第4話 灰槍
「『灰槍』か。グラディアの、猟兵……」
薄暗い坑道の中で、泥まみれの老人が呟いたその言葉は、冷たい地下の空気をさらに重くした。
滅亡した軍事国家グラディア。極端な中央集約型の軍制を敷き、穀倉地帯の強制接収から周辺国との戦争を引き起こした加害国であり、同時に魔物災害「黒潮」を最前線で食い止めていた防波堤でもある。
その軍の精鋭に、彼女は所属していたというのか。
「……ただの過去の所属だ。今はリュネール王国に登録された、一介の冒険者に過ぎない」
ヴェラは感情の起伏を一切見せず、淡々と答えた。隠すつもりもないが、ことさら誇るつもりもないといった様子だ。
「猟兵ってのは、普通の兵士と違うのか?」
カイが尋ねると、老人は咳き込みながら答えた。
「普通のグラディア兵は、決まった三つの言葉の命令にしか早く反応できねえ。だが、第三機動猟兵隊ってのは……地形が毎秒変わる最前線で戦うために、どんな短い無茶な命令でも、聞いた瞬間に身体が動くように訓練されたバケモノの集まりだって聞いたことがある」
非定型命令への即応訓練。
カイは、彼女が昨日から自分の無茶苦茶な短文コールに対し、タイムラグなしで動けていた理由をようやく理解した。彼女の身体には、他者の指示を脳での意味理解をすっ飛ばして、直接運動神経へ繋ぐための異常な回路が出来上がっているのだ。
「無駄口を叩いている時間はない。上部の岩盤は限界だ。急いで地上へ向かうぞ」
ヴェラが老人の言葉を打ち切るように言い、崩落の危険が迫る坑道からの脱出を促した。
カイが若者を肩に担ぎ、ヴェラが老人を背負って斜面を登り始めた時だった。
坑道の上部、地上へと続く広い空間から、鋭い獣の咆哮と、金属が激しくぶつかり合う音が響いてきた。
「刃脚狼の群れだ! 囲まれるな、壁際をキープしろ!」
怒鳴り声が聞こえる。見覚えのある屈強な男――熟練冒険者のダリオだ。彼が率いるパーティが、別ルートから生存者探索に入り、魔物と交戦しているらしい。
刃脚狼は、本来は山岳地帯に棲む魔獣だ。黒潮の異常な前倒しの影響で、街の地下まで逃げ込んできているのだ。
数は十数頭。ダリオたちは腕利きだが、足場が悪く薄暗い坑道内では狼たちの素早い連携に翻弄され、防戦一方になっていた。
「俺たちは動けない! お前が道を作れ!」
カイは担いでいた若者を壁際に下ろし、事前の坑道図面の記憶と、目の前の地形を瞬時に脳内で照らし合わせた。
ヴェラも老人をその隣へ下ろした。ダリオの仲間が二人をかばう位置へ入り、灯りを掲げる。カイはヴェラから六、七メートル。低く流れる土埃の上に、腰と肩の向きが見えていた。
図面にない変化を見落とすな。カイは、道の記憶と今見える石のずれを比べた。
崩れたトロッコのレール。ひび割れた岩肌。狼の足裏が滑る水溜まり。それらの情報が、カイの脳内で一本のクリアな「ライン」へと圧縮されていく。
「右壁沿い、前へ三、薙げ!」
カイの鋭いコールが坑道に響いた。
ダリオたちが「誰だ」と振り返るより早く、ヴェラの灰色の外套が風のように彼らの横をすり抜けた。
彼女はカイの指示を吟味しない。右壁沿いに最短距離で三歩踏み込み、ダリオへ飛びかかろうとしていた狼の横腹を、躊躇いなく槍で薙ぎ払った。
「なっ……!?」
ダリオが驚愕の声を上げる。
指示を聞いてから動いたのではない。指示の声と、彼女の踏み込みが完全に同時だったのだ。
「止まるな、左へ二! レールを蹴れ!」
カイは安全圏にとどまることなく、崩れやすい斜面を自ら駆け上がりながら指示を出し続けた。十五メートルを外れれば、彼女の動きを読む自分の精度が落ちる。灯りと彼女の間へ岩が入らない側を選んだ。
ヴェラが左へステップを踏み、歪んだトロッコのレールを蹴って宙へ跳ぶ。直後、彼女の足元を二頭の狼の牙が空振りした。空中に逃れたヴェラは、落下と同時に槍を突き下ろし、狼の頭蓋を貫く。
その時、群れの後方にいた一頭が、声を出している指示役――カイの存在に気づき、岩壁を蹴って襲い掛かってきた。
「危ねえ、事務屋!」
ダリオが叫ぶが、間に合わない。
カイは若者を下ろした壁際へ身を引いた。狼が踏んだのは、図面に記した排水溝の腐った蓋だった。
前脚が沈み、牙の軌道が下がる。
「前へ四、溝の奴!」
ヴェラの槍が、踏ん張りを失った狼の脇腹を貫いた。カイは木片で頬を切りながら、若者をさらに壁へ押し寄せた。
カイが物理的に道を狭め、敵のルートを限定し、ヴェラが一人の鋭利な刃としてそれを刈り取る。
ものの数十秒。
ダリオたち熟練の冒険者が手を焼いていた十数頭の刃脚狼の群れは、カイの指示とヴェラの即応によって、瞬く間に殲滅された。
血の匂いと土埃が立ち込める中、静寂が訪れる。
ダリオは剣を下ろし、信じられないものを見るような目で二人を交互に見た。
「……冗談だろ。なんだ今の連携は。お前ら、何年組んでる?」
「昨日会ったばかりだ」
カイが息を整えながら答えると、ダリオは大きく溜息をついた。
「俺はお前を、口だけの事務員だと思っていたよ。だが……あの猟兵の女をあそこまで完璧に動かせるのは、間違いなくお前の指示があったからだ。俺たちを助けてくれて、感謝する」
素直に頭を下げるダリオに、カイは少しだけ面食らった。
彼らとともに坑道を抜け、地上へと脱出すると、ギルドの前は避難民と冒険者たちでごった返していた。
カイの姿を認めたギルドの職員が、血相を変えて駆け寄ってくる。
「カイ! 無事だったか!」
「ああ、なんとかな。それより、第三倉庫の奥区画の連中は……」
「それが、全員無事だったんだよ!」
職員は興奮気味にカイの肩を叩いた。
「昨日の襲撃の少し前、第三倉庫を点検していた班長が、お前が依頼書の余白に書いていたメモを見たんだ。『水脈の浸み出しあり、三日以内に崩落の危険』って奴だ。班長が念のために作業員を避難させた直後、あの鎧角獣の振動で地下が完全に潰れた」
「……そうか」
「お前のあの細かいメモのおかげで、十人以上の命が助かったんだ。お前はただの事務員なんかじゃない、立派なギルドの目だよ!」
職員の言葉に、周囲の冒険者たちからも感嘆の声が上がる。
戦うためには書かなかったメモだった。それでも、避難に間に合った人がいた。カイは泥のついた指を開き、潰れずに残ったペンを確かめた。
カイは照れ隠しのように頭を掻き、自分の無事を確認して離れていく職員たちを見送った。
その背中を、ヴェラがじっと見つめていた。
ヴェラの視線は、彼の顔から、助かった作業員たちへ移った。
「戦う前にも使えるのだな。そのメモは」
「……なんだよ」
視線に気づいたカイが怪訝な顔を向ける。
ヴェラは一歩近づき、カイを真っ直ぐに見据えた。
「的確な指示だった。私の性能をここまで引き出した者は、旧軍にもいなかった。次も頼む、指揮官」
当然のように発せられたその呼び名に、カイの背筋に冷たいものが走った。
他人の命を預かり、自分の言葉で進路を決める者。前世で相棒を死なせた、忌まわしい立ち位置。
カイは強い嫌悪感とともに、彼女の言葉を遮った。
「やめろ。俺は指揮官じゃない」
その声は、自分でも驚くほど冷たく、険しかった。
「俺は誰も率いるつもりはない。お前の上に立つつもりもない。俺は……ただの、事務員だ」
ヴェラはカイの激しい拒絶の理由を理解できないのか、わずかに首を傾げた。しかし、その瞳には依然として、彼に対する奇妙な信頼が宿ったままだった。




