第44話 コール
カイは保守柱へ手をかけた。
下まで、足掛けが四つ。最後の先だけ、傾いた床板に隠れて見えない。
「右足の下、もう一段ある」
ヴェラが言った。
カイは靴底を滑らせ、鉄の突起を探した。乗れた。手を一つ下へ移す。
下の彼女は巨獣の胸を見上げている。肩越しに、中枢の赤い光が明滅した。
『やめろ。まだ、私の拍が要る』
アルディスの声がした。
『外の兵が迷えば、次は誰が支える』
カイは下りる手を止めなかった。
「リオが知らせてる。各隊に、止めると伝えた」
『伝えた、それだけで何が変わる』
「次に何がなくなるか、知らずに失うよりは動ける」
カイは足場へ下りた。戦闘床より二メートルほど高い、点検用の狭い張り出しだ。遮断桿の取手は、その先にある。
桿の先の線が、アルディスの座席へ続いている。この直結を外せば、部屋に残る拍も消える。
ヴェラとは斜めに十メートルほど。見える。まだ、互いに届く。
主級個体の背の結晶が、音を立てた。
「棘が来る。右下、張り出しの陰が残る!」
カイが叫んだ。
ヴェラは一度、脚を止めた。
赤い拍が通る。彼女の膝が揺れた。崩れきる前に槍を床へ立て、その支えで次の一歩を選んだ。
右へ低く入る。
黒い棘が床へ突き刺さり、何本かは張り出しの縁に砕けた。ヴェラの頬へ破片が当たったが、槍を持つ腕は残った。
「カイ。お前の足場、右端が剥がれる」
カイは靴を引いた。
剥がれた金具が落ち、足場が片側へ傾く。彼は柱へ腕を回し、身体を残した。
下を見る余裕はない。自分が離せば、落ちる。
「左の取手まで、腕一本だ」
ヴェラの声がした。
カイは左手を伸ばした。指先が遮断桿へ触れる。握れた。
だが、動かない。
赤い封止金具が、根元へ噛んでいた。
『ここを切れば、戻せない』
アルディスはカイを見ていた。目の下に血が流れ、口元が小さく震える。
『君も見ただろう。私の兵が、防衛線を立て直した』
「見た」
カイは工具を抜いた。
「命令が届かなくなって、丘に残った奴らも見た」
封止金具の溝へ鉄棒を当てる。押し込む方向は、保守図にあった。
「あんたが助けたことを、なかったことにはしない。だが今、こいつの足を止めてるのは、あんただ」
中枢の光が強くなった。
ヴェラの槍先が下がった。歯を食いしばり、彼女が床へ膝をつく。
拍の間が短くなっている。
カイは鉄棒を押した。金具が半分抜け、そこで止まった。
下では、主級個体の胸が再び腕の陰へ隠れようとしていた。
今を逃せば、道を作り直す余力はない。
カイの耳に、雨音が戻った。
右5。全開。行け。
あの声を、もう一度叫べば済む。彼女はどれほど傷んでいても、走ろうとしてくれる。
それが分かるから、言わなかった。
「ヴェラ。核は正面。上の爪が戻るまで、短い」
彼女が顔を上げる。
「どれくらい」
「二秒ほど。……正確には読めない」
読めない所を、そのまま渡した。
ヴェラは核を見た。カイには見えない、爪の下側も見ていた。
「届く。私が決める」
彼女は左足を半歩引いた。
「カイ。金具の下、まだ一本残ってる。お前の工具のすぐ右だ」
そこだった。
カイは鉄棒を掛け直した。ヴェラが動くのを待って力を入れるのではない。自分の手が使える角度を探し、体重を預ける。
金具が外れた。
遮断桿が途中まで回った。
「こちらは動く。最後まで倒す」
「私は入る」
互いの声が、同じ空間を通った。
ヴェラが跳んだ。
カイの言葉の終わりから、一拍ずらして。赤い光は彼女が立っていた場所へ打ちつけられた。
槍の穂先が、露出した核へ伸びる。
主級個体の爪が戻り始めた。
カイは遮断桿に両腕をかけた。ヴェラを追うように、中枢の光が膨らむ。次の拍が来る。
残った足場を蹴り、把手へ全体重を乗せた。
硬い音が一つした。
接続線の留め具が開き、アルディスの座席から太い線が外れた。
膨らみかけた赤い光が消えた。
ヴェラが選んだ踏み込みへ、次の拍は割り込んでこない。
槍が核を貫いた。彼女は左手を柄へ添え、折り返す爪の下を抜けながら、穂先を深く押し込んだ。
核が割れた。
胸の奥へ走った光が、黒晶の装甲を内側から砕いていく。
カイは桿の根元へ落ちた。脇腹を打ち、息が出なくなる。
頭上から、槍の折れる音がした。
最初に聞こえたのは、通信器の雑音だった。
塔とは別に、リオから借りた小さな器具が、カイの帯で鳴っている。
『中継停止後、東の第二隊、維持。南の通路、負傷者を後送中』
カイは震える手で取り出した。
『右の尾根、二隊が合流。予定より狭い、後続は水路へ――』
完璧な声ではなかった。言い直しも、怒鳴り返す声も混じっていた。
それでも、次の声が来た。
アルディスは座席から滑り落ち、その声を聞いていた。
「……まだ、動いているのか」
「迷いながら、確かめてる」
カイは答えた。
アルディスが何を思ったのかは、分からなかった。彼は中継を戻せとも、逃げろとも言わず、器具から次の報告が来るのを待った。
上で柱が折れた。
ヴェラが、半ばから折れた槍を手に降りてきた。カイを起こそうとして、自分も片膝をつく。
「右に、保守用の凹み」
カイは声を絞った。
「図面にあった。支柱の根元。全部が落ちなければ……」
ヴェラが振り向く。狭い入口が、まだ残っていた。
「見えた」
カイは腹ばいになり、凹みの縁へ肘をかけた。足を押しつけるたび、打った脇腹が痛む。
ヴェラはアルディスの襟を右手でつかんだ。左腕は脇へ寄せたまま、膝を使って後ろへ這う。
「そいつも?」
「手が届く」
カイは入口へ半身を入れ、右手を伸ばした。アルディスの上着をつかみ、ヴェラが膝を引くのに合わせて引いた。少しずつ、三人とも凹みへ身体を押し込んだ。
凹みへ入った直後、入口の前を巨獣の装甲が落ちた。
最後の光が塞がれる。
暗闇の中で、ヴェラの手がカイの袖を探し当てた。
「ここにいる」
カイは、その手を一度握り返した。




