第15章 僕と真実の関係
気持ちの良い感覚だけが、全身を包み込む。
特に何もない。何もない。何もない。
幸福の中をふわふわ漂っていると、突然、目の前に天女が現れた。
のっぺら坊の天女が何かを言う。
「必ず仇は取るから」
それだけ聞き取ると、僕はまた、永遠の安らぎへと身を預けてしまった。
***
「実はこれらはすべて、夢の中の話だったんじゃ」
と、誰かに言ってほしい気分だった。
でも夢オチなら、僕はどこからが夢であってほしかったんだろうな。
通り魔に刺されたところ? 涼香と喧嘩して家を飛び出したところ? もっと前で、不運にも保健室で死体を発見してしまったところ? さらに前で、家族が事故死したところ?
残念。全部現実です。僕は不幸な人生を歩んでいます。
けど、僕はまだ生きています。これも現実です。
「しぶといですよねぇ、僕も。自分でも嫌んなっちゃいますよ」
「その発言に軽口で返せるほど、私の精神状態はまだ回復してない」
隣でパイプ椅子に座っている赤木先生が、深い溜め息を吐いた。
僕もそれ以上の軽口を叩く気力はなく、ぼんやりと天井を仰いだ。
正直、またこの病室にお世話になるとは思わなかった。いや、もちろん、自殺未遂後に入院した個室とは違うかもしれない。ただ物の配置は変わっていないため、大まかな分類はすべて統一されてしまう僕の世界では同じことだった。
……あれから一年か。
「今回は私のミスだ。すまなかった」
「先生は関係ありません。もし自分の責任だと感じてるなら、殴りますよ?」
「いや、だってな。時間も遅いのに、未成年を一人で帰らせてしまった。大人として、送っていくなどの配慮をすべきだった」
僕は右の拳を振り上げた。しかし腹に激痛が奔り、右手はすぐにベッドの上に落ちる。
一応腹の傷は塞がったものの、まだ無理はできそうにない。
「僕は……何日くらい眠ってました?」
「三日。特に深い傷でもなかったから、手術も簡単に終わったそうだよ」
「そうですか……」
夜道で刺されてから三日、起きたのがついさっきだ。
何があったのかは、よく分からない。しかし断片的に残る記憶と、僕の凶報を聞いて駆けつけてくれた赤木先生の話で、大体のことは把握できた。
見知らぬ人に刺された僕は意識を失い、何とか一命を取り留めた。
それだけだ。三日間ベッドの上で眠っていた僕には、それ以上のイベントは無い。
「そういえば、僕が眠っている間に誰か来ませんでした?」
「誰かいたのか? 仕事時以外は、私もずっとここにいたが」
「もしかしたら先生だったかもしれません。でもその人、まるで天女のようだったけどなぁ」
「三途の川を渡りかけてたんだろ。よくあることだ」
よくあることなのか。時と場合を考えてほしい。とても不謹慎である。
「起きたばかりのところ悪いけど、警察が来てる。話せる?」
僕は黙って頷いた。
先生もまた頷き返すと、パイプ椅子から立ち上がる。病室の扉を開けると、すでに二人の刑事が待機していた。
「二人で押しかけるのは悪いだろう。俺が話す」
「また独断ですか? 桜枝」
「俺とアイツはちょっとした知り合いなんだよ」
二人の刑事の会話を、僕はベッドに横たわったまま聞いていた。少しばかり訂正したい内容ではあったが、内心ではとても安心している。何かしら話はしないといけないと思っていたので、一番話しやすい刑事が来てよかった。
先生と入れ替わった男が扉を閉める。異様に背が高いためか、急に個室が狭くなったような気がした。
「俺が誰か分かるか?」
「分かりますよ。その声、その身長、そのサングラス。黒峰刑事ですよね?」
「冗談を言える程度には回復したようだな。安心したよ」
意外にも、桜枝刑事の声は優しかった。
しかし先ほどまで赤木先生が使っていたパイプ椅子に座り、身を屈めると、途端に声を凄ませてきた。
「話しはできるな?」
「質問してください。その方がまとめやすい」
「それは重畳。では単刀直入に訊く。お前を刺したのは誰だ?」
「分かりません」
「顔は見たか?」
「見ました」
「そうか」
僕が相貌失認だと知っているためか、その答えは短かった。
「覚えている特徴は?」
「まず相手は男ですね。間違いありません。身長は僕よりも少し高めでした。あと革靴を履いていました。……すみません、それくらいです」
「刺された場所はどこだ?」
「学校から自宅へ向かう坂道です。児童公園が見えるかどうかって位置ですね」
「なるほど。刺されてから救急隊が駆け付けるまで、特に移動はしていない、と」
犯人の足音が遠のいていったのは覚えているし、僕がこうやって生きているということは、トドメは差さなかったのだろう。よくもまぁ、失血死しなかったものだ。
「事の成り行きは赤木医師から聞いている。お前があの時間あの場所にいたことは、まったくの偶然なんだろ? だとしたら、無差別に狙った通り魔という線が濃厚だな」
「いえ、犯人は最初から僕を狙ってたんだと思いますよ」
「どうしてそう言える?」
「僕の名前を口にしていたような気がします」
えーっと、なんて言ってたっけ。僕の名前は、最後に呼んだはずだ。
「人の物を盗ったら犯罪ですよ。……そんなことを言ってました」
他にも去り際に何か言っていたような気がするが、その時はそれどころじゃなかったからな。まったく覚えていない。
桜枝刑事が眉を寄せる。訝しんでいるのだろう。
「人の物を盗った? お前、誰かの何かを盗んだのか?」
「いやいや、まったく心当たりがありませんよ」
これはマジで。盗みなんてしたことは、一度もない。
「通り魔ではない。となると、怨恨による犯行か」
「それもまったく。恨まれるような行為はしていないと思います」
「そうだろうな。お前は他人との摩擦を恐れて、できるだけ他人と関わらないように生きていく人間だ」
あっれぇ、おっかしいな。腹を刺されたのに、胸がズキズキしだしたぞ。
暗に社会不適合者と揶揄され落ち込んでいる間、桜枝刑事はずっと低い声で唸っていた。
「やりにくいな。これなら無差別の通り魔の方がまだマシだった」
「とても刑事の発言とは思えませんね」
「それが俺のアイデンティティだ。知らなかったか?」
多少は気づいていた。むしろ気づかない振りをしていたのは、僕の善意だったというのに。
尋問に行き詰った桜枝刑事が、おもむろに警察手帳を取り出した。特にすることも喋ることもない僕は、肩の力を抜いてベッドに埋もれた。あぁ、硬い。自分の部屋の布団が恋しい。
「怨根による殺人未遂。しかし本人には恨まれている自覚は無い、か。となると、お前の人間関係をじっくりと洗う必要があるな」
「あえて自分から言いますけど、僕の人間関係を相関図にすると、その狭さにたぶん驚くと思いますよ」
「だろうな」
くっそ。自分から進言しておいてもこのダメージか。そろそろ本気で親友の一人か二人は作っておかないと、コンプレックスで死んでしまうかもしれないな。
「まぁ病み上がりだろうから、今日は早々に退散させてもらう。外堀から徐々に埋めていくとしよう。また後日、話を聞きに来ると思う」
「その時は菓子折もお願いします」
「……気が向いたらな」
何故か呆れたように溜め息を漏らされてしまった。怪我人本人が見舞い品を請求するのは、そんなにおかしいかな?
警察手帳を内ポケットにしまった桜枝刑事が、姿勢よく立ち上がった。が、すぐにまたパイプ椅子に腰を下ろす。
「そういえば、一つだけ訊いておこう」
どうやら尋問は続くようだ。ま、別に構わないが。
「野暮なことだと自覚はあるが……荊木小百合とはどういう関係だ?」
「…………はい?」
どんな質問にも冷静に答えられる心構えはあったが、これはさすがに予想外だった。喉の奥から絞り出された声が、不気味に裏返ってしまう。
どうして今、その名前がここで出る? 僕と荊木さんの接点など、あの夜以外にない。さらにあの夜のことは、僕は誰にも話していないのだ。
……同じ日に同じ学校で自殺したから、桜枝刑事は何かを勘ぐった?
いや、だとしても、荊木さんの名前がここで出てくる意味が分からない。
「その人が……どうかしたんですか?」
震える声で問い返した。特に意味はないが、荊木さんの名前を口に出すことは躊躇われた。
「その人って……随分と他人行儀だな。知り合いなんだろ?」
「知り合いといえば知り合いですが……」
ほぼ赤の他人である。僕が一番大切に想っていた人物ではあるけれど。
しかし次の瞬間、桜枝刑事の口から、まったくもって理解不能な言葉が紡ぎだされた。
「彼女が倒れているお前を発見して通報したんだ。痴話喧嘩でもしたんだろ? 女に言い負かされて、挙句の果てに主治医のところに逃げるとはな。同じ男として情けない」
「いやいやいや、何言ってるんですか。だって『彼女』は……」
「荊木小百合からも、多少の話は聞いている。帰りが遅いから、迎えに行こうと思ったそうだ。早期に発見されて良かったな。傷は浅かったとはいえ、医師の見立てでは失血死の可能性もあったそうだ」
「いやだから、僕が喧嘩をしたのは妹であって、荊木さんじゃ……」
「は? お前こそ何を言ってるんだ。お前の妹は……」
とまで言いかけ、桜枝刑事は口を噤んだ。
そうだった。僕の実の妹は、もうこの世にいないんだった。
けど、今まで僕の人生を支えてくれていたあの人は……。
「桜枝刑事。一つだけ、真剣に答えてほしいことがあるんですが」
「なんだ?」
「ここ数年、僕の高校で自殺した生徒っています?」
そして桜枝刑事は、さも当然のように言い放った。
「いないんじゃないか? 自殺未遂したバカは俺の目の前にいるがな」
バカは余計だと返す気力もなかった。僕の混乱は極限に達し、桜枝刑事の声がどんどん遠のいていく。何度確認しても、きっと返答は同じなのだろう。
つまり、荊木さんが…………生きている?




