第16章 私と奴の関係
人は誰しも、自殺する理由を持っていると思う。
例えば財布を落とした時とか、恋人に振られた時とか、会社をクビになった時とか。いわば一種の境界線だ。自らに不幸が降りかかり、生きる気力を失うデッドライン。
もちろん個人差はある。石に躓いただけで自殺を考えたりする人もいれば、人類最後の生き残りになったところで、依然として楽観視する人もいるかもしれない。自分を殺す境界線は、他人が測ることは絶対にできない。
しかしデッドラインを越えたところで、人間は必ず自殺をするかといえば、そうではない。
倫理的に、遺された家族を想像して、自殺すること自体に苦痛が伴うなど、自殺をしようと思う理由と同じだけ、思いとどまらせる理由もある。そうやって、人間は日々訪れる不幸を我慢し、時には諦め、次の幸せを模索しようと努力をするのだ。逆にもし自殺を抑制させる理由がなければ、世界の人口は現在に比べて、極端に減っていただろう。
そして私もまた、世界の人口削減を担う一人だった。
つまりそれら自殺を抑制するための理由を押しのけて、デッドラインを越えてしまった。
強姦。レイプ。意思に反して凌辱されたことが、私が自殺を決めたきっかけだった。
***
性格はともかく、私は他人よりも容姿に恵まれているという自負はある。中学生の頃は何度も告白され、そのうちの何人かとも付き合ったりした。ただこう言うと誤解を招くかもしれないが、その誰とも本気ではなかった。別に男を誑かして遊んでいたわけではない。私が相手の男子生徒を好きになる前に、冷めてしまうからだ。
男子中学生の性なのか、私と付き合った人たちは皆、私の身体が目当てだった。
ちょっといいな、と思ったのも何人かいた。話は面白いし、優しくもしてくれる。けど二回三回帰宅を共にしただけで、すぐ身体に触りたがろうとするのはなんでだろう。その度に私の熱は冷め、すぐ別れ話を切り出した。
そんなことがたび重なったためか、私の貞操観念は強固と化していった。それ以来、中学生活では、異性と手をつなぐ以上のことはしていない。
結局まともな恋人ができないまま、私は高校へと進学した。私の学力に合った、普通の公立高校だ。そこで私は、中学から続けてきた演劇部へと入部する。
しかし……。
その選択が、私の人生を大きく変えた。
「初めまして、顧問の熊谷です。担当は主に現国。たまに古典も教えています。ただ基本的には三年生しか教えませんので、一年生のみなさんとはあまり面識がないと思いますが、よろしくお願いします」
新入部員を前に自己紹介する熊谷が、人懐っこい笑みで私たちを見渡した。
熊谷良吉。二十八歳。独身。とても二十代後半とは思えない、高校生のような童顔。ハンサム。生徒たちにも優しく、しかし指導の際は厳しい一面も見せる。
特に女子から人気のある教師だった。
事実、私も演劇部に入ると決めてからは熊谷の噂を耳に入れていたし、どれほどのものかと興味半分期待半分だった。出会った際、予想以上の好青年が出てきて驚いたのを覚えている。実際に、周囲の女子生徒と同様、私の心も動き始めていた時期が確かにあった。
ただそれは、私と奴が一対一で会話するまでの話だったけど。
「えっと、君は確か新入部員の荊木小百合さんだったね?」
所属している私が評価するのも悪いけど、この学校の演劇部は、正直あまり真剣に活動はしていない。何かしらのコンクールに向けて練習することもなく、文化祭のために一つ二つ劇を準備するだけだ。全体練習もある程度は自由参加なので、出席率は悪くないが、全員がそろったことは新入部員が入った日だけだった。
だから顧問である熊谷と初日以外で顔を合わせたのは、数日後のことだった。
「はい……そうです」
視線を下げながら、当たり障りのない返答をする。少しばかり緊張していた。というか照れていたのだ。遺憾にも、この時の私は熊谷に惚れかけていたのだから。
しかしそれも、奴と目を合わせた次の瞬間までだった。
「…………」
あまりの気持ち悪さに、絶句してしまった。
私の正面に立つ熊谷の顔は、別段変わったところはない。いわゆるイケ面という部類であり、部員である私に話しかけるために、軽く微笑んでいる。それは初日の挨拶の時にも見た、優しげな青年の顔だった。
なのに熊谷の眼を見つめた瞬間、私の中のすべての好印象が吹っ飛んだ。
なんだこれは。気持ちが悪い。理解不能。
まるで蛇に睨まれた蛙になった気分。捕食される側として、天敵を前に生を諦めるのと同等。それほど熊谷の視線に対し、私の全身が拒絶反応を起こしていた。
理由は分からない。だから恐い。
本能が恐怖心を刺激し、私はその場から逃げ出してしまった。
***
その判断は今となっては圧倒的に正解だったのだが、当時の私は後悔し、また熊谷に対して負い目を感じてしまっていた。話しかけられただけで、逃げ出すことはないだろう。変に思われたかもしれない。少しばかり、演劇部にも顔を出しづらくなっていた。
しかし熊谷の瞳を見た途端に恐怖を感じた理由は、謎のままだった。
他の女子生徒と会話している奴を見ても、何ら感じない。むしろ女子高生と意気投合できることに、好感を抱いてしまうほどだ。ただの勘違いだったのかなと、徐々に思い始めてしまっていた。
その危機感のなさが、結局は悲劇を呼ぶことになる。
一年前の五月。入部してから約一ヶ月経った頃。私は再び熊谷に話しかけられた。
「荊木さん。ちょっといいかな?」
話しかけられただけで拒絶感を抱いてしまうほどだったが、無視はできない。
私はできるだけ普通に、全身に虫唾が奔っているのを我慢して答えた。
「はい?」
「実は手伝ってほしいことがあるんだけど」
本当は拒否したかった。けどこの時点で、私の退路は完全に断たれていた。
私はこの時、友達や先輩と部室で談笑していたのだ。しかも彼女らはみんな、私が初めて熊谷に話しかけられた時に逃げ出したことを知っている。そのためか、仲直りするチャンスだとか、顧問と親交を深めて来いだとか囃し立てられた。
引くこともできず、私は熊谷に促されるまま部室を後にしてしまう。
「手伝いってなんですか?」
「今度使う劇の備品を運び出してほしいんだ。保健室に行くよ」
「保健室?」
ちょっとだけ違和感を覚えた。
実は一年前のその日も、保険医は出張か何かで学校にいなかったのだ。保健室は閉まっているはずである。
「何を運ぶんですか?」
「体重計と身長計と……座高計はどうしようかな」
「でも保健室って閉まってるんじゃないんですか?」
「そうなんだよ。本当は昨日の放課後に保健の先生にも手伝ってもらうつもりだったけど、うっかり忘れていてね。ちゃんと許可は取ってあるから大丈夫だよ」
これ見よがしに、熊谷は保健室の鍵を取り出した。
不満はあった。不信感もあった。でも私はついていく他なかった。
熊谷が保健室の扉を開ける。私が先に中に入る。カーテンが閉まっているのか、思いのほか暗かった。突然、熊谷が扉の鍵を閉める。私は驚く。熊谷が何かを言っている。私は全力で拒絶した。その瞬間……熊谷の顔が豹変した。気持ち悪くも優しさだけは残っていた表情が、鬼の……悪魔のそれとなる。口を塞がれた。ベッドに押し倒される。私は抵抗する。力の差ははっきりと理解できていた。私がいくら暴れても、熊谷は微動だにしない。私はただ、されるがまま……。
もう……これ以上は思い出したくない。




