しようとしていたでしょ?」

「え……?」


 純粋に驚いてしまった。私自身のことは、赤木先生には何も伝えていない。まだ名前すらも言っていないはずなのに、どうして私の真意を見抜けたのか。戸惑う以上に、普通に感心してしまった。


「どうして……そう思うんですか?」

「彼を見つけた時、君は一人だったんだろ? 女子高生があんな時間にあんな場所にいるなんて、どう考えたって不自然だ。可能性があるのは、自殺か密会か……もっと深夜だったら丑の刻参りかもしれない」

「いくらなんでも、それは短絡過ぎるでしょう」

「眼がね……」


 そう言って、赤木先生は自分の瞼を突いた。


「君の眼は、あの子と似ているんだよ。いや、彼だけじゃない。私が診てきた、多くの患者と同じような眼をしているんだ。生きることを……諦めそうな眼をね」

「…………」


 そうなのだろうか。できれば今すぐ確かめたかった。

 けど、赤木先生の追求は続く。


「どうして自殺をしようと思った?」

「これは……カウンセリングか何かですか?」

「いや違うよ。仕事じゃないし、君は私の患者じゃない。それにカウンセリングだったら、こんな直接的な言い方はしないよ」

「自殺するかもしれない人間を放っておかないでください。精神科医として」

「そんなものはただの肩書だ。誰だって、自殺をしてほしくないって気持ちは一緒だろう? 私もそうだ。私はただ職業柄、自殺をしそうな人や、その見分け方を知識として認識しているだけに過ぎない。何を言っても自殺する人間はするし、しない人間はしない。これ心理」

「あのですね……」


 この人と話していると、どうもフラストレーションが溜まってしまうようだ。

 私は溜め息と同時に、頭に溜まっていた熱も吐き出した。


「理由は言えません。それが誰であっても」

「そう。別に言いたいことは言わないでもいい。じゃあ次。どうして止めた? あの場で自殺を思いとどまった理由は何?」

「それは……」


 彼が飛び降りた理由を知りたかったから。

 ……そんなこと、言えるはずがなかった。


「それも言えません」

「なるほど。けど、君の心境が百八十度回転する何かしらの出来事はあったんだろう。あの子が倒れているのを見て、痛そうだとでも思ったかい?」


 それもある種の理由だが、私は無言を貫き通した。

 黙ったままでいると、赤木先生は天井に向けて紫煙をまいた。立ち上る煙が、換気扇へ吸い込まれていく。私は早く彼に会いたいと思いながら、その流れをじっと見つめていた。


「自殺は悪いことではない」


 一本目の煙草を吸い終わったところで、赤木先生が唐突に口を開いた。


「あぁ、ここからの話は是非ともオフレコにしてくれ。誰かに聞かれたら、もしかしたら私は職を追われることになるかもしれない」


 そりゃカウンセラーが『自殺は悪いことではない』とか言い出したら大問題だ。


「あくまでも個人的な思想だけどな。自殺は悪いことじゃない。人間には生きる自由があるんだから、死ぬ自由もあっていいじゃないか。いつどこでどうやって死ぬか選べるのは、人間にとっても幸福な部類に入ると思う」


 そうだろうか? とも思ったし、その通りだとも思った。賛成でも否定でもないどっちつかずの意見に、私は答えに窮する。

 しかし赤木先生は、別に私の返答を待っているわけではなかった。


「けど自殺する自由があるといっても、何もせずただ死ぬのはダメだ。私はね、自殺するのはいいけど、その前に必ずやらなければならないことが二つあると思っている」

「二つ?」

「一つは遺書を書くこと。書かなきゃダメ。これはこの世に生まれてきた者の義務だ。遺される者に対する責任だ。遺書のない自殺は自殺とは認めない。それはただの犯罪だと、私は思っている。いきなり身内が通り魔に襲われたようなものだからね。……あぁ、書かなきゃダメとは言ったけど、媒体はなんでもいいと思う。たった一行でもいいし、文章じゃなくても構わない。自分が自殺を決意したという証なら、なんでもね」


 私は遺書を書かなかった。この時点で、赤木先生にとって私の行為は許されないものということになる。

 ……彼に送った言葉は、遺書代わりになるのだろうか。


「もう一つは言葉にしにくいんだけど……納得することかな」

「納得すること?」

「そう。自分が自殺するに至った理由に、納得すること。その理由は、本当に自らの命を捨てるのに値する?」


 ドキッと、胸が弾んだ。

 私が熊谷に犯されたことは、本当に自殺するに値することだったのだろうか。


「自殺を回避するための努力はした? 死ぬ理由と生きる理由を天秤に掛けた? 楽しいことや幸せなことは、もう残っていない? 嫌なことがあったのなら、死ぬ以外で逃げ出したりはした? 逃げ出した先が、本当に八方塞りだった? 考えろ。自分が生きる手段を考えろ。考えて考えて考え抜いて、やるべきことはすべてやったと納得して、それでも自殺する以外に方法がないのなら、私はその自殺を認めるし引き止めもしない」

「私は……」


 本当に? 本当に? 本当に?


 頭の中に隠れていた後悔が、一気に表へと出てきた。

 親の顔、友人の顔、これからの学生生活、卒業後、趣味、夢、そして……結婚。

 熊谷との一件は、本当にそれらすべてを捨て去るに値するのか。

 もちろんあの日のことは認めてはいけない。熊谷は絶対的に拒絶すべき対象であり、私の幸せを崩壊させた張本人だ。絶対に許してはいけない。


 でも……。


 彼が失った物に比べたら、私の純潔などあまりにも小さかった。


「とまあ、ここらで私の話はおしまい。いやいや悪いね。最近、ちょっとばかりストレスが溜まってたんだよ。やっぱりストレス解消には、自分の思想を誰かに演説するのが一番効率がいいね」

「……私はあなたのストレスの捌け口だったわけですか」

「迷惑だったかい?」


 迷惑だった。けど、考えさせられた。

 あれだけ全身を巡っていた自殺したい気持ちが、今はほとんど残っていなかった。


「じゃあ、君はあの子に会いに来たんだよね? そろそろ面会できる時間だと思うから、許可を取りに行ってあげるよ」


 二本目の煙草を取り出す前に、赤木先生が立ち上がった。

 しかし私は俯いたまま座り続ける。


「彼は……」

「うん?」

「彼はまた、自殺すると思いますか?」


 一番の懸念。家族を失ったことで自殺を図ったんだとしたら、それを止める理由がない。彼の意識は戻っても、現実が改善されたわけではなかった。


「するね」


 だから無情にも肯定した赤木先生の言葉にも、腹は立たなかった。

 赤木先生が再び椅子に腰かける。結局、二本目の煙草を取り出した。


「私の持論から言えば、あの子はまだ納得していない。家族が死んで、自分も一緒に逝きたいと思っているだけだ。死ぬ以外に幸せを掴む方法を、まったく考えていない。だからここからは私の仕事だ。あの子に考えさせる。家族がいないと認めさせた上で、将来のことを頭がパンクするくらいまで考えさせる。それでもあの子が自分で納得して死を選ぶんだとしたら、私は止めない」


 もし最初にこの言葉を聞いていたら、職務放棄だと他人に暴露していたかもしれない。

 けど今は、妙な説得力があるように聞こえた。彼女の言葉で、私自身、自殺を考え直したからだろう。


「ま、とはいっても数日は大丈夫だ。その間に私は対策を練ろうと思う」

「どうして断言できるんですか? 彼が入院しているからですか?」

「それもある。けどそれだけじゃない。私はあの子が目覚めた時に少し話したんだけど、自殺の際に頭を強く打って、どうやら後遺症が残ってしまったらしいんだ」

「後遺症?」

「一時的な記憶喪失。断片的にだけどね。あの子、自分が自殺した理由をまったく覚えていなかった。家族が事故で亡くなったことは、夢だとでも思っているらしい」

「タイムリミットは、彼がすべてを思い出すまで。ですか?」

「そういうことになる」


 でも、そんなものはあてにならない。今この瞬間、彼がすべてを思い出してしまうかもしれないし、最長でも退院するまでだろう。日常生活に戻れば、自分に家族がいないことを嫌でも実感できる。


「それともう一つ、あの子は人の顔が認識できない」

「……どういう意味ですか?」

「相貌失認って知っているかい?」

「相貌失認?」


 聞いたことはある。人の顔など、同じカテゴリを判別できなくなる障害のはずだ。


「人の表情を見分ける能力ってのは、えらく高度な機能でね。だからこそ、脳をちょっとでも負傷すると、発症する確率が高いらしい。彼の場合は重傷だ。起き抜けに少しテストをさせてもらったが、ほとんど正解することができなかった」

「目が見えていないわけではないんですよね?」

「そう、しっかり見えてはいる。けど認識ができない。まったく同じ人物の写真を見せても、ちょっと髪型が変わっただけで、彼は同一人物だと理解できなかったようだ」

「髪型が変わっただけで……」


 それがどんな世界なのか、私には想像すらできない。けれど理解はできる。彼の眼にはすべての人間が同じように映り、しかもマネキンのように無表情なのだろう。それはあまりにも無味乾燥とした世界だった。


 奇跡的に命を取り留めたというのに、そんな障害まで顕れ、彼は不幸のどん底だった。しかも場合によっては、改めて自殺をするかもしれないという。それはいくらなんでも悲しすぎた。


 彼は私の命の恩人だ。彼が先に飛び降りていなかったら、私が同じ立場になっていただろう。こうやって生きてはいなかった。再び両親に会うこともなかったし、くだらないことで自らの命を断とうとしていたことに恐怖を抱くこともなかった。


 そして……彼を好きになることもなかった。


 無意識のうちに、指が唇に触れていた。

 人を呪わば穴二つ。彼に呪いをかけたつもりだったけど、どうやらそれは私も同じだったみたいだ。

 彼に会いたい。彼に生きていてほしい。純粋に、そう思った。


「確認しますけど、彼は自分に家族がいないと分かった時点で、再び自殺を決める。そうですよね?」

「その可能性が高い」

「彼は相貌失認で、人の顔が見分けられない。これって治ることはありますか?」

「いいや、ない。ただ顔以外で区別する方法もあるからね。例えば声だったり仕草だったり癖だったり。毎回同じ服でも着ていれば、同じ人間だと判断できるようにもなる」

「最後に一つ。彼には兄弟はいましたか?」

「妹が一人いた。確か一個下だったはずだ」


 ここまでお膳立てが揃っているのは、神か何かのお導きかもしれない。私自身、無宗教のはずだったのに、そう思ってしまった。


 二本目の煙草を吸い終わった赤木先生を前にして、私は姿勢を正した。


「赤木先生。折り入って一つ、頼みごとがあるんですが」

「なんだい、改まって」

「私と小芝居をうってくれませんか?」


 この時、私の覚悟は決まった。






 病室の扉を開ける。狭い個室の窓際に、あの夜と同じような呆けた顔で、彼は眠っていた。

 ただ眠りは浅かったのか、それとも最初から起きていたのか、足音を聞いた彼は途端に目を覚ます。


「えっと……こんにちは」


 上半身を起こし、戸惑ったような感じで挨拶をする彼。意外と元気そうな彼を見て、私は何故か、涙が出そうになった。


「すみません。誰か分からないので、できれば名乗ってくれるとありがたいんですが」


 本当に顔が分からないようだった。いや、私と出会ったのは飛び降りた後なのだ。あの時は意識も朦朧としていたし、ほとんど初対面に近いだろう。

 私は、進藤涼香という仮面を被った。


「こんのバカ兄貴! し、心配したんだからね!」


 声を出すと、自然と涙が溢れた。それだけは演技じゃなかった。けど涙を堪えなくてもいい状況だと判断する。本能に甘えるがまま、私は彼の胸に顔を埋め、大泣きした。


「なんだ、涼香か」

「なんだ、じゃないわよ! ウチがどれだけ心配したと思ってんのよ、クソバカ兄貴が!」

「ごめんごめん。ちょっとした気の迷いだったんだよ。別に涼香に迷惑をかけるつもりじゃなかった。……けど、涼香って僕のこと、バカ兄貴って呼んでたっけ?」

「自殺しようとする兄貴なんてバカ兄貴で十分よ!」


 どうやら多少は昔のことも覚えているようだ。声や振る舞いはともかく、お互いの記憶の齟齬には十分に気を付けないといけない。


「さて、涼香ちゃん。短いけど、今日のところはこれだけにしてもらえないかな。後日なら、また長い時間を取れると思うから」

「はい、先生」


 涙ぐみながら、私は彼から離れた。


「じゃあ、またねバカ兄貴。今度はお母さんが来る予定だから」

「うん。お見舞いの品は赤福がいい」

「調子に乗んなボケ!」


 腹パンしてやった。本気じゃなかったけど、彼は苦しそうに呻く。

 名残惜しむように振り返りながら、私は病室を出た。ベッドの上で手を上げる彼が、妙に儚く見えた。


「で――」


 病院の一階に降り、ロビーへ差し掛かったところで、赤木先生が口を開いた。


「あの子に家族が健在している嘘を植えつけたわけだが、君はいつまで続けるつもりだい?」


 その眼は私を責めているようでもあったし、場合によっては協力してやろうという心構えな感じでもあった。一度彼女の眼を見つめた後、私は視線を逸らした。


「分かりません。嘘がばれるまでか、もしくは一生続くのか……」

「どちらにせよ、半端な覚悟じゃ為せられない業だよ。人を騙し続けるっていうのは。それが他人の一生を左右することなら尚更だ。君はね、彼の人生を背負うことになったんだ。覚悟はある?」

「あります」


 不安はある。自信はない。けど、この覚悟だけは本物だった。

 私は彼を偽り、彼の家族を演じてみせる。絶対に途中で投げ出したりなんかしない。

 私は――彼を愛してしまったから。彼に生きていてほしいと思った。


「そう……か」


 今度は赤木先生の方が視線を逸らす番だった。私の決意に気圧されたのか、それとも単に前方を確認しただけなのか。先生は頭を掻いて天井を見上げる。


「あー若いねぇ。私も一人の男にベタ惚れした時代があったっけか」


 ただ単に、昔の自分を思い出して照れているだけだった。


「実はそいつは今の私の夫だったりする」


 しかも惚気やがった。他人の恋バナとか聞きたくない。


「応援はするよ。ガンバレ。力になれることがあったらいつでも相談に乗るから、私の部屋を訪れてくれ。……あぁ、そうだ。そういえば君の名前を聞いていなかったな」

「荊木小百合です」

「荊木さんね。オッケー、覚えた」


 そう言って笑顔を浮かべた赤木先生が、片手を出した。握手をする。この先長く、この人の世話になるだろう。後々の感謝も込めて、私は強く手を握り返した。


 それから約一年間、私は彼の家族の仮面を被り続けることになる。

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