第11章 僕の秘密
そこそこの距離を歩き、僕らは国道沿いの喫茶店へ入った。オシャレ重視の店、というわけではなく、老若男女幅広くターゲットにした落ち着いた雰囲気の店構えだ。ログハウスを模しているのだろう。僕が中学の頃にオープンした記憶があるのだが、まさか入店する機会があるとは思わなかった。
扉を開けると、備え付けのベルが店員を呼ぶ。とても五月とは思えない冷房の風量に身を震わせながら、端っこの席へと案内された。
「遠慮するな」
と言われたので、僕はカツサンドとサラダとクリームソーダを頼んだ。量的にも寒さ的にものちのち後悔しそうだったけど、自分の金じゃないからまあいいや。
「最初に一つだけ質問したいんだが……」
短くホットコーヒーとだけ注文した桜枝刑事が、そう切り出した。
「どうしてお前は殺人のほう助をした? 被疑者は共犯となる人物はいない、と言っていたぞ」
「というよりも、僕が共犯者だって信じてるんですか?」
「多少はな。じゃなきゃ、俺の財布が泣いた意味がない」
さて、どう答えようか。
効きすぎた冷房のせいか、僕の頭もだんだん冷えてきた。この調子なら、いつものいい加減な受け答えもできそうだ。
「僕が勝手にやったことです。あの人は何も知りません」
「そうだな。向こうはお前という人間自体知らないって言ってたな」
チッ、調査済みか。
「僕が大切に想っていた人物だったから。っていう理由はどうでしょう」
「なんで提案形なんだ。だがそれは無いと断言できる」
「どうしてですか?」
「実はな、被疑者には殺意がなかったんだよ。ただの過失だった。被害者が死んだと分かってからは、恐怖のあまりその場から全力で逃げたそうだ。罪の意識に耐えられなくなって、自首してきたわけだな。で、だ。お前はどの時点で犯人を特定したんだ? 警察ですら、決定的な証拠がなかったからこそ、逮捕に踏み切れなかったというのに」
その問いに対して、真実を話すことはできない。僕の直感を話すということは、一年前、『彼女』の身に起きた不幸を、この口から説明するということだ。去年のこの時期、同じようなことがあったからこそ、僕は犯人を断定した、と。
だから誤魔化す他ない。
「犯行現場、もしくは逃走する犯人を目撃した。この辺りが妥当ですかね」
「だからそれはあり得ないんだよ」
「また完全否定ですか。根拠はあるんですか? 根拠は」
「だってお前、相貌失認なんだろ?」
「……………………」
絶句してしまった。知られているはずのない秘密が、当然のように他人の口から出てきて、軽く言葉を失ってしまう。
「なんでも去年、自殺未遂をしたのはお前だそうじゃないか。その際、頭を強く打ち付けたことで障害が残ったんだろ? 軽い記憶喪失と相貌失認という形で」
「なんで……知ってるんですか?」
「調べた」
「調べた?」
「あのな、自白した奴を警察が放っておくわけがないだろ。取り調べの時は、それなりに容疑者が絞られていたから無視したが、一応お前の素性は調べさせてもらった。どうやら不幸な人生を歩んでいるようだな」
「自分が不幸だと思ったことはありませんし、だったら同情くらいしてくださいよ」
まいった。黒峰刑事は完全に無視していたし、桜枝刑事もおざなりな戯言しか話さなかったから、あまり深刻なこととして捉えられていないとたかを括っていたけど、まさかそんなに重要視されているとは思わなかった。今後は先のことも見据えて、自分の発言に責任を持つと誓います。
だが自殺未遂の件ならともかく、僕が相貌失認であることは基本的には一人しか知らないはずだ。
「お前が世話になっている主治医に話を聞いたんだよ」
「赤木先生にですか?」
「確かそんな名前だった。オッパイのデカい美人な先生な」
やはり間違いないか。先生は先生で、警察に協力しただけだから、僕が恨むのはお門違いではある。
にしても、名前よりもオッパイの方が印象強いとは、さすがは赤木先生だ。しかも桜枝刑事の目には、とても美人に映っているという。これは是非とも相貌失認に陥る前に会っておきたかった。もったいない。
話している間にも、注文していた品が届いた。メニュー通りの見栄えだが、現物で見ると胸やけしそうになる。その原因は、正面の刑事の存在が大きく占めているんだけれども。
ミルクも砂糖もいれず、そのままコーヒーを一口味わった桜枝刑事が、尋問を再開させた。
「相貌失認といっても、どの程度見えない? こればかりは本人に訊かなきゃ分からんからな」
「まず、もしかしたら勘違いしているかもしれませんけど、別に目が見えていないわけではないんですよ。障害が残る前と同じように見えています。ただ解らない……誰が誰だか、誰がどんな表情をしているのか理解ができない。赤木先生の言によれば、相貌失認を発症する人は意外と多いようですけど、僕はその中でも特にひどいそうです」
「特にひどい?」
「先天的に障害のある人は、無意識的に声や仕草で他人を見分けているようですけど、僕は何分、障害を負ってから一年も経っていませんからね。そんな技術はありません」
「俺はどうだ?」
「声と服装と身長で、一応は覚えました。でも黙り込んでいたり、スーツじゃなかったり、身を屈められたりされると、もう誰かわかりません」
だから目の前の人間が桜枝刑事であるという確証はない。似たような特徴を持った誰かが偽っていたところで、僕には判断できないのだ。なのでこの世界は僕にとって絶対的に不条理である。他人を信頼しない限り、絶対に真実を得ることができないのだから。
「それに分からないのは何も、人の顔だけではありませんよ。車だって色と大きさ……ナンバーで判断します。あとは特に不便はしてませんけど、似たような文字も読み違えることもあります」
「文字? 『め』と『ぬ』みたいなものか?」
「それはさすがに先っちょを見ればわかるでしょう。どちらかといえば『あ』と『お』みたいに、全体的に似ているものです。指でなぞって初めて判明します」
「あー、なるほどな。『あ』を連続で書いていくと、いつの間にか『お』になっていると同じ原理か」
それは単なるトリビアだ。
背もたれに体重を預けた桜枝刑事が、備え付けのミルクと角砂糖を、コーヒーの中に大量にぶち込んだ。どうやらブラックはお気に召さなかったらしい。
「ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。要は、お前が被疑者の顔を判別して犯行をほう助したわけではない、と言いたかっただけだ」
「せっかく丁寧に教えてあげたのに、随分とぞんざいな態度ですね」
「お前は尋問される側として、もうちょっと慎ましくはならんのか?」
身を乗り出した桜枝刑事が、僕の皿からカツサンドを一つ拝借した。向こうの奢りのため、文句は言えない。
「では詳しいことを話そう」
そう言ってから、口の中のカツサンドを咀嚼するのに時間がかかった。
「友達のいないお前に言っても無駄かもしれないが、ここからは他言無用で頼む」
「余計なお世話です」
友達がいないと言われるたびに傷つく僕の内心を察してほしい。
「被害者の死因はこの前も言った通り、心筋梗塞だ。腹上死って知ってるか? 性行為中に突然死することだ。被害者は元々心臓に疾患があってな、激しい行為に耐えられなかったそうだ」
やはり、か。ここまでは予想通りだ。
「性行為? じゃあ犯人は被害者の恋人だったわけですね?」
「そう供述している。が、その言い方はよせ。それじゃあまるで、お前は被疑者を知らなかったように聞こえるじゃないか」
「今のうちに言っておきますけど、僕が共犯者だってのは嘘ですからね?」
自分で言ってても、ダウトと宣言したくなるほどの白々しさだった。
しかし意外だ。教師である熊谷と、三年生の女子生徒が恋人同士だったって? それこそダウトだろう。奴は『彼女』を辱めた前科があるのだから。
僕の潔白な訴えも桜枝刑事は無視し、話を続ける。
「そして被疑者は被害者の鼓動が止まっていることを確認した後、怖くなって慌てて逃走したそうだ。どうだ、共犯者が存在する余裕などないだろ?」
「えぇ、まあ話を聞いている限りはそうですね」
「だがここからが重要だ。実はな、遺体が発見された時、保健室の扉に鍵が閉まっていた」
心臓が跳ね上がった。はっきり言って、扉に鍵を掛けたことは完璧に忘れていた。後先考えずに愚行を犯した過去の自分を呪いたい。
「被疑者は閉めた覚えはないという。つまり誰か他の人物が閉めた。目的は……おそらく死体発見を遅らせるためだろう。これが捜査線に共犯者が浮上した理由だ」
「犯人が嘘をついているという可能性は?」
「ないだろう。そんなことをしても意味がない」
「誰かが気づかずに閉めたんじゃ?」
「それもない。鍵は机の上に置いたらしい。あの狭い室内じゃ、鍵を手にした時点で遺体を発見することができるからな。共犯じゃなきゃ不可能だ」
「つまり鍵を掛けたのが僕だと? 証拠はあるんですか?」
「ない」
と、桜枝刑事は断言した。
「お前である証拠どころか、手がかりさえ掴めない状況だ。だから俺は一番可能性のあるお前に接触した。ったく、せっかく解決した事件を掻き回しやがって」
最後のはただの愚痴だろう。表情が読めないから、僕に向けて行ってるのか分からなかった。
最終的にカフェオレくらいに甘くなったコーヒーを飲みほしてから、彼は言った。
「で、鍵を掛けたのはお前か?」
「黙秘権を行使します」
「喋らないのはお前の自由だ。尋問するのも俺の自由だ。だがお前には、ここから立ち去る権利はない。なぜならそれは俺の奢りだからな。帰りたければ全部食ってから帰れ」
皿の上にはカツサンドとサラダがそれぞれ三分の一ほど残っている。クリームソーダは苦にならないにしても、ちょっと頼みすぎたかな。
桜枝刑事が憂鬱そうな溜め息を吐く。
「せめて違うと言ってくれ。捜査が進まない」
「犯人が捕まったんなら、それでいいじゃないですか。扉の鍵の有無なんて、事件とはあまり関係ないでしょうに」
「そうもいかねえんだよ。人が殺されておいて、それを隠匿しようとした奴がいる。それだけでも問題なんだ。警察は事件の完全解決が目的だからな。それにそいつが他の証拠も隠ぺいした可能性だってある。だとしたら、これは立派な証拠隠滅罪だ」
「他の証拠?」
「意図的に指紋を拭き取ったかもしれない。犯人が落とした学生証を拾ったかもしれない。もしくは鍵を掛ける以外には、何もしなかったかもしれない。一応事件は解決したから証拠自体は重要じゃないが、どちらにせよ、俺たちは保健室に鍵を掛けた人物を特定しなきゃならないんだよ」
「…………学生証?」
訝しげに問い返すと、桜枝刑事は己の失言に気づいたのか、小さく舌打ちをした。
「被害者の恋人だと教えた時点で、調べりゃ分かるか。いいか? これ以上、被疑者の個人情報になるようなことは言わんぞ」
「犯人は……学生?」
桜枝刑事が黙って首肯する。
…………は? と、僕は大きく口を開けたまま、身動きをすることができなかった。
「なんだその呆けた顔は。まるで予想だにしていなかったような顔だが?」
「だって、くま……」
危うく熊谷の名前を出すところだった。
「犯人は教師じゃないんですか?」
「どうしてそこで教師が出てくるんだ? 恋人だと言っただろう」
「人違い……とか?」
「ない。衣服に残っていた指紋とも一致したし、DNA鑑定のために精液も採取した。結果が出るのはまだ先だが、そこまでして自首は狂言だった、なんてことはないだろ。高校生の恋人同士だ。保険医がいないことを知って、手ごろな保健室を使ったんだろう」
「そんな……」
と、無意識に自分の口から絶望の呟きが漏れる。
熊谷が犯人ではなかった? いや、そんなはずはない。奴以外が犯人であるはずがないじゃないか。だって熊谷は『彼女』を……。
「あ……!」
声を荒げ、僕は唐突に立ち上がった。机に膝をおもいっきりぶつけたが、痛みを感じる以上に、僕は窓の外に釘付けになっていた。
「急にどうしたんだ?」
「いえ、知り合いが道路の向こう側に立っていたものですから」
そしてじっと、じぃっと『彼女』は僕を睨みつけている。歩道を通行する歩行者の邪魔になっていることすら意を介さず、身じろぎ一つしないまま、『彼女』は真っ直ぐに僕の誤解を咎めていた。
僕もまた、強い眼差しを以て、『彼女』の非難に抵抗する。
「知り合い? どこだ?」
「あそこです。道路の向こう側」
窓の外を覗いた桜枝刑事が、一瞬で捜すのを放棄した。
「嘘をつくな。相貌失認のお前が、知り合いとて判別できるわけがないだろ」
確かにその通りだった。しかも片道二車線の幅の広い国道であり、たとえ相貌失認でなくとも、視力の悪い僕には、歩行者すべての顔がぼんやりとしか視えなかった。
「そう……ですね」
桜枝刑事の顔を一瞥し、僕は再び窓の外へと視線を移す。『彼女』は変わらずそこに立っていた。
相貌失認の僕でも、『彼女』の顔だけは判別できる。それがいつ、どんな場所でどんな状況でも決して間違うことはない。僕の世界に唯一、表情という色がついた人間。それが『彼女』……荊木小百合。
だって……。
だって『彼女』は、僕の妄想なのだから。




