第46話 国のない二人
セルカの冒険者ギルド、最上階の特別応接室。
大黒潮が退いて二週間後。街が復興の熱気と安堵に包まれる中、カイとヴェラは、上座に座るリュネール王国軍の使者と対峙していた。
「……破格の待遇だな」
寝台脇で受け取った二通の書状を、カイは卓上へ並べた。折り目の脇には、この一週間で書き込んだ確認事項が残っている。
ヴェラには、王国軍の正式な士官としての身分と、今回の戦いで生き残った旧グラディア兵たちを束ねる『再編部隊の指揮官』の座が用意されていた。亡国の残党から一転、大国の正規軍の将校としての輝かしい栄達。
そしてカイには、王都の作戦本部直属となる『特別戦術官』の任。彼の能力と情報の価値を最大限に評価した、国の中枢への招待だった。
「赴任は王都。現場へ出る時も、本部の許可が要る。そこは変わらないんですね」
カイの最後の確認に、使者は頷いた。
ヴェラも自分の書状を伏せた。互いに顔を見合わせ、先に口を開いたのは彼女だった。
「光栄な申し出だが、お断りする」
ヴェラは書状を静かにテーブルへ押し戻し、使者を真っ直ぐに見据えた。
「なぜです。あなたはかつて、旧グラディア軍の猟兵だったはず。正規軍の規律の中でこそ、あなたの力は最も活きるのではないですか」
使者の問いに、ヴェラは微かに首を振った。
「軍の教範と命令は、確かに合理的だ。私はそれに命を救われてきた。……だが、私はもう、誰かの用意した進路や最適解を、自分の意思を持たずに盲信することはできない。私は冒険者として、必要な時に、私自身で依頼を選ぶ」
もはや彼女の目に、指示を待つ者の強張りはない。
彼女は断った書状を丸めず、端を揃えて返した。
使者は驚きに目を瞬かせ、やがて諦めたように息を吐き、カイへと視線を移した。
「……あなたはどうですか、カイ・レーヴェン殿。王都の戦術官となれば、全軍の動きを安全な場所からデザインすることができます」
「申し訳ないが、俺も辞退させてもらう」
カイの返答もまた、明確だった。
「俺は、中央から全軍に命令を下すような柄じゃない。大黒潮の戦いで分かったんだ。俺のやり方は、現場の人間と直接情報をやり取りして、互いに顔が見える範囲で泥臭く修正を繰り返してこそ、初めて活きるものだってな」
カイは辞退の理由を書き添え、自分の名を記した。次に出す書類は、もう決めていた。
応接室を出たカイは、その足で一階の物流課のフロアへと向かった。
書類の山と格闘していた課長のミナが、カイの顔を見てペンを止める。
「王都からの誘いは、断ってきたのかい」
「ええ。俺にはこっちの、埃臭い机の匂いの方が合ってますから」
カイが笑うと、ミナはやれやれと肩をすくめた。
「それで? 王都の戦術官を蹴ってまで、うちのギルドで何をやるつもりだい。また元通り、ただの荷車のルート手配か?」
「いや、少し部署を広げてもらいたいんです」
カイは、大黒潮の防衛戦で使用し、ダリオたち現場の兵士が泥だらけの手で情報を書き足した『共通ノート』をミナの机に置いた。
「物流課を母体に、『路線・危険情報室』を作ります」
「危険情報室?」
「俺が事前のレッキ(下見)で危険地点の情報を発信し、ギルドの冒険者たちがそれを実戦で使う。現場で状況が変わっていたら、彼らがそれをノートに書き込んでギルドへ持ち帰り、俺が情報を更新していく。それを誰もが閲覧できるようにするんです」
ミナはノートの『雨後未再測』を指で叩いた。
「古いものは、古いと見えるままにするんだね」
「ええ。誰がいつ見たかも、消さずに残します」
カイの提案に、ミナの目がわずかに見開かれた。
ミナは白地図の束と、ノートの書き込みを見比べた。
「訂正を受ける窓口も要る。戻った冒険者が、あんたの帰りを待たなくて済むように」
「お願いします。まず、その欄から作ります」
「……馬鹿げた労力だが、今のあんたならやれるだろうね」
ミナはノートを手に取り、嬉しそうに笑った。
「隠れていたつもりの事務屋が、ずいぶんと大層な責任を背負い込むようになったじゃないか。いいよ、特設の机を用意してやる」
数日後。
物流課の奥に新設された『路線・危険情報室』の狭いオフィスで、カイは一人、山積みの白地図と格闘していた。
窓からの日差しが、真新しい机を照らしている。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
振り返ると、灰色の外套を着たヴェラが立っていた。彼女はギルドのロビーから、わざわざ自分の分の木の椅子を片手に提げてやってきた。
「よお。冒険者の仕事はどうした」
「今日は休みだ」
ヴェラは短く答えると、迷うことなく部屋の隅へ歩み寄り、カイの机のすぐ隣――彼が地図を広げているすぐ手の届く位置に、ガタンと無造作に木の椅子を置いた。
「……おい、そこは俺が資料を積む場所だぞ」
カイが苦笑いしながら文句を言うと、ヴェラはその木の椅子にどっかりと腰を下ろし、真っ直ぐにカイの目を見た。
「任務でなくても、ここは空けておけ」
カイは資料を脇へ寄せた。ヴェラは机に袋を置く。蜂蜜の匂いがした。
「二つ買ってきた。今度は、冷める前に食べる」
「命令か?」
「誘いだ」
彼女はパンを一つ取り出し、カイへ渡した。
「任務でなくても、お前といたい。それでは理由にならないか」
カイは袋を受け取る手を止めた。
「なる。……俺もだ」
ヴェラが椅子を引く。二つの脚が触れ、互いに少しだけ寄せ直した。
「……わかったよ。お前の席だ」
カイは短く答え、ペンを置いて笑った。
窓の外で、時刻を知らせる鐘が鳴った。ヴェラの指が一瞬だけ止まる。
カイは何も言わずに待った。彼女は息を吐き、パンをもう一口齧った。
「で、ただ座りに来たわけじゃないんだろ」
カイが地図を片付けながら尋ねると、ヴェラは自らの手帳に挟んでいた一枚の紙を、カイの机の上に叩きつけるようにして置いた。
それは、ギルドの掲示板から剥がしてきたばかりの、羊皮紙の依頼票だった。
『西方山岳地帯奥地・未踏ダンジョンの地形調査及び下見』。
「セルカのさらに西だ。黒潮の残党が巣食っている可能性があるらしい。……面白そうだから、私が選んできた」
ヴェラの瞳が、かつてないほどの強い光と好奇心に満ちていた。
依頼票の余白には、治療院へ確認してから出発、と彼女の字で書いてあった。
「未踏ダンジョンのレッキか。面白そうじゃねえか」
カイは立ち上がり、椅子に掛けていた自分の上着を手に取った。
「出発は?」
「十日後。治癒士が二人とも走っていいと言ったら」
今日はまず、療養後の下見に使える近場の道を相談しに行く。ヴェラが立ち上がり、二人は並んで狭いオフィスの扉を開けた。
「行くぞ、相棒」
「ああ」
手帳を開くと、血の染みは残っていた。カイはその頁を破らず、新しい白紙を足した。
新しい地図を描くために、二人は肩を並べ、ギルドの喧騒の中へと歩み出していった。




