第6話 緊急のダリオ
セルカ郊外から北東へ伸びる交易路は、険しい岩山を縫うようにして続いている。
両脇に切り立った岩壁が迫るこの谷間は、見晴らしが悪く魔物の奇襲を受けやすい。商人の護衛として同行していたカイは、荷馬車の最後尾に座り、絶えず岩肌を観察していた。
「……ダリオ。右上の岩壁、三番目の出っ張りから先は警戒を強めろ。砂が落ちる間隔が不自然だ」
護衛パーティのまとめ役であるダリオに、カイは声をかけた。
ダリオは歩きながら頭上を見上げ、顔をしかめた。
「砂? 風のせいじゃないのか?」
「風向きと砂の落ちる角度が合ってない。何かが岩肌に張り付いて、少しずつ動いてる」
カイが砂の落ちる岩を指した直後だった。
岩壁の一部が、ドリュッと不気味な音を立てて剥がれ落ちた。
「岩殻蜥蜴だ! 岩に擬態してやがった!」
ダリオが剣を抜き放ちながら叫ぶ。
体長三メートルを超える巨大なトカゲの魔獣が、四頭、五頭と岩壁から飛び降りてきた。岩石そのもののような分厚い装甲に覆われており、巨体に似合わず動きが速い。
「前衛は俺たちが抑える! 後方の二頭を頼む、事務屋!」
「了解した。行くぞ、ヴェラ!」
前方の三頭をダリオたちのパーティが引き受け、後方に落ちてきた二頭をカイとヴェラが迎え撃つ。
ヴェラが音もなく荷馬車から飛び降り、槍を構えて走り出す。カイも距離を保つために地面へ降り立った。
その時、前方の岩殻蜥蜴が一頭、岩壁に激しく体当たりをした。
ゴゴゴゴゴッ!
その衝撃で、脆くなっていた崖上から小規模な落石が発生したのだ。
「チィッ!」
カイは落下してくる岩の軌道を読み、咄嗟に後方へ飛び退いた。直後、カイとヴェラの間に、馬車よりも巨大な岩塊が轟音とともに落下した。
濛々と土埃が舞い上がる。岩塊が壁となり、前衛のダリオ・ヴェラたちと、最後尾にいたカイの視界が完全に分断されてしまった。
プツン。
ヴェラの姿勢を読む感覚が消えた。距離は十五メートルぎりぎり。だが、範囲内でも岩に隠れれば同期は切れる。坑道の角と同じだ。カイは岩を回り込める側を探した。
「ヴェラ! 状況は!」
岩の向こうから、激しい金属音と魔獣の咆哮が聞こえる。彼女なら単独でも問題なく戦えるはずだ。
だが、カイの背後――安全だと思われていた後方から、六頭目の岩殻蜥蜴が地鳴りを立てて突進してきた。
「くそっ、回り込んでたのか!」
ダリオのパーティの一人が叫び、迎撃に出る。しかし、足場の悪い岩場では冒険者たちの動きは鈍り、魔獣の分厚い装甲に剣を弾かれて押し込まれていく。
「下がれ! 俺がやる!」
岩の向こうから駆け戻ってきたダリオが、仲間の前に立ち塞がった。
ダリオは熟練の冒険者だ。魔獣の突進を盾でいなし、装甲の薄い腹部を狙って剣を滑り込ませようとする。しかし、岩殻蜥蜴は強引に姿勢を捻り、太い尻尾でダリオの足を払いにきた。
カイの目に、地形と魔獣の重心移動がクリアなラインとなって浮かび上がる。
ダリオの技術なら、このラインをなぞれば完全に躱して反撃できる。
「ダリオ! 右二、伏せて薙げ!」
カイはヴェラに出すのと同じように、情報を極限まで圧縮した緊急のコールを飛ばした。
坑道でダリオは二人の連携を見ている。彼なら、短くしても伝わると思った。
しかし。
「右二? 二歩か――」
ダリオの身体は、一瞬だけピタリと止まってしまった。
ダリオの右足が浮き、盾が半ば下がった。「伏せて」の続きが届く前に、尻尾が来た。
普通の人間としては、あまりに当然の反応だった。
だが、秒単位で死線が移動する極限の戦闘において、その『理解するための時間』は致命的な遅れとなる。
ダリオが右へ動こうとした時には、すでに岩殻蜥蜴の尻尾の薙ぎ払いが彼の胴体を捉えていた。
ガツンッ、という鈍い音とともに、ダリオの身体が宙を舞い、岩壁に激しく叩きつけられる。
「がはっ……!」
ダリオが血を吐き、そのまま地面に崩れ落ちた。剣は手からすっぽ抜け、数メートル先に転がっている。
岩殻蜥蜴が、無防備なダリオの頭を噛み砕こうと大きく口を開けた。
ダメだ。普通の人間には、俺のコールは遅すぎて使えない。
カイは自身の誤算を呪いながら、一切の躊躇なく駆け出した。
「こっちだデカブツ!」
カイは丸腰のまま魔獣の死角へ走り込み、足元にあった手頃な石を蹴り上げた。石は岩殻蜥蜴の顔面に直撃し、パキンと甲高い音を立てて弾け飛ぶ。
当然、ダメージなどない。だが、魔獣の意識をダリオから剥がすには十分だった。
怒り狂った魔獣がカイへ向き直り、その巨大な顎を迫らせる。
カイは恐怖で震えそうになる膝を必死で抑え込んだ。回避のラインは見えているが、自分の筋力では絶対に追いつかない。
その時。
カイの視界に、十五メートル先の岩塊を蹴って宙を舞う、灰色の外套が飛び込んできた。
ヴェラが帰還した。
同時に、カイの脳内で霧散していた同期ラインが、カチリと音を立てて再び結合する。彼女の筋肉の収縮、重心の偏り、地面への落下予測地点。すべてが瞬時に計算され、最短の道が引かれる。
「前三、左から抜け!」
それは、先ほどダリオが反応できなかったのと同じ、圧縮された非定型の指示。
だがヴェラは、空中にいる状態からすでに『前三』の踏み込みを前提とした着地姿勢をとっていた。「前三」が終わる前に、つま先が地面を向いていた。
着地と同時、ヴェラが爆発的な速度で前へ三歩踏み込む。
魔獣がカイへ噛みつこうとしたその瞬間、ヴェラは魔獣の左側をすり抜けながら、下段から槍を突き上げた。
分厚い岩殻の継ぎ目、わずか数センチの隙間を、槍の切先が正確に貫通する。
脳髄を直接破壊された岩殻蜥蜴は、声すら上げることなく、カイの目の前でドサリと崩れ落ちた。
*
「……いててて」
脇腹を押さえながら、ダリオが顔をしかめて立ち上がった。息をするたびに顔が歪む。カイは彼を座らせ、仲間に搬送用の荷台を空けてもらった。他の魔獣たちも、仲間たちとヴェラによってすべて片付けられていた。
「助かったぜ、事務屋。お前が囮になってくれなきゃ、今頃俺の頭はトカゲの胃袋の中だった」
「気にするな。俺の指示が悪かったんだ」
「次は、お前の間合いに合わせて早く言う。二歩なのか、右側なのか、迷わせないように」
カイが溜息をつくと、ダリオは自嘲気味に笑った。
「いや、お前の指示は聞こえてたし、意味も分かった。お前の言った通りに動いていれば、完璧に躱せてたのも分かったよ。だがな……」
ダリオは、自分の槍についた血を拭っているヴェラを見やった。
「頭で理解して、身体に『動け』って命令を出した時には、もう手遅れだったんだ。あんな指示を聞いた瞬間に動ける人間なんて、普通はいるはずがねえ」
その言葉は、カイが薄々感づいていた事実を決定的に証明していた。
カイの《戦導》は、味方を無条件で強化する万能の能力ではない。カイの思考速度に、コンマ数秒のラグもなく運動を合わせられる『ヴェラの異常な即応性』があって、初めて機能する力なのだ。
声を聞けば誰でも強くなるわけじゃない。今の短さで動けるのはヴェラだった。ダリオの力量ではなく、共有していない言葉を使ったカイの失敗だ。
「おい」
不意に、背後から底冷えのするような声がした。
振り返ると、ヴェラが槍を構えたまま、じっとカイを睨みつけていた。
「お前は、私以外にも指示を出すのか」
「え?」
「私が岩の向こうにいる間、お前はこの男に指示を出した。そうだな?」
ヴェラの口調はいつも通り平坦だったが、眉間には、戦っている時より深い皺が寄っていた。
まるで、自分だけのものだと思っていた武器を、他人に勝手に使われたかのような。
「あれは緊急事態だ。ダリオが死にそうだったからな」
カイは肩をすくめ、小さく笑った。
「それに、安心しろ。普通の人間に俺のコールは使えないってことが、嫌というほどよく分かったよ。俺の無茶苦茶な指示で動けるのは、お前だけだ」
その言葉を聞いて、ヴェラはわずかに目を瞬き、不快そうに歪んでいた眉根をそっと戻した。
「……そうか。ならばいい」
彼女は槍を背中に納め、さっさと歩き出した。その背中を見送りながら、ダリオが小声でカイに囁いた。
「なんだよあの女、やきもちか?」
「馬鹿言え。ただの効率主義だよ」
カイはそう切り捨てたが、心の中では少しだけ安堵していた。
帰路、荷台のダリオへ意識を向けると、ヴェラの踏み出しが読めなくなった。二人を交互に見ても、同時にはつかめない。
その夜、カイはミナに計測を頼んだ。十五メートルを越えると同期は切れる。遮蔽物でも切れる。そして、深く動きを合わせられる相手は一度に一人。
「記録の表題は?」とミナが聞いた。
カイは迷ってから、《戦導》と書いた。道を示す力。道そのものを作れる力ではない。
数日後。セルカの冒険者ギルドの掲示板に、一枚の依頼書が張り出された。
それは、ダリオの推薦もあってカイとヴェラへ指名で回ってきた、高難度の護衛任務だった。
目的地は、峡谷を跨ぐ巨大な石造りの橋。
依頼書には、増援到着までの半日を確保せよ、とあった。カイはその時間を二度読み直した。




