第1話 右三歩
事務机のインク瓶が跳ねた。
次の衝撃で、交易都市セルカの表通りから悲鳴が上がった。
カイ・レーヴェンは配送依頼書をつかみ、窓へ走った。雨の向こうで、荷車が横倒しになっている。荷主が逃げた直後、その車輪を黒い脚が踏み砕いた。
街の警鐘が鳴り始めた。
「北門を抜かれたのか」
物流課の事務員に、魔獣を倒す力はない。だが逃げ道なら分かる。依頼書の余白には、今朝歩いて確認した危険箇所が並んでいた。
『三番街、東側の欠け石。雨天、右輪を取られる』
カイは裏口へ向かう職員に避難路を伝え、自分は通りへ出た。
連続して打ち鳴らされる鐘の音は、魔物侵入の緊急事態を知らせるものだった。
雨樋の下へ身を寄せると、逃げる人々の肩越しに大通りが見えた。
雨に煙る大通りの向こうから、巨大な影が迫ってくる。
四本足。体高はゆうに三メートルを超え、全身が黒鈍色の装甲に覆われている。頭部には太く短い角が突き出し、路面の石畳を砕きながら突進してくる。
「鎧角獣……なんであんなものが、こんな街中に」
黒潮の発生源である断層地帯の奥深くにしか生息していないはずの魔獣だ。
ギルドから数人の冒険者が飛び出し、武器を構えて立ち塞がった。しかし、鎧角獣の圧倒的な質量と突進力の前には無力だった。盾は紙切れのように弾き飛ばされ、前衛が建物の壁に叩きつけられる。
避難する親子を路地へ押し込んだカイは、大通りに残る影を見た。
灰色の外套を羽織った小柄な女だった。身の丈ほどもある槍を構え、単身で鎧角獣の正面に立っている。
雨樋の下から女までは、荷車二台ぶんほど。逃げる人影が路地へ消えると、肩の向きも石畳を踏む靴も見えた。
獣が咆哮を上げ、巨体を揺らして女へ突っ込む。
凄まじい踏み込み。だが、女は動じない。激突の直前、彼女は最小限の動きで左へ半歩身体をずらした。獣の巨体が風を巻き起こして通過する瞬間、彼女の槍が装甲の薄い関節部を正確に抉った。
血飛沫が舞う。獣が苦痛の声を上げ、体勢を崩した。
速い。そして恐ろしく正確だ。
だが、カイの目には違和感が映った。女の動きは完璧すぎた。無駄がなく、隙がない。まるで分厚い教範に書かれた「正しい手順」を、一語一句違えずに再生しているかのようだった。
対人戦ならばそれで勝てるかもしれない。しかし、相手は理外の生命力と野生の勘を持つ魔獣だ。
カイの脳裏に、女の動きと獣の挙動が、明確な一本の「ライン」として浮かび上がった。
単調な最適解は、いずれ予測される。
獣の筋肉が収縮し、前脚が深く沈み込んだ。ただの突進ではない。一度フェイントを入れてから、首を振って角で薙ぎ払う気だ。
もし女が、今まで通り教範通りの回避――左へのステップを選択すれば。
数秒後、女の胴体は太い角によって両断される。
致命的なクラッシュの光景が、カイの頭の中で完全に組み上がった。
指示など出したくない。他人の命に責任など持ちたくない。
雨を切るワイパー。握り潰しかけたペースノート。
『右5。全開。――行け』
前世、ラリーの助手席で相棒に告げた最後のコールだった。その直後に衝撃が来た。真壁航平という自分の名前も、次のコーナーも、そこで途切れた。
今度こそ声を出さずに生きる。そのために、事務の仕事を選んだのに。
だが、目の前で人が死ぬ。自分の声一つで、それを避けられるなら。
獣が地を蹴った。女が、カイの予測通りに左へ体重を乗せようとする。
カイは握りしめていた依頼書の束を強く握り込み、肺の空気をすべて絞り出して叫んだ。
「右三歩!」
それは、ただの事務員が上げるにはあまりに鋭く、通る声だった。
直後、カイは自分の目を疑った。
女は、声の主を探すことも、指示の意図を考えることもなかった。カイの言葉が耳に届いたその瞬間、彼女の身体はすでに右へ向かって強烈に弾き出されていた。
一歩、二歩、三歩。
ドンッ、という重い音とともに、女が元いた空間を、鎧角獣の凶悪な角が薙ぎ払った。風圧で雨粒が吹き飛ぶ。だが、そこに女の姿はすでになく、角は虚しく空を切った。
あとコンマ数秒でも反応が遅れていれば即死だった。
聞いてから考える間が、見えなかった。しかも声を出した瞬間、彼女の踏み込みが自分の足のように読めた。
驚愕に思考が止まりかけるが、目前の状況がそれを許さない。獣の体勢が崩れている。
カイの脳内で、先ほどまで書いていた余白のメモが鮮明にフラッシュした。
「前へ五、左の欠け石へ誘導しろ!」
カイの連続したコールに、女の身体が再び即応した。
彼女はためらいなく前へ五歩踏み込み、獣の注意を引いてから左へ身を躱す。怒り狂った獣が、その軌道を追って全体重を乗せた踏み込みを見せた。
ガキンッ、と嫌な音が鳴った。
獣の右前脚が、カイがメモに記していた「三番街の交差点、東側の石畳の欠け」に見事にはまり込んだ。雨天で滑りやすくなった窪みに足を取られ、巨獣の体勢が大きく前のめりに崩れる。
女はその一瞬の硬直を見逃さなかった。
地を蹴り、獣の懐へ深く潜り込む。下から上へ、灰色の槍が閃刃のごとく跳ね上がった。装甲の継ぎ目、もっとも柔らかい喉元の肉を、槍の切先が深々と貫通する。
ごぼり、と大量の血が溢れ出し、鎧角獣は断末魔の咆哮を上げる間もなく、その巨体を石畳に沈めた。地響きとともに、周囲に泥水が跳ねる。
雨音だけが、再び街を包み込んだ。
女は獣の絶命を確認すると、静かに槍を引き抜き、手首を返して血振るいをした。
カイは荒い息を吐きながら、手元のくしゃくしゃになった書類を見下ろした。
助かった。そして、助けてしまった。自分の声で、他人の命の進路を決めてしまったのだ。手が小刻みに震えている。
女が踵を返し、カイの方へ向かって歩いてきた。
濡れた灰色の髪の隙間から、冷たいほどに鋭い瞳がカイを射抜いている。西部国境から来たという噂の、ギルドに登録したばかりの冒険者。
彼女はカイの数歩手前で立ち止まると、一切の感情を交えない、事務的な声で言った。
「次は?」
「……え?」
「次の指示はなんだ、指揮官。私はどう動く」
「待て。名前も知らないんだぞ」
「ヴェラ・カルド。次は?」
命令されるのが当然であり、それ以外の進路を知らないかのような問い。
カイは立ち尽くした。雨はまだ、降り止まない。




