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戦えない転生者ですが、亡国の女兵士の専属ナビになりました~元ラリーの助手席担当、十五メートルの戦場を読む~  作者: 他力本願寺


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第47話 右三、行こう

十日後、治癒士の許可をもらい、二人は出発した。セルカから西へ馬で丸一日。国境へ続く街道を手前で外れ、近郊の岩山へ入る。大黒潮から逸れた魔獣の爪痕が残る谷に、その場所はあった。


 急峻な崖の裂け目にぽっかりと口を開けた、古い地下遺跡の入り口。昼間でも太陽の光を拒絶するような深い闇が、苔生した石畳の階段の奥へと続いている。


 カイとヴェラは、遺跡の中へすぐには足を踏み入れず、入り口周辺の地形と痕跡を入念に調べていた。


「入り口のアーチはかなり風化が進んでるな。少しの衝撃で天井が崩れる可能性がある。……足元はどうだ、ヴェラ」


 カイが手帳に図面を書き込みながら尋ねると、地面に屈み込んで石畳を調べていたヴェラが顔を上げた。


「石畳の表面に、新しい酸の腐食痕がある。大黒潮の波から逸れて逃げ込んだ、変異種の群れが巣食っている可能性が高い。それと、この苔だが」


 ヴェラはブーツの底で、緑色の分厚い苔を強く擦った。


「見た目ほど滑らない。靴底の端を岩の目地に引っ掛けるように踏み込めば、十分な摩擦が得られる。減速(ブレーキ)は一割でいい」


「お前なら通れる。俺は同じ踏み方じゃ滑るな。最初は歩いて確かめよう」


 カイは素直に頷き、ノートの記載を修正した。


 二人の間で行われているのは、本格的な探索に入る前の『レッキ(下見)』だった。


 カイが空間の広さや崩落の危険箇所を客観的な数値で測り、ヴェラが魔獣の痕跡や足場の硬さといった、彼女自身の身体感覚に基づく物理的な情報を足していく。


 カイが一方的に地図を作り、ヴェラがそれに従うのではない。互いの情報をすり合わせ、二人で一つの『新しいノート』を作り上げているのだ。


 やがて、入り口付近の初期レッキが完了した。


 冷たい風が、地下の奥底から吹き抜けてくる。血とカビ、そして未知の危険が混ざり合った匂い。


 カイはペンを止め、手帳をパタンと閉じた。


 彼はランタンを手に取り、あえて足を止めて、隣に立つヴェラへ真っ直ぐな視線を向けた。


「……行くか?」


 それは、準備の完了を告げるだけの言葉ではない。危険な死線へ共に足を踏み入れることへの、明確な意思確認。


 かつてのヴェラであれば、「ギルドから受注した任務だからだ」と、与えられた目的に責任を転嫁して即答していただろう。だが、今の彼女は違った。


 ヴェラは真っ暗な遺跡の奥を見据え、その灰色の瞳に、純粋な好奇心と闘志の炎を揺らめかせた。


「ああ。……行きたい」


 誰の命令でもなく、義務でもない。自らの欲求で、相棒と共に未知を切り開きたいという明確な意思表示。


「よし。俺の背中と死角は頼むぞ」


「任せろ。お前も、私の目になれ」


 二人は短く頷き合い、同時に遺跡の暗闇の中へと足を踏み入れた。


 戦闘は、地下通路へ降りて数分も経たないうちに唐突に始まった。


 天井の岩壁に完全に擬態していた、酸を吐く大蜘蛛の変異種が、三頭同時に二人の頭上へ落下してきたのだ。


「上から来る! 左壁沿いに二歩!」


 カイがランタンを掲げながら、瞬時に地形と退路の情報をコールする。


 ヴェラは灯りに浮いた目地を踏み、左へ抜けた。頭上から降り注ぐ酸が、そのすぐ右へ散る。そのまま壁を蹴り、反転して一頭目の胴体を長槍で串刺しにした。


 だが、大蜘蛛は三頭だけではなかった。


 カイがランタンの光を向けていない背後の暗闇から、さらに二頭の変異種が、音もなくカイの背中へと迫っていた。灯りと反対側は、カイには見えなかった。療養で視野は戻っても、背後まで見えるようにはならない。


「カイ、後ろの柱が倒れる! 右前、二歩先は空いてる!」


 ヴェラが槍を引き抜きながら、背後のカイへ向けて鋭い逆コールを飛ばす。


「了解!」


 カイは振り返ることなく、ヴェラの『目』が捉えた事実を完全に信じて右前方へと跳躍した。


 直後、酸で溶かされた巨大な石柱が、カイが立っていた場所へと轟音を立てて倒れ込み、カイの背後から迫っていた二頭の大蜘蛛をそのまま下敷きにして圧殺した。


 カイは膝をついて着地した。ヴェラのようには跳べない。


「二歩でよかった。三歩なら転んでた」


「次は短くする」


 ヴェラはまだ正面の二頭から目を離さない。カイも顔を上げ、彼女の見えない天井へ灯りを戻した。


「……ふぅ。入り口から熱烈な歓迎だな」


 残る大蜘蛛をすべて屠り終え、カイはランタンを高く掲げた。


 倒れた石柱の向こう側。そこには、さらに深い闇へと続く、広大な大通路がぽっかりと口を開けていた。


 ランタンの光が届かない、完全な未知の領域。


 その光景を見た瞬間、カイの脳裏に、前世の最後の記憶が鮮明にフラッシュバックした。


 大雨の峠道。視界は最悪で、ヘッドライトの光だけが頼りだった。自分がペースノートから目を上げ、「行け」と読み上げた直後。ステアリングを切っても曲がらず、ヘッドライトの先へ木々が迫った。あの絶望の瞬間。


 手帳を持つ指が冷たくなった。事故の記憶は、なくなっていない。あのコールの後に何が壊れたのか、確かめる術もない。


 ただ、最後の一声だけで、相棒と走った時間のすべてを決めてしまいたくはなかった。


 助手席から渡したものを、彼も自分で確かめ、走っていた。信じてくれたことを、命を奪った証拠にしかできないままでは、あの人に失礼だ。


「止まるか?」


 ヴェラが聞いた。カイは一度だけ頷き、水を飲んだ。


「少し待ってくれ」


 彼女は待った。続きを急かす声はない。


 呼吸が戻ってから、カイは自分で手帳を開いた。


「カイ。風の流れが変わった。この先は広いぞ」


 ヴェラが静かに告げる。


「ああ。まず見える所までだ。右の三歩なら、石が動かない」


 カイは新しい白紙のページを繰り、ペンを添えた。


 ヴェラは最初の石へ靴先を当て、その隣も槍の石突きで確かめた。


「お前は、こっちを踏める」


 カイも足元を見た。石は浮いていない。手帳へ二人ぶんの線を書き、顔を上げる。


 灰色の瞳と目が合った。ヴェラが小さく頷き、カイも頷いた。


 同じ方へ身体を向けると、自然に口元が緩んだ。


「右三。――行こう」


「ああ!」


 ヴェラが最初の石を踏み、カイがその隣へ続いた。


 ランタンの光が、一歩ぶん先を照らした。

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