第7話 橋が落ちる
セルカの街の北西、深く切り立った渓谷を繋ぐ巨大な石造りのアーチ橋。
ここを突破されれば、魔獣の群れは障害物のない平原を抜け、半日でセルカの市街地へと到達してしまう。ギルドから指名で下された高難度依頼は、増援が到着するまでの半日間、この橋を死守するというものだった。
「右三、薙げ! 次、左四の巨体、二秒待ってから下段!」
吹き抜ける強風の中、カイの鋭いコールが響き渡る。
橋の中央部、最前線に立つヴェラは、カイの言葉をそのまま自身の神経パルスに変換したかのように躍動していた。
右へ三歩踏み込み、俊敏な四足獣を両断する。そのまま指示通りに二秒の「タメ」を作り、突進してきた重量級の魔獣が体勢を低くした瞬間に、装甲の隙間へ槍を突き入れた。
完璧な連携。押し寄せる魔獣の数はすでに三十を超えていたが、防衛線は一歩も後退していない。
カイは境界を踏まないよう十メートル前後を保ちながら、魔獣の重心、足運び、そして石橋の劣化具合を絶え間なく確かめていた。
前世のラリーで培った、情報を最適ルートへと圧縮する処理能力。それが異世界でスキルとして定着した《戦導》の力は、ヴェラの異常な即応性と組み合わさることで、圧倒的な戦果を叩き出していた。
だが、限界は人ではなく、環境の方に先に訪れた。
「……マズいぞ」
カイの足の裏に、嫌な振動が伝わった。
橋の中央部。数十頭の魔獣の質量と、ヴェラとの激しい戦闘による衝撃が、長い年月で風化していた石組みの限界値を超えたのだ。
ズズズンッ……!
腹の底を揺らすような地鳴り。次の瞬間、ヴェラが立っていた最前線の石畳が、ごっそりと渓谷の底へ向かって抜け落ちた。
「橋が落ちる!」
後方で待機していた冒険者の一人が絶叫し、蜘蛛の子を散らすようにセルカ側の岸へと逃げ出していく。
カイの立っている位置は、まだセルカ側の岸に近い。振り返って全力で走れば、崩落に巻き込まれる前に安全圏へ逃げ切れる。
しかし、ヴェラは違う。彼女は崩壊の中心にいる。
もしここでカイが後退すれば、二人の距離はあっという間に十五メートルを超える。姿勢と速度の同期認知が切れれば、カイの高速コールは届かない。周囲を魔獣に囲まれ、足場を失いつつある彼女は、間違いなく死ぬ。
『自分の声を信じて他人が死ぬ状況を、二度と作ってはいけない』
前世のトラウマが、カイの足を後方へ向けさせようとする。
だが、ヴェラはまだ戦っていた。崩れゆく足場の上で、次のコールが飛んでくることを微塵も疑わずに、槍を構え続けている。
「……クソがッ!」
カイは悪態を吐き捨て、安全な後方とは真逆――足場が次々と消滅していく橋の『落下線』へと、自ら走り込んだ。
「前二、二秒保つ! そこから右へ飛べ!」
カイの怒鳴り声が風を切り裂く。
崩壊していく石橋の上。重力に引かれて落ちていく巨大な瓦礫の滞空時間、魔獣の挙動、そしてヴェラの跳躍力。それらすべてをカイの脳が恐ろしい速度で計算し、空中に見えないラインを引いていく。
ヴェラはカイの言葉通りに、まだ崩れずに宙へ浮いている石塊を蹴り、右へ跳躍した。
空中で魔獣の牙を槍の柄で弾き落とし、さらに別の瓦礫へと着地する。
カイ自身もただ立っているわけではない。安全圏から駒を動かす軍師ではなく、同じ死線を走る助手席のナビゲーター。彼は、今にも崩れ落ちそうな欄干の残骸へ飛び移り、必死でバランスを取りながら十五メートルの距離を維持し続けた。
ヴェラが前へ出るたび、カイも欄干を追った。間は長くても十メートルほど。粉塵で腰が隠れると読みが途切れ、風に払われた外套の下へ足が見えてから、次のコールを出した。
「左の柱跡、踏み抜け!」
「正面の敵ごと落とせ!」
連続するコール。ヴェラは一切の逡巡なく足場のない空中戦を演じ、魔獣を斬り捨て、あるいは崩落する岩もろとも谷底へ蹴り落としていく。
二人の連携は、崩壊というランダムな事象すらも計算に組み込み、死のダンスを踊り続けていた。
魔獣が押し寄せてきた側の岸へ、あと少し。残った石組みを渡ろうとした時、最後にして最大の崩落が始まった。
橋を支えていた巨大なアーチに、端から亀裂が走った。
対岸の縁までは、およそ八メートル。カイには跳べない。戻る側の石組みは、もう谷底へ消えていた。
足元が傾く。
脳裏に、雨のフロントガラスと、ひしゃげるステアリングが重なった。また、ここで相棒と落ちるのか。
「……ッ、終わらせるかよ!」
欄干の外に、点検用の鎖があった。片端は対岸の石壁に残っている。
「ヴェラ、鎖だ! 俺のすぐ下を持て!」
カイは両腕を鎖へ回し、石の縁に靴を擦らせて身体を下げた。掌に環が食い込む。鎖が張ったところで、石組みが足から離れた。
身体が岸壁へ向かって振られる。ヴェラも下の鎖を掴んでいた。靴先がカイの膝をかすめるほど近い。
「壁に当たる。足を出せ!」
肩に痛みが走った。カイは岸壁の石積みへ靴底を当て、一度滑り、二度目で細い縁を捉えた。鎖を胸へ抱え、腰を石へ押しつける。
下のヴェラは、張り出した石に阻まれて足を置けない。だが、カイの膝の高さまでなら靴が届く。
「俺を踏み台にして上がれ!」
カイは石積みを踏みしめ、膝を曲げた。ヴェラの靴底が腿へ乗る。背中を岩へ押しつけられ、息が詰まった。
彼女はそこから岸壁の継ぎ目へ槍を差し、上の突起に片足をかけた。
届いた。差し伸べられた手が、カイの腕をつかむ。
「お前を落とせば、次の指示が聞けない!」
「鎖が――」
「掴んだままでいろ!」
ヴェラが石の出っ張りを一段ずつ登る。カイも鎖をたぐり、靴を置ける目地を探した。片方が足を上げるたび、もう片方が止まる。最後にヴェラの肘が岸へかかり、カイの襟を引きずり上げた。
ドゴォッ!
肺の空気がすべて吐き出されるほどの衝撃。
二人は岸の土の上へ崩れ落ち、這って縁から離れた。背後では、残りの石橋が轟音とともに渓谷の底へと消えていく。
「はぁっ……! はぁっ……!」
カイは仰向けのまま、酸素を求めて激しく喘いだ。
助かった。生き延びたのだ。
そう認識した瞬間、カイの脳に異変が起きた。
「……っ!?」
急激に視界の端が黒く塗りつぶされ、極端な視野狭窄に陥った。景色がぐるぐると回転し、胃袋の中身がせり上がってくるような強烈な吐き気が襲う。
ぽた、ぽた。
仰向けの顔を伝って、どろりとした生温かい液体が頬を伝い、地面に落ちた。鼻血だった。
「おい。大丈夫か、指揮官」
ヴェラが身を起こし、カイの顔を覗き込んでくる。だが、カイは彼女の問いかけの意味を理解するのに、異常なほどの時間がかかっていた。
頭の中で単語がバラバラに分解され、繋がらない。思考が泥沼に沈んだように遅延している。
これが、限界を超える速度で他者の運動と状況を同期処理し続けたことによる、脳への過負荷の代償。
速さの代金が、今になってまとめて来ていた。
カイは立ち上がることもできず、ただ横たわったまま数分間、荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
やがて、わずかに視界の端がクリアになってきた頃。
カイを支えるようにして座っていたヴェラが、ふとすぐ下の岸壁を見下ろして短く声を上げた。
「……見ろ」
カイが重い首を巡らせると、崩落に巻き込まれず、二人が這い上がった岸の縁に串刺しになって絶命している大型魔獣の死骸があった。
異常なのは、その死骸の腹部だ。
裂けた肉の奥から、臓器ではなく、ぬらぬらと黒光りする無数の結晶体が突き出していた。
「黒晶……」
カイは掠れた声で呟いた。
それは、断層地帯からあふれ出す魔物災害「黒潮」の中心にしか存在しないはずの物質だ。それが、こんな辺境の魔獣の体内で異常増殖している。
季節外れの前兆。
カイは結晶の位置を覚えようとした。だが数字が頭に残らない。
「今は私が覚える」
ヴェラがそう言って、彼の手から手帳を取った。
セルカ側から、救助隊を回すという声がした。橋は落ちた。二人は魔獣が渡ってきた側の岸で、その到着を待った。




