第11話 通信兵と残兵
赤茶けた荒野を吹き抜ける風が、黒い砂を巻き上げる。
遺跡の入り口で、カイは過負荷による激しい頭痛と吐き気を堪えながら、目の前の男を睨みつけた。
旧グラディア軍の意匠が残る外套。そして、男の口から出た『アルディス参謀総長』という名。亡国の影が、カイとヴェラの前に明確な姿を持って現れたのだ。
「警戒しないでいただきたい。私はリオ・ヘス。旧軍では通信兵をしていました。本日は戦闘ではなく、お願いがあって参ったのです」
リオと名乗った男は、両手を上げて敵意がないことを示した。その所作は洗練されており、狂信的な残党兵といった雰囲気はない。
「お願いだと?」
カイが片手でヴェラを制しつつ問うと、リオは表情を引き締めた。
「ここから西の谷間に、グラディアの難民と旧兵が寄り集まった村があります。大黒潮の前倒しの影響でしょう、ここ数日、かつてない規模の魔物の群れが村を襲撃し続けています。我々だけでは、もう手が足りない。どうか、防衛に手を貸していただけないでしょうか」
「ギルドを通せ。冒険者に直接依頼を持ち込むのは規約違反だぞ」
「それはできません。あの村の旧兵たちは、リュネール王国の武装解除協定に違反し、武器を手放していない不法滞在者です。表沙汰になれば、難民ごと王国軍に討伐されてしまう」
リオの言葉に、カイは奥歯を噛み締めた。
自業自得だと言うのは簡単だ。だが、魔物に女子供が食われるのを放置する理由にはならない。
カイはヴェラを見上げた。彼女の右肩の傷は痛むはずだが、その灰色の瞳は静かにリオを見据えている。
「お前の肩も、俺の頭も万全じゃない。今できるのは避難の手伝いだ。それでも行くか」
「行く」
迷いのない一言。カイは小さくため息をつき、「案内しろ」とリオに顎をしゃくった。
出発前、カイは遺跡の外で待つ王国の調査員に、行き先と難民の人数を伝えた。兵の身分まで隠す約束はできない、とリオにも告げた。
リオの案内で辿り着いた谷間の村は、凄惨な状況だった。
粗末な木組みの家屋の周りに急造の防衛陣地が築かれており、数十人規模の男たちが血に汚れながら槍や剣を構えている。統一された軍服ではないが、その身のこなしは明らかに訓練された兵士のものだ。
カイたちが到着したのとほぼ同時、警告の鐘が乱打された。
「来ます! 北の斜面から、土蜘蛛の群れだ!」
見張りの悲鳴。崖の上から、巨大な蜘蛛の魔獣が数十、百近い数で濁流のように押し寄せてくる。個々の戦闘力は低いが、数で押し潰すタイプの厄介な群れだ。
「ヴェラ、無理はするなよ。俺がラインを引く」
カイは素早く手帳を開き、地形の起伏と魔獣の進行速度から、最適解を割り出そうとした。
だが、カイが最初のコールを発するより早く、村の防衛ラインに立つ旧兵たちが動いた。
『前列・今・盾!』
陣地の中央に立つ指揮官の怒声が響く。
ズガンッ!
数十人の兵士が、まるで一つの生き物のように寸分違わぬタイミングで大盾を地面に突き立てた。蜘蛛の群れの先陣が盾に激突し、凄まじい衝撃音が谷間に響くが、防衛線は一歩も退かない。
『後列・二拍・突け!』
次の怒声。一、二。完璧な秒数管理の直後、後列にいた兵士たちが一斉に長槍を突き出した。大盾の隙間を縫うように放たれた刺突が、土蜘蛛たちの急所を正確に貫く。
『後列・今・前進!』
盾を持った前列が左右に開き、後列の兵士たちが一気に前へ出て魔獣の死骸を踏み越え、第二波をすり潰していく。
「なんだ、あれは……」
カイは呆然と手帳を下ろした。
個々の兵士の動きは、ダリオのような熟練の冒険者と比べれば遥かに遅い。しかし、集団としての隊形変換と攻撃の処理速度が、異常なまでに速いのだ。
「これがグラディア軍です、カイ殿」
隣に立つリオが、自嘲するような、しかしどこか誇らしげな声で言った。
「グラディアは小国でした。黒潮の圧倒的な数に対し、個人の兵士が状況を見て、考えてから動いていては、その数秒の遅れで戦線が崩壊してしまう。だから軍部は、兵士から『考える時間』を奪うことにしたのです」
「……極限まで切り詰められた、定型命令か」
「その通りです。一般の旧兵は、あなたが灰槍殿に出すような複雑な指示には反応できません。しかし、事前に叩き込まれた対象・時機・動作という『三語』の組み合わせにだけは、意味の理解を省略して即応できる。恐怖も、迷いも、個人の意志も挟まずに」
カイは手帳を握った。だが、盾の後ろでは子供が母親の脚から顔を出していた。蜘蛛は一匹も、そこへ届いていない。
やがて魔物の群れが後退し、谷間に血の匂いと静寂が戻った。
防衛陣地の中央で指揮を執っていた大柄な男が、血濡れた剣を鞘に納め、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
リオが一歩下がり、道を譲る。
歴戦を物語る無数の傷が刻まれた顔。岩のように分厚い胸板。その男の姿を見た瞬間、カイの隣に立つヴェラの呼吸がわずかに乱れた。
「隊長……」
ヴェラがぽつりとこぼしたその単語で、カイは男の正体を察した。
「ラゲル・オルン隊長です。灰槍殿の、かつての直属上官に当たります」
リオがカイにそう説明した。
ラゲルはヴェラの前で立ち止まると、その厳しい顔に柔らかい笑みを浮かべた。
「よく生きていたな、灰槍。お前がリュネール王国で冒険者をしていると聞いた時は、耳を疑ったぞ」
その声には、逃亡兵を断罪するような響きは微塵もない。 ラゲルは腫れた肩を見て、背後の兵に薬箱を持ってくるよう言った。
「私は……」
ヴェラが珍しく言葉に詰まる。カイに向ける時とは違い、返答の前に一度、唇を噛んだ。
ラゲルはヴェラの右肩の傷を一瞥すると、安心したように頷いた。
「まあいい。今は傷を癒せ。お前には、戻るべき部隊があるのだからな」
そして彼は、周囲に立つ残兵たちへ向けて、何気ない口調で言い放った。
「整列」
それは、陣形を再編するための旧式の定型命令。
ザッ!
旧兵たちが一糸乱れぬ動きで踵を合わせ、直立不動の姿勢を取る。
その言葉が響いた瞬間。
ビクッ、と。
カイが何のコールも発していないにもかかわらず、ヴェラの身体が反射的に半歩前へ出て、兵士たちと同じ姿勢を取ろうとしてしまった。
「……っ!」
ヴェラは間一髪で自分の右足を床に縫い付け、強引にその動きを止めた。
だが、動いてしまったという事実は消えない。
ヴェラは自分の足を見下ろし、信じられないものを見るように目を見開いた。彼女の灰色の瞳に、激しい動揺が渦巻いている。
彼女の身体の奥底には、まだ旧軍の命令権が強固に根を張っているのだ。
カイは、恐怖に似た感情で自らの身体を縛り付けようとしている相棒の姿を、ただ無言で見つめることしかできなかった。




