第10話 考えるな、三秒だけ
遺跡の外の岩陰で、カイは自身の血でわずかに汚れた手帳のページを何度もめくっていた。
書き込んだ地形情報、結晶の配置、そして先ほどの戦闘におけるヴェラの動きと鏡鬼の反応。落ちた石板は、跳ね返らなかった。カイはその一点に印をつけた。
「……分かったかもしれない」
カイは顔を上げ、痛む右肩を押さえているヴェラを見た。
「反転したのは、鏡面に映った槍が奴へ届く直前だ。追う時の移動も、落ちた石板も戻されていない。映った攻撃を一つずつ捉える――そう仮定すれば、試せる」
「ならば、どうする。私の攻撃はすべて通じないということになるが」
「槍を返させる。その直後に、別のものを落とす。鏡面が光ってから元に戻るまで、一拍あった」
カイは手帳の新しいページに、広間の簡略図を素早く書き込んだ。
「いいか。今から俺が引くラインの通りに動け。最初はただ広間を走り、奴の視界と意識をかき回す。そして……」
カイはペンの先で、図面の中央を強く叩いた。
「最後の三秒間。俺のコールに完全即応しろ。お前の判断は一切挟むな。俺が罠に突っ込めと言えば突っ込め」
それは、先ほど彼女を殺しかけたのと同じ、完全な服従の要求だった。
だが、ヴェラは躊躇しなかった。彼女の灰色の瞳は、ただ最短の勝利という目的だけを見据えている。
「三秒で決まるのだな。了解した」
二人は再び、黒い結晶に覆われた広間へと踏み込んだ。
石板で塞がれた道を避け、下見した三叉路の左から回り込んだ。カイは入口から小石を投げた。鏡面が明滅し、石が跳ね戻る。その間に転がした二つ目は、足元まで届いた。
ヴェラが小さく頷く。カイは、傷めた肩を振り上げない経路に線を引き直した。
侵入者を感知し、鏡鬼が滑るように接近してくる。その顔のない頭部が、ヴェラの姿を精確に捉えていた。
「左三、柱の裏へ回れ!」
カイのコールが響く。
ヴェラは槍を下げたまま、ただの移動として左へ駆け出した。鏡鬼が追従するが、鏡面には明滅が起きない。
「右へ抜けろ! 次は前五、止まらずに左斜め後ろへステップ!」
カイはここまでに確かめた地形情報をフルに使い、ヴェラを極限の速度で広間の中へ走らせた。
右へ、左へ。鏡鬼の視界を揺さぶり、その意識をヴェラの『移動の軌道』へと釘付けにする。
カイの目には、鏡鬼の重心がほんのわずかに前のめりになるのが見えた。奴の観測のピントが、最も鋭く絞られた瞬間。
「今だ! 三秒!」
カイは肺の空気を絞り出し、わざと、大ぶりで不完全な攻撃ラインをコールした。
「右二、柱の段! 左手で突き!」
ヴェラは右肩をかばった低い構えのまま、カイの声に踏み込んだ。
右へ二歩。結晶柱の低い張り出しに片足をかけ、左手を軸に槍を押し出す。傷めた右肩は振らず、穂先だけを鏡面へ向けた。
鏡鬼の黒い装甲の表面が、波打つように歪んだ。
ヴェラの攻撃ベクトルを観測し、反転能力を起動したのだ。そのままいけば、ヴェラは自身の最大火力の刺突をその身に受け、今度こそ絶命する。
だが、カイの思考は鏡鬼の反応すらも予測に組み込んでいた。
「離せ! 右へ降りろ!」
カイはヴェラの攻撃が命中する直前、指示を完全に上書きした。
そして同時に、カイ自身が広間の殺傷圏へと全速力で駆け込んだ。
彼の手には、入り口で拾い上げていた重い鉄製のカンテラが握られている。カイはそれを、事前の下見で目星をつけていた、天井から真下に伸びる巨大な結晶柱の『脆い基部』へ向けて、全力で投げつけた。
ガキンッ!
硬質な音とともに基部が砕ける。
その直下で、ヴェラの指が槍から開いた。
雨の街で一度やった動きだ。槍を手放し、段を蹴って右へ降りる。
明滅した鏡面が、槍だけを弾き返した。反転は失敗していない。だが次の一拍、鏡面から光が消えた。
そこに、天井から数百キロの巨大な結晶柱が落下してくる。
メキィッ、という凄まじい破壊音。
硬直していた鏡鬼の身体は、落下してきた結晶の質量に耐えきれず、装甲ごと粉砕されて床に縫い留められた。
「トドメだ!」
床に転がっていたヴェラは、落ちてきた槍を流れるような動作で拾い上げ、身動きが取れなくなった鏡鬼の胸部――結晶の奥で明滅する核を、容赦なく貫き通した。
パリン、とガラスが砕けるような音を立て、鏡鬼の身体が細かい黒い砂となって崩れ落ちていく。
「……終わっ、た……」
カイが安堵の息を吐こうとした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
「がっ……、ぁ……!」
強烈な吐き気が胃袋を蹴り上げ、カイはその場に膝をついてえずいた。
視界の端から急速に黒い染みが広がり、真ん中のわずかな部分しか見えなくなる。視野狭窄。頭の中で鳴り響く耳鳴りが思考を分断し、自分が今どこで何をしているのかすら、数秒遅れでしか認識できなくなる判断遅延。
これが、極限の速度で事象を解析し、他者の運動と同期し続けたことによる、脳への過負荷。
ぽた、と。
カイの鼻から、どろりとした血が床の石畳に落ちた。
「指揮官!」
ヴェラが駆け寄り、崩れ落ちそうになるカイの身体を支えた。
「無理をするな。だが……完璧な三秒だった」
彼女の灰色の瞳には、先ほどの敗北の恐怖など微塵もなく、ただカイに対する絶対的な信頼だけが宿っていた。
「お前が引いた道がなければ、私は死んでいた。私の命は、お前の声と共にある」
その言葉を聞いた瞬間、カイの背筋にゾクッとするような電流が走った。
苦痛に塗れた脳髄の奥底で、恐ろしいほどの『快感』が芽生えかけていたのだ。
自分の声一つで、この世界で最強クラスの兵士の生死を完全にコントロールした。彼女は自分の指示を疑わず、すべてを委ねた。
前世で相棒を死なせた責任の恐怖。それを恐れていたはずなのに、今、カイは「自分に命を預け切る存在」を操作する万能感に酔いかけている。
自分は、なんて歪で恐ろしい力を使っているのか。
カイは己の内に芽生えたその暗い感情に戦慄し、震える手でヴェラの腕を振り払おうとしたが、力が入らなかった。
やがて、過負荷のピークが過ぎ、視界がわずかに開いてきた頃。
カイはヴェラに肩を貸してもらいながら、遺跡の入り口へと足を引きずっていた。
外の荒野には、いつの間にか一人の男が立っていた。
王国防衛隊の装備ではない。黒い軍服を思わせる、仕立ての良い分厚い外套。
男は、遺跡から出てきた二人を見ると、ゆっくりと、しかし完璧な所作で右腕を胸に当てる敬礼を行った。
それは、旧グラディア統制国の軍隊式敬礼。
「お見事でした」
男は微笑を浮かべ、ヴェラへ向かって静かに言った。
「まさか、あの鏡鬼をたった二名で、しかも生還して討伐するとは。さすがは第三機動猟兵隊の最高傑作、『灰槍』だ」
ヴェラの身体が、微かに強張るのをカイは感じた。
「お前は、誰だ」
ヴェラが低い声で問うと、男は恭しく頭を下げた。
「私はただの使者です。あなたを探すよう、命を受けておりました」
男の言葉は、荒野を吹き抜ける風よりも冷たく、重かった。
「アルディス参謀総長が、あなたを探しておられます」
亡国の影が、もはや隠しようのない形となって、二人の前に立ち塞がっていた。
【第1部 完】




