第2話 十五メートルの助手席
「次は?」
無表情のまま、当然の義務を求めるように発せられた女の問い。カイがそれに答えようと息を吸い込んだ瞬間、周囲の空気がビリリと震えた。
絶命した鎧角獣の背後。堅牢な石造りだったはずのギルド物流倉庫の外壁が、内側から凄まじい轟音とともに吹き飛んだのだ。
もうもうと舞い上がる粉塵を突き破り、二頭目の鎧角獣が姿を現した。
先ほどの個体よりも一回り以上大きく、ひしゃげた分厚い装甲の隙間からは異常に発達した筋肉が覗いている。仲間の血の匂いに当てられたのか、その双眸は血走って真紅に染まり、口からは粘ついた涎が滴り落ちていた。
黒潮の先触れは、決して単体では行動しない。その厄介な性質を、カイはギルドの資料で知っていた。
「左へ避けろ!」
カイは反射的に叫び、すぐさま後ろへ下がった。
彼は事務員だ。戦う力などない。先ほどの指示は、目の前で人が死ぬのを黙って見過ごせなかったが故の、一時的な介入に過ぎない。これ以上、他人の命の責任を背負うつもりはなかった。
後退し、安全なギルド本棟の扉へ向かおうとする。
だが、ヴェラから数歩遠ざかり、その距離が、大通りの荷車三台分ほどに開いた瞬間だった。
プツン、と。
カイの脳内で張り詰めていた見えない糸が切れたような感覚がした。
先ほどまで、カイの視界には路面の状況、敵の質量、そしてヴェラの筋肉の微かな収縮や重心の移動が、ひとつの明確な「予測ライン」として統合され、浮かび上がっていた。
しかし今、そのラインが完全に霧散してしまったのだ。
女の速さは変わらない。消えたのはカイの読みだった。次にどちらの足へ体重を乗せるのか、槍を返す間があるのか。さっきまで分かっていたことが、分からない。
二頭目の鎧角獣が咆哮を上げ、狂乱のステップを踏んで突進を仕掛ける。
カイには、ヴェラがその突進をどう捌くのか見えなかった。見えないということは、予測できないということだ。
このままでは、あの女は死ぬ。
全身の血が粟立った。雨のフロントガラス。ひしゃげる鉄。相棒の命を奪った、自分の声。
「……クソッ!」
カイは激しい悪態をつき、背を向けていた死線へと自ら駆け戻った。
ひび割れた石畳を蹴り、飛び交う瓦礫の雨を掻き分けて前へ出る。
二歩、三歩。距離を詰めた瞬間、再び世界がスローモーションのように解像度を上げた。
ヴェラの浅い呼吸のリズム、靴底が濡れた石畳を擦る微細な音、敵の相対速度。それらが濁流のようにカイの脳へと流れ込み、秒単位の行動ルートへと圧縮されていく。
「俺の声を使うなら、この距離だ! これ以上は離れるな!」
怒鳴り声とともに、カイ自身も崩れ落ちる壁の破片を紙一重で躱しながら走る。
安全な高台から盤面を見下ろす軍師ではない。すぐ隣で同じ死の風を感じ、同じ匂いを嗅ぎながら道を示す、助手席のナビゲーター。それが、カイの能力の絶対的な制約だった。
ヴェラはカイの指示に頷くことすらせず、巨獣の連撃を捌きながら彼の声の射程圏内を維持した。
だが、状況は悪い。
二頭目の装甲は異常なほど分厚く、ヴェラの槍による突きは表面を削るに留まっていた。彼女の動きは相変わらず軍の教範通りで正確無比だが、それゆえに単調だ。狂乱状態の獣は痛みなど気にも留めず、力任せの薙ぎ払いでヴェラの体力を削りにきている。
このままジリ貧になれば、いずれ彼女の足が止まる。
カイは走りながら周囲を見渡した。崩れた倉庫、散乱する荷車、そして、広場の端で今にも倒壊しそうに傾いている、重厚な鉄製の案内看板。
視界に、ひとつのクリアなラインが引かれた。
「前へ三、低く入れ!」
ヴェラが姿勢を沈め、巨獣の懐へ潜り込む。獣がそれを押し潰そうと前脚を振り上げた瞬間、カイは常識外れのコールを投げた。
「右二、槍を捨てろ!」
一瞬、時が止まったかのように錯覚した。
軍において、武器を捨てるという行為は絶対的な禁忌だ。ましてや、彼女が受けてきた訓練の教範に、戦闘中の武器放棄などという項目は存在しないはずだった。
だが、ヴェラの身体は「疑問」を挟む前に動いた。
彼女は右へ二歩踏み出しながら、躊躇いなく手放した槍の石突きを蹴り上げた。跳ね上がった槍は囮となり、振り下ろされる巨獣の顔面に直撃する。
痛覚ではなく、突然視界を塞がれたことによる驚愕。獣が完全に盲目となったその一瞬。
「跳べ!」
ヴェラが獣の肩を踏み台にして宙へ舞う。
目標を見失い、怒りのままに直進を続ける巨獣の先には、先ほどカイが見繕った巨大な鉄看板があった。
カイは獣の突進に合わせて看板の根元へ走り込み、足元に転がっていた太い鉄パイプを拾い上げた。そして、幾度もの衝撃ですでに限界を迎えていた看板の接合部へ向けて、渾身の力で鉄パイプを叩きつける。
硬質な破壊音が響き、ストッパーが砕け散る。
直後、ヴェラを追って突っ込んできた鎧角獣が、支柱に激突した。
獣自身の凄まじい質量と、カイが接合部を破壊したことが連動する。鉄枠に厚板を張った大きな看板が根元からへし折れ、轟音とともに巨獣の脳天へと崩れ落ちた。
大地を揺るがす地響き。濛々と立ち込める砂塵の中、獣は一度だけ痙攣し、完全に沈黙した。
*
雨が、立ち込める土埃をゆっくりと洗い流していく。
ヴェラは、完全に動かなくなった巨獣の死骸から少し離れた場所に立ち、自分の両手を見つめていた。
武器を、捨てた。
戦場で武器を手放すなど、旧グラディア軍の猟兵隊にいた頃の自分であれば絶対にあり得ない行動だった。明確な上位指揮官の命令があったとしても、数秒の葛藤は生まれたはずだ。
だが先ほど、見ず知らずの事務員が放った声に対し、自分の身体は思考の前に従った。
教え込まれた旧軍の条件反射だったから。そう理屈をつけることは簡単だ。しかし、彼女の奥底にある本能がそれを否定していた。
あの男の声が示す道は、自分が教範に従って考えるよりも速く、そして圧倒的に的確だったのだ。
まるで、自分の身体の動かし方を、自分よりも深く理解されているような感覚。
心地よいのか、不快なのかすら分からない。ヴェラはこの正体不明の引力に、強い違和感と、無視できない関心を抱いていた。
*
「はぁっ……はぁっ……」
カイは崩れた瓦礫に背を預け、荒い息を吐き出していた。
終わった。生き延びた。
倉庫の柱には、荷車を停める五メートルごとの印がある。読みが消えたのは三つ目をまたいだ時。近づくと戻った。十五メートルほど――今は、その境を覚えておく。
だが、安堵よりも先に押し寄せてきたのは、抑えようのない恐怖だった。
だらりと下げた彼の手は、小刻みに、しかし激しく震えていた。ラリーで死線を潜り抜けた時と同じ、命をすり減らした後の生理的な震え。
そして何より、自分が再び、自らの声で他人の進路を決めてしまったという事実が、カイの心を深くえぐっていた。彼女は自分の指示を疑いもしなかった。もしあの看板が倒れなければ、彼女は武器を持たないまま獣に踏み潰されていたのだ。
水たまりを踏む音が近づいてきた。
ヴェラだった。彼女は息一つ乱さず、落ちていた自分の槍を拾い上げてからカイの目の前に立った。その冷徹な瞳が、座り込むカイを見下ろす。
「私の速度に、思考が追いつく人間を初めて見た」
雨音を切り裂くような、平坦で事務的な声。
「私はお前の指示通りに動く。お前が道を示せ。専属契約を希望する」
それは提案ではなく、もはや要請だった。
カイは激しく震える両手を強く握り込み、外套の影に隠した。そして、目の前の最強の兵士を睨み返し、間髪入れずに答えた。
「断る」




