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戦えない転生者ですが、亡国の女兵士の専属ナビになりました~元ラリーの助手席担当、十五メートルの戦場を読む~  作者: 他力本願寺


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第8話 休日の命令

峡谷橋での激戦から数日が経過していた。


 極限の戦導による過負荷で倒れたカイも、三日間の休息を経てようやく吐き気と激しい頭痛から解放された。ギルドは峡谷橋防衛の功労者である二人に、特別報酬とともに完全な一日の休暇を与えた。


「いいか。今日は任務はない。俺も仕事はしない。だから、お前も自由に過ごせ」


 朝、宿屋のロビーで、カイはヴェラにそう告げた。


 指示や命令がない一日は、彼女にとって有意義な休息になるはずだと思ったからだ。カイ自身も、今日ばかりは危険地帯の下見も路地の図面引きもやめ、ただの街の住人として息を抜くつもりだった。


 しかし、昼下がりにギルド併設の酒場を覗いたカイは、深い溜息をつくことになった。


 ヴェラは、いつもとまったく同じ時間に起き、宿の裏庭で旧グラディア軍の教範に沿った型稽古を寸分違わぬ回数だけこなしていた。そして今、酒場の隅の席で、彼女が昼食として口に運んでいるのは「最も固く焼かれた黒パンと、塩漬けの干し肉」だった。


 それは、ギルドのメニューの中で最も安価であり、同時に軍の携帯配給食に最も近いものだ。


「……お前、休暇だって言ったよな」


 向かいの席に腰を下ろしたカイに、ヴェラは干し肉を咀嚼しながら平坦な声で答えた。


「休暇だ。だから、定刻通りに自己鍛錬を済ませ、食事を摂っている」


「それがいつも通りすぎるって言ってんだよ。せっかくの休みなんだから、もっと美味いものを食うとか、街を見て回るとかあるだろ」


 カイの言葉に、ヴェラはわずかに眉をひそめた。


「『美味いもの』や『街を見て回る』という指示は、行動基準が極めて曖昧だ。私は現在の黒パンと干し肉の組み合わせが、価格に対する栄養価と保存性、咀嚼による顎の筋力維持の観点から最も合理的だと判断して選択している」


 反論の余地がないほど理路整然とした回答だった。


 カイは彼女を観察し、ある一つの確信を得た。彼女は「自分で判断できない」わけではない。常に状況を計算し、合理的な最適解を導き出す知能は十分すぎるほど持っている。


 彼女に欠けているのは、「合理的なルーチンから外れる理由」なのだ。


 軍の教範には「自分が何を望むか」という個人の欲求を優先する項目はない。だから彼女は、自由を与えられても定型の中に留まることしかできない。


「……ちょっと来い」


 カイは立ち上がり、食べかけの黒パンを持ったままのヴェラを促して酒場を出た。


 二人が向かったのは、セルカの街の中央広場から続く、賑やかな屋台通りだった。


 肉を焼く香ばしい匂い、果実を煮詰めた甘い香り、スパイスの刺激的な匂いが入り混じり、活気に満ちている。


「いいか、ヴェラ。お前の理屈は正しいが、たまには違う栄養素も必要だ。これは戦術観測員としての提案だ」


 カイがそう言うと、ヴェラは屋台の並びを鋭い目でスキャンし始めた。


「提案を受領した。では、あちらの串焼きを。タンパク質の摂取効率が良さそうだ」


「串焼きがいいなら、それでいい。ただ、ほかに気になるものはないか」


 カイは頭を掻き、彼女の灰色の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「これは俺のコールじゃない。命令でもない。お前が『食べてみたい』と思うものを、自分で一つ選べ。理由は『なんとなく匂いが気になった』とか『見た目が面白そう』とか、そういう適当なものでいい」


 ヴェラはピタリと動きを止めた。


 効率を無視して、自身の欲求だけで選択しろという要求。それは、彼女が長年身を置いてきた軍の命令体系とは対極にあるものだった。


「……非合理的だ」


「急がなくていい。俺は蜂蜜の匂いが気になる」


 ヴェラは困惑したように周囲を見回した。明らかに居心地が悪そうに、何度か屋台の列を行き来する。


 やがて、彼女がある一つの小さな屋台の前で立ち止まった。


 そこには、表面にたっぷりと蜂蜜が塗られ、こんがりと焼き上げられた丸いパンが並んでいた。


「……これがいい」


 ヴェラが指差した。


「蜂蜜入りのパンか。なんでそれにしたんだ?」


 カイが尋ねると、ヴェラは少しだけ視線を逸らし、事務的な報告のように口を開いた。


「昨日、ギルドの待合所で他の冒険者がこれを食べていた。その時の、甘い匂いが……忘れられなかった。携行食には向かないが、今日は持ち歩く必要がない」


 言い訳がましいその言葉に、カイは思わず吹き出しそうになったが、ぐっと堪えて銅貨を支払い、二つの蜂蜜パンを受け取った。


*


 広場のベンチに座り、ヴェラは手渡された蜂蜜入りのパンを見つめていた。


 表面はテカテカと光り、温かい甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 彼女はそっと端を齧った。


 ――甘い。


 口の中いっぱいに広がる強烈な甘味と、バターの風味。いつも食べている軍の配給に近い黒パンの、顎が疲れるほどの固さと塩気とはまったく違う、柔らかく暴力的なまでの美味しさだった。


 気がつけば、彼女は二口、三口と立て続けにパンを口に運んでいた。


 食べる速度が速いのは軍隊時代の癖だが、今の理由は違う。純粋に、もっと味わいたいという欲求が身体を動かしている。


 ヴェラは咀嚼しながら、不思議な感覚に陥っていた。


 これは任務ではない。カイに命令されて選んだわけでもない。自分が、あの匂いをもう一度確かめたいと思い、自分で選んだ結果なのだ。


 自分の中に「これが好きかもしれない」という、戦場にはまったく不要だったはずの感情が存在している。その事実への戸惑い。


 だが、口の中に広がる甘さは、決して不快ではなかった。


*


 カイは、隣で驚くべき速度でパンを平らげていくヴェラを見て、小さく笑みをこぼした。


 完全な兵士のように見えて、彼女の中には確実に普通の人間としての欲求が眠っている。ただ、それを表に出す方法を知らないだけなのだ。


 その時だった。


 カンッ、カンッ、カンッ!


 広場に隣接する監視塔から、定刻と避難経路の確認を兼ねた警鐘の試験放送が鳴り響いた。


 バッ!


 空気が弾けるような音がした。


 ベンチに座っていたはずのヴェラが、瞬きする間に立ち上がっていた。


 背筋は定規で測ったように真っ直ぐに伸び、両足の踵は寸分違わず合わさっている。視線は特定の虚空を睨み据え、完全に統制された旧グラディア軍の直立不動の姿勢。


 手に持っていた残りのパンが、ぽろりと地面に転がり落ちた。


 広場を行き交う人々が、突然異様な姿勢を取ったヴェラを奇異の目で見る。


 カイは立ち上がり、彼女の肩を軽く叩いた。


「……おい、ヴェラ」


 ビクッと肩を震わせ、ヴェラの瞳に焦点が戻った。


 彼女は自分の足元に落ちたパンと、不自然に伸びきった自分の手足を見下ろした。


 ヴェラは足を開こうとした。踵が床を擦っただけで、もう一度揃った。


「二つ短く、一つ長く……旧軍の整列の拍だ」


 カイは門で聞いた鐘を思い出した。あの時も、同じ間隔だった。襲撃の警鐘の乱打では起きなかった硬直が、今、目の前にある。


「……今、私は」


 ヴェラの声が、微かに震えていた。


「鐘の音だけで、勝手に……思考するよりも先に、軍の姿勢を取ったか?」


 カイは何も言わず、ただ静かに頷いた。


 命令への即応。それは彼女の最強の武器であると同時に、音や特定の条件だけで身体の主導権を奪われるという、強固な呪いでもある。


 ヴェラは地面のパンを拾い上げず、自身の震える両手を強く握り込んだ。彼女が初めて見せた、自身の肉体に刻まれた条件付けに対する、明確な恐怖と嫌悪の表情だった。


「休暇の邪魔をして悪いね、二人とも」


 重苦しい沈黙を破ったのは、広場へ足早に歩み寄ってきた物流課長のミナだった。彼女の顔には、いつもの余裕はない。


「峡谷橋で見つかった黒晶の件で、王国の防衛隊からギルドへ急ぎの調査要請が来た。あの橋を抜けた先にある旧軍の遺棄遺跡に、異常な魔力反応があるらしい」


 ミナはカイに一枚の羊皮紙を突きつけた。


「お前たちを指名だ。ターゲットは『鏡鬼(きょうき)』。観測された事象を、次の瞬間に反転させる特性を持つ未知の魔物だそうだ」


 カイは羊皮紙を受け取りながら、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。


 観測された動作を反転させる。それはつまり、自分が下見で引いたラインが、すべて罠に変わるということを意味している。


 黒潮の前兆は、二人の休日の終わりを容赦なく告げていた。

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