第3話 崩落坑道
鎧角獣の襲撃から一夜が明けた。
二頭もの巨獣が市街地で暴れた爪痕は深く、交易都市セルカの各所には瓦礫の山が築かれていた。ギルド物流課も例外ではなく、通常の荷運び業務は完全に停止し、職員は総出で被害状況の確認と復旧作業に追われていた。
「北区画、第三倉庫は半壊。壁面の亀裂は深さ五センチ。修繕まで使用不可、と」
薄暗い地下の物流用坑道の中、カイ・レーヴェンは手元のクリップボードに挟んだ図面にペンを走らせていた。
冷たい水滴が首筋に落ちるが、気にする余裕はない。カンテラの灯りを頼りに、岩肌のひび割れや、木製の支柱が軋む音を一つひとつ拾い上げていく。
ふと、背後から規則正しい足音が聞こえ、カイは深いため息をついた。
「なあ。専属契約は断ったはずだが」
振り返ると、そこには完全武装のヴェラ・カルドが立っていた。灰色の外套に身を包み、身の丈ほどもある槍を背負っている。昨日、二頭の鎧角獣を屠った時とまったく同じ、隙のない出で立ちだ。
「断られた事実は認識している」
ヴェラは表情一つ変えずに答えた。
「だが、この坑道の安全確認と観測員の護衛任務がギルドに張り出されていた。私はそれを受注しただけだ。対象がたまたまお前だったに過ぎない」
「たまたま、ね」
そんな偶然があるはずがない。しかし、彼女の言う通り手続き上は正当なギルドの依頼だ。事務員であるカイに、冒険者の業務を拒否する権限はない。
カイは頭を掻きむしり、再び前を向いた。
「……勝手にしろ。ただし、ここはいつ二次崩落が起きてもおかしくない。俺の記録の邪魔だけはするなよ」
「了解した。指示を待つ」
だから、その軍隊みたいな受け答えをやめろと言いたかったが、カイはぐっと飲み込んで歩き出した。
坑道は、地上での鎧角獣の踏み荒らしによる振動をまともに受けていた。カイは歩きながら、事前の坑道図面と、自分が以前に書き込んでいた余白のメモを照らし合わせる。
『第十二ポイント、東壁の岩盤に水脈由来の脆さあり。振動に注意』
カイの目は、ただの岩の壁を、情報の塊として解析していた。
「右へ一歩。左壁の亀裂が広がってる。落ちるぞ」
カイが呟くように言うと、ヴェラは音もなく右へステップを踏んだ。直後、パラパラと左の壁から小石が零れ落ちる。
「……お前の目は、石の裏まで見えるのか」
「見えない。事前にここの地質と、昨日かかった荷重を計算しているだけだ」
忘れる前に測り、図面に残す。配送路を調べる時から続けてきた癖だ。記録がなければ、今の水音も危険の証拠にはならなかった。
二人が坑道の奥へ進むと、L字に折れ曲がった角の先から、微かにくぐもった声が聞こえてきた。
「助け……誰か……」
生存者だ。
「先行する」
ヴェラが短く告げ、迷いなく角の先へと踏み込んだ。
カイもすぐに後を追おうとしたが、崩れた岩が道を塞ぎかけており、一瞬だけ足止めを食らう。
その時、カイとヴェラの距離は五メートルも離れていなかった。昨日体感した『十五メートル』の有効圏内には確実に入っている。
しかし、岩壁に阻まれてヴェラの姿が視界から消えた瞬間、カイの脳内に構築されていたクリアな『予測ライン』に、強烈なノイズが走った。
「な……っ」
足裏から伝わる振動と音で、ヴェラがどこにいるかは分かる。だが、彼女がどちらの足に体重を乗せているのか、どの筋肉を緊張させているのか、身体の傾きはどうなっているのか。姿勢が見えなくなり、同期が切れた。残ったのは、音と記憶から位置を推し量る、普段の自分の思考だけだった。
角の先から、岩が軋む不吉な音が響いた。
マズい。上部の岩盤が落ちる。
だが、ヴェラの姿勢が見えないため、彼女に前へ抜けさせるべきか、後ろへ下がらせるべきか、最適解を割り出すのにコンマ数秒の遅れが生じた。
「止まれ! 半歩下がれ!」
軋みが近い。角を曲がった時の足音は、まだ二歩。カイは岩の張り出しを思い出し、声を張った。
ガシャンッ!
ヴェラが後退した直後、彼女の鼻先スレスレを数百キロはあろうかという岩の塊がすり抜け、地面を粉砕した。もう一歩踏み込んでいれば、確実に潰されていた。
岩壁を回り込んだカイは、土埃の中で槍を構えるヴェラを見て、冷や汗を拭った。
五メートルも離れていなくても、見えなければあの速さでは読めない。カイは角を振り返り、図面へ太い印をつけた。
「生存者を確認した。指示を」
ヴェラが崩落した岩の向こう側を指差した。
そこには、太い木製の支柱と崩れた岩盤の隙間で、二人の人間が下敷きになりかけていた。一人は年老いた作業員、もう一人はまだ若い見習いの男だ。
岩盤はギリギリで木の支柱に引っかかっているが、ミシミシと嫌な音を立てており、いつ崩れ落ちてもおかしくない。
だが、ヴェラはそこから動こうとしなかった。
彼女の筋力と技術があれば、岩を支えること自体は容易なはずだ。しかし、彼女の瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。
「どうした、早く助け出さないと保たないぞ!」
「基準を示せ」
ヴェラは、感情の読めない声でカイを振り返った。
「この状況下で、同時に二人を引き抜くことは不可能だ。一人の重圧を抜けば、バランスが崩れてもう一方が潰れる確率が高い。どちらを優先する? 年齢か、生存可能年数か、それとも階級か」
カイは息を呑んだ。
彼女は、判断力がないわけではない。岩盤の崩落メカニズムを瞬時に計算し、リスクを正確に弾き出している。
欠けているのは、「教範外の事態」に直面した時の優先順位だ。軍の論理であれば、労働力として価値の高い若者を残す、あるいは生存確率の高い方を助けるといった明確なルールがあるのだろう。しかし、ただの事故現場において、誰を助けたいかという『自分の欲求』を進路にする習慣が、彼女にはすっぽりと抜け落ちていた。
「……俺は、お前の指揮官じゃない」
カイはクリップボードを放り投げ、瓦礫の山へと駆け寄った。
「両方だ。お前ならできるだろ」
「非合理的だ。最悪の場合、両方を失う」
「俺が見てやる! 右の支柱の根元、お前の槍の柄を差し込んでテコにしろ! 岩盤が浮いた瞬間に俺が引きずり出す!」
カイは、先ほど足元を確かめた僅かな隙間に身体を滑り込ませた。老人の上着を掴み、若者にも手を伸ばす。
安全圏からの指示ではない。カイ自身が、崩落の殺傷圏へと身を投じたのだ。
ヴェラは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに「右の支柱、テコだな」とだけ返し、指示通りに槍の柄を岩と支柱の間に深々と突き立てた。
「一、二の、三だ! ……三!」
カイのコールに合わせて、ヴェラが体重を乗せる。
槍の柄が軋んだ。支柱を支点に、岩盤の片側が指二本分だけ浮く。
カイは老人を両腕で引き、隙間の外へ滑らせた。足を抜いた若者が這ってくる。その腕を掴んで後ろへ倒れ込んだ。
直後、支柱がへし折れた。二人の足先をかすめて岩盤が落ち、土埃が坑道を埋めた。
「ゲホッ……はぁっ、はぁっ……」
カイは地面に倒れ込み、激しくむせた。腕は擦り剥け、泥だらけになっていた。
ヴェラは槍を回収し、静かにカイを見下ろしている。
「生存者の確保に成功した。お前の指示通りだ」
「……指示じゃねえよ、提案だ」
カイが憎まれ口を叩きながら身を起こした時だった。
泥まみれになりながらも一命を取り留めた老人が、ゴホゴホと咳き込みながらヴェラの姿を見上げた。薄暗いカンテラの灯りの中、老人の視線がヴェラの外套の隙間、その肩口に縫い付けられた黒い布地――特徴的な三本線の意匠に釘付けになった。
「その印……あんた……」
老人は恐怖と畏敬の入り混じった、震える声で呟いた。
「『灰槍』か。グラディアの、猟兵……」
その言葉を聞いた瞬間、坑道内の空気が一変した。
ヴェラは何も答えなかった。ただ、氷のように冷たく、一切の感情を排した無表情で、老人の言葉を受け止めているだけだった。
すでに滅びた軍事国家、グラディア。
その亡国の影が、冷たい地下の坑道に重くのしかかっていた。




