第9話 鏡鬼・前編
翌朝、二人は上流の渡しへ迂回し、落ちた峡谷橋の向こう岸へ出た。そこから進んだ先、赤茶けた荒野に半ば埋もれるようにして、旧グラディア軍の遺棄中継施設が口を開けていた。
王国防衛隊からの緊急依頼。ターゲットは、この遺跡に巣食う「鏡鬼」と呼ばれる未知の魔物だ。
「待て、ヴェラ。俺が先に行く」
薄暗い遺跡の入り口で、カイは前衛であるはずのヴェラを制止した。
カンテラの灯りを頼りに、カイは慎重な足取りで通路を進む。内部は黒潮から漏れ出した瘴気の影響で変質しており、壁や天井の至る所が、鏡のように滑らかな黒い結晶体で覆われていた。
カイは片手にペンを持ち、小ぶりな手帳に視界の情報を次々と書き込んでいく。
『入り口から二十歩。右の壁に結晶の出っ張り。光が乱反射する』
『床の石畳、左寄りに数カ所の浮き。強く踏み込めば崩れる』
『広間への三叉路。中央ルートは天井の崩落リスク大。退路は右に設定』
ひたすらに地形を歩き、測り、危険箇所を記録する。
物流課の巡回でしてきたことと同じだ。先に歩き、測り、記録する。戦っている最中に床まで一から調べずに済めば、その分、相手を見る余裕ができる。
背後で静かに追従していたヴェラが、カイの手帳を覗き込んだ。
「……不思議な記号だ。旧軍の暗号にも似ているが、規則性が違う」
「ただの俺のメモ書きだ。気にしなくていい。よし、広間まで粗方の地形は頭に入れた。退路も確保してある」
カイは手帳を閉じ、深く息を吐いた。
「行くぞ。戦闘開始後は、俺のコールに従え」
「了解した」
広間に出た瞬間、カンテラの光が巨大な結晶の柱に乱反射した。
その光の交錯する中心に、そいつは立っていた。
人型だが、顔には目も鼻もなく、全身が周囲の壁と同じ、滑らかな黒鏡の装甲で覆われている。関節の継ぎ目すら見当たらない異様な姿。鏡鬼だ。
侵入者を感知した鏡鬼が、音もなく滑るように接近してくる。
カイの脳内で、事前の下見で作成したノートの情報が一気に展開された。床の凹凸、結晶の反射角、ヴェラの歩幅と槍の間合い。すべてが一本の完璧なラインへと収束する。
「右四! 柱の影から抜け、結晶の反射を避けろ!」
カイの短く鋭いコール。
ヴェラは一切のラグなく即応した。右へ四歩、足元の浮いた石畳を正確に避けながら、光の死角となる柱の影を疾走する。
鏡鬼がヴェラの残像を追って腕を振り下ろすが、そこに彼女はすでにいない。
「左から回り込め。膝裏の関節を突け!」
ヴェラは完璧な軌道で鏡鬼の背後を取り、全体重を乗せた刺突を下段へ放った。
槍の切先が、鏡鬼の右脚の裏側へ吸い込まれる。
――勝った。
カイがそう確信した次の瞬間だった。
ガンッ!!
岩を砕くような硬質な音が響いた。だが、それは鏡鬼の装甲が砕けた音ではなかった。
「な……っ!?」
ヴェラの身体が、凄まじい勢いで後方へ弾き飛ばされた。
彼女の放った槍の刺突。その「前へ進む威力と速度」が、まるで目に見えない分厚いゴム壁にでも叩きつけられたかのように、そのまま真逆のベクトルとなってヴェラ自身に跳ね返ってきたのだ。
空中で体勢を立て直そうとしたヴェラだが、反発の威力があまりに強すぎた。彼女の右肩が結晶の柱に激突し、鈍い音が鳴る。
「ヴェラ!」
カイの悲鳴に近い声。
弾き飛ばされたヴェラを、鏡鬼がゆっくりと振り返る。その滑らかな黒い顔面に、負傷して膝をつくヴェラの姿が映り込んでいた。
カイの脳内で、思考が焼き切れそうにフル回転する。
物理的な反発ではない。ヴェラの攻撃のベクトルそのものが『反転』した。これが鏡鬼の特性か。
『観測された動作を、次の瞬間に反転させる』。
もしそうだとしたら、カイの《戦導》は最悪の相性だ。カイのノートは、地形と既知のデータから「最も無駄のない最適解」を導き出す。しかし、未知の魔法的特性までは創造できない。
最適で、最高速度の攻撃ラインを組めば組むほど、それは「回避不能の最大火力のカウンター」となってヴェラに襲い掛かる罠となる。
鏡鬼が、倒れたヴェラに向けて黒い腕を振り上げた。
カイには無数のラインが見えていた。回避のライン、反撃のライン。だが、どのラインを選んでも、その先でヴェラが殺される結末しか見えなかった。反転の条件が絞りきれていない。
でっち上げるな。分からないなら、退け。
「右へ飛べ! 全速で後退だ、広間から出ろ!」
カイは勝利の道を探すことを放棄し、撤退のコールを叫んだ。
ヴェラは痛みに顔を歪めながらも、一切の疑問を挟まずに右へ転がり、そのまま出入り口の通路へと駆け出した。
鏡鬼がそれを逃さじと、異常な速度で追撃をかけてくる。
このままでは通路に入る前に追いつかれる。
カイは手帳を通路の入り口へ投げ、自らもそこへ全力で走った。事前の下見で記憶していた、通路のアーチを支える腐食した石の支柱。
「そのまま抜けろ!」
支柱には、崩れた天井板を支える古い鉄のつっかえ棒が噛ませてあった。カイはその留め金へ、拾った石を叩きつけた。
一度では抜けない。二度目で指の皮が裂けた。
ヴェラが通路へ滑り込み、落ちた手帳を拾って外套へ押し込んだ。カイが棒を引いた直後、石板が傾いた。
下端が壁の出っ張りに当たり、一瞬だけ止まる。鏡鬼の腕がその隙間へ突き込まれた。
カイは棒を横に渡し、腕を押し返した。鉄が曲がる。
「こっちだ!」
ヴェラがカイの襟を引いた。棒が折れるのと同時に、出っ張りを砕いた石板が落ちた。鏡鬼の腕が内側へ引っ込み、二人の靴先まで粉塵が吹き出した。
*
遺跡の外、赤茶けた荒野まで撤退した二人は、岩陰に身を隠していた。
カイは荒い息を吐きながら、手早くヴェラの右肩の装備を外し、擦り傷に布を当てていた。肩は腫れ始めている。折れているかはカイには判断できない。ヴェラにゆっくり動かしてもらうと、頭上へ上げる途中で眉が寄った。
「……すまない」
カイは包帯を結び終えると、深く頭を下げた。
「俺のノートが間違っていた。あいつの特性を読み切れず、お前を罠に突っ込ませた」
万能の未来予知などではない。情報が不足していれば、カイのコールは容易に人を殺す。その恐ろしい事実が、重くのしかかっていた。
だが、ヴェラは痛むはずの右肩を軽く回しながら、平坦な声で答えた。
「退くと決めたのは正しかった。だが、この肩では同じ突きはできない。次の道には、それも入れてくれ」
それは慰めではなく、純粋な戦果の評価だった。
カイは頷いた。無傷だったことにも、失敗しなかったことにもできない。
ヴェラが外套から手帳を取り出し、差し出した。カイは受け取り、右肩、と余白へ書き加えた。
「敵は動作を反転させる。だが、法則性はあるはずだ」
普段なら、カイにすべてを委ねて「次はどう動く?」と指示を求めるだけの彼女が、手帳のページを見つめながら、カイの目を見た。
「指揮官。勝つために……今は『何が分からない』?」
カイは、隠していた空欄を彼女の方へ向けた。




