第5話 崖道の護衛
セルカの冒険者ギルド、その奥にある応接室。
分厚い木製のテーブルの上に、一枚の書類が置かれていた。
「……で。これは何の冗談ですか、ミナさん」
カイは額を押さえながら、向かいに座る恰幅の良い女性――物流課長のミナを睨みつけた。
ミナは普段の業務中とは違う、真剣な眼差しで腕を組んでいた。
「冗談じゃないさ。ギルドとしての正式な要請だよ。お前を、B級冒険者ヴェラ・カルドの専属『戦術観測員』として仮契約する」
ミナが添えた登録票には、実技審査によるB級認定の印があった。登録して日が浅くても、槍の腕は審査済みということだ。
昨日の坑道崩落騒ぎの後、カイが余白に書き溜めていたメモが多数の命を救ったことは、ギルド上層部でも話題になっていた。それに加え、ダリオたち熟練冒険者からの報告だ。カイの指示とヴェラの動きが合わさった時、単体の冒険者ではあり得ない戦力が生まれると。
「断ります。俺は物流課の事務員です。命のやり取りに関わる気はありません」
「だが、お前がいなければ私は最大限の速度を出せない」
ミナの横に直立不動で立っていたヴェラが、平坦な声で口を挟んだ。
「お前の声は、私の身体を最適に動かす。お前の指示があれば、生存率も討伐効率も飛躍的に向上する。非合理的だ」
「俺はお前の指揮官じゃないと言っているだろ」
カイは声を荒げた。他人の命を預かることの恐ろしさを、彼女は何も分かっていない。
前世で相棒を死なせたトラウマが、カイの奥底で鈍く痛んだ。
「お前のその『命令されたら考えずに動く』って癖、いつか致命的なミスを起こすぞ。俺の言葉が間違っていたらどうするんだ」
「その時は死ぬだけだ。兵士とはそういうものだ」
迷いのないヴェラの即答に、カイは絶句した。
このままでは、彼女はいずれ誰かの間違った命令で死ぬ。それが自分ではない誰かであったとしても、あの崖っぷちのような危うさを放置していいのか。
カイは深く、長い溜息をついた。
「……分かった。仮契約だ。だが、俺から二つ、絶対に譲れない条件がある」
「言ってみろ」
ヴェラが少しだけ身を乗り出す。
「一つ、俺が戦場で発する言葉は『命令』じゃない。ただの情報の提示だ。俺はこれを『コール』と呼ぶ。お前に命令する権限を、俺は持たない」
カイは書類を指差しながら続けた。
「二つ。お前は俺のコールに必ずしも従わなくていい。俺が間違っていると思ったら、いつでも拒否しろ。その判断はお前に任せる。これが飲めないなら、契約は破棄だ」
ヴェラは眉一つ動かさず、数秒だけ沈黙した。
「非効率だ。いちいち判断を挟めば、反応速度が落ちる」
「それでもだ。俺は人形を操りたいわけじゃない」
睨み合いが続く。やがて、ヴェラは小さく顎を引いた。
「……了承した、指揮官」
「だから指揮官と呼ぶな」
カイは頭を抱えながら、仮契約書にサインを書き込んだ。
*
仮契約を結んだその日の午後。二人はさっそく、最初の合同任務に出ていた。
依頼内容は、セルカ郊外から隣街へと続く険しい崖道を越える商人の荷馬車の護衛。普段から落石が多く、魔物も出没する難所だ。
木々が途切れ、左側が切り立った崖になっている細い峠道に差し掛かった時、上空から鋭い鳴き声が響いた。
「風切鳥だ! 三羽!」
荷馬車の御者台に座っていた商人が悲鳴を上げた。
刃のような鋭い羽を持つ、飛行型の魔物。急降下による斬撃は、鉄の兜すら容易に引き裂く。
荷馬車の後方を歩いていたカイは、鳥の旋回と斜面を抜ける風を見比べた。風向き、羽ばたきの間隔、そして急降下の角度。三本の予測ラインが脳内に引かれる。
「右斜め上、二秒後。そのまま薙げ!」
カイのコール。
ヴェラは指示の意図を問わず、言葉が耳に届いた瞬間に右へ踏み込んだ。二秒後、寸分違わぬタイミングで急降下してきた一羽目を、下から跳ね上げるように槍で両断する。
「次、真上! 一歩下がって突け!」
カイの声に合わせてヴェラが後退し、真上から迫った二羽目の喉を正確に貫いた。
ここまでは完璧だった。カイの解析も、ヴェラの即応も、見事なまでに噛み合っている。
だが、残る最後の一羽が、大きく弧を描いて荷馬車の前方――左の崖側へと回り込み、牽き馬の目玉を狙って低空飛行で突っ込んできた。
馬がパニックを起こせば、荷馬車ごと崖下へ転落する。
カイは焦りとともに、短く叫んだ。
「左を切れ!」
カイの意図は明確だった。『左から来る魔鳥を斬って、馬車の進路を安全に確保しろ』。
ヴェラは荷馬車の左へ回り込み、槍を頭上へ引いた。鳥が崖すれすれを飛ぶ。その先の岩盤に、カイは亀裂を見つけた。
切る対象だけでなく、刃を抜く先を渡していなかった。
「止め――」
声より先に、槍が振り下ろされた。
ズガンッ!
凄まじい破壊音。ヴェラの槍は魔鳥を両断しただけでなく、魔鳥の背後にあった崖の縁の脆い岩盤ごと、深くえぐり取ってしまったのだ。
「なっ……!」
カイが驚愕に目を見開く。
岩盤が崩落し、左側の道幅がごっそりと消滅した。
足場を失った牽き馬がパニックを起こしていななき、暴れ狂う。その反動で荷馬車が大きく左へ傾き、商人が悲鳴を上げて御者台からずり落ちそうになった。
「馬が落ちる! 助けてくれ!」
ヴェラは一瞬、動きを止めた。槍を持ち直しかけ、馬と傾く荷台へ交互に目を向ける。
「馬か、荷台か!」
「くそっ!」
カイは全速力で駆け出した。
安全圏からの指示出しなどしている場合ではない。彼は自ら傾きかけた荷馬車と馬の間に飛び込み、腰から抜いたナイフを構えた。
「ヴェラ、車体を押さえろ! 俺が馬を切り離す!」
カイは暴れる馬の蹄を紙一重で躱しながら、荷馬車と馬を繋ぐ分厚い革紐にナイフを突き立て、強引に切断した。
拘束から解き放たれた馬が前方の安全な道へと駆け出していく。同時に、前への牽引力を失った荷馬車が、ずるりと崖下へ滑り始めた。
カイは荷台から落ちた車輪止めを、内側の車輪の下へ蹴り込んだ。ヴェラが車体を押さえている一瞬に、止め具が石の段差へ噛んだ。
「引き上げろ!」
カイの叫びに合わせ、ヴェラが車体の後部を掴み、持ち前の筋力で強引に道の中央へと引き戻した。
ガタン、と重い音を立てて、荷馬車が安全な位置に着地する。
「……はぁっ、はぁっ……」
カイはその場にへたり込み、大量の冷や汗を拭った。心臓が早鐘のように打っている。
ヴェラが槍を納め、カイの前に立った。
「すまない。私の斬撃が過剰だった。だが、お前は『左を切れ』と言った」
「ああ。俺が渡したのは鳥の位置だけだ。刃の先に何があるか、言わなかった」
カイは自分自身へ向けて悪態をついた。
言えば分かる、とカイは思っていた。彼女もまた、声が示す範囲は確認済みだと信じていたのだろう。二人の思い込みが、車輪一つ分の穴を見逃した。
「俺の言葉の責任だ。次は、もっと正確に情報を渡す」
「了解した」
自分の命が言葉一つで左右されるというのに、彼女は少しの怒りも見せなかった。カイはその歪さに、改めてこの関係の危うさを感じていた。
*
荷馬車の修理と馬の回収を終え、一行がセルカの街へ帰還したのは夕刻だった。
街の入り口の門をくぐったその瞬間。
カンッ、カンッ、カンッ!
定刻を知らせるための、街の鐘の音が響き渡った。
その時だ。
カイの隣を歩いていたヴェラの身体が、ほんの一瞬だけ、硬直した。
肩がわずかに上がり、歩幅が半歩縮んだ。石につまずいたのかと思うほどの、小さな乱れだった。
それは本当に、瞬きするほどの短い時間だった。次の瞬間には、彼女は何事もなかったかのように歩き続けていた。
「おい。今、お前……」
「何か言ったか?」
ヴェラが振り返る。その顔には、今の自分の身体の動きに対する自覚がまったく見られなかった。
無意識の反射。
特定の音に対する、異常なまでの条件付け。
カイは背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。彼女の身体には、まだ旧グラディア軍の「何か」が、深く、拭い去れないほどに刻み込まれている。




