第43話 相互コール
「右――」
カイは続きを飲み込んだ。
ヴェラの足首が、言いかけた声に合わせて震えた。中枢の赤い光が、その半拍後に強まる。
アルディスは、動作を始めるはずの間を狙っている。
声を聞かないだけでは済まない。声がなくても、塔は保存した彼女の癖を使って拍を送っていた。今はそこへカイの読み方まで重ね、外さないようにしているのだ。
「ヴェラ。手信号に変える」
カイは右を指した。
ヴェラが踏み出しかけ、止まった。
「それでも、同じ間になる」
彼女が短く言った。耳を塞いでも、拍は足に来る。声だけを避けるやり方では切り抜けられない。
カイは手すりへ身を伏せた。見るものを二つに絞る。彼女の足と、中枢の光。
拍の合間に、ヴェラは槍を返せていた。左足を引きずるように動かすこともできる。ずっと動けないわけではない。
「その拍、鳴り続けてはいないな」
「強く来る時と、抜ける時がある」
近衛魔獣が前へ出た。ヴェラは一歩だけ退き、柱を間に置いた。カイの声を待たずに。
その一歩は、止まらなかった。
右の床が見える。敵の脚が三秒ほどでそこを抜ける。
カイはいつもの息を吸いかけ、浅く吐き直した。彼女が自分で選んだ進路も、いつもの踏み出し方なら読まれる。空く場所だけを、先に渡す。
「右は三秒で開く。左の壁は崩れる」
行動の指示を、足さない。
床が開くまで三秒。その前に動くか、待つか。カイは彼女の足を見た。
ヴェラは待った。
赤い光が強まる。いつもなら走り始める拍が、柱の向こうを通り過ぎた。
彼女はまだ待った。
カイの喉が詰まる。遅い、と叫びそうになる。だが、下の彼女は右足を少しだけ後ろへ置いていた。長く跳ぶ準備ではなく、短い一歩から加速する構えだ。
ヴェラが動いた。
短く、もう一歩。床が開いた時には、その端へ着いていた。アルディスが追って強めた拍は、彼女が踏み切った後だった。
槍が、近衛魔獣の脚の内側へ入った。
倒れる獣を、ヴェラは柱へ寄せる。次の敵の道を狭めた。
「通れた」
声が上がった。
カイは頷いた。力が増したのではない。彼女が見ている足元の情報を、自分の声で押し潰さずに済んだ。
『次も、通れると思うか』
アルディスの拍が速まった。
ヴェラの肩が揺れる。干渉は消えていない。間を詰められれば、いずれ捕まる。
避け続けて終われる相手ではない。今できた隙で、遮断桿への道を開ける。
「カイ、上。石が外れかけてる」
彼女が言った。
カイは上を見ようとした。首を反らした瞬間、眩暈が来る。
「大きさは」
「お前より大きい。左の梁は、壁に残ってる」
その梁なら見える。
カイは手すりを離れ、左へ身体を預けた。飛ぶより先に手を伸ばし、残った金具をつかむ。足が梁へ乗った直後、元の踊り場が石に潰された。
下から見えた危険だった。
「助かった。お前の後ろ、低い爪が来る」
「見えた」
ヴェラは振り向かず、槍の石突きを低く返した。
彼女からはカイの頭上が見える。カイからは、彼女の背後を回る脚と中枢の防盾が見える。相手の姿勢は柵越しに確かめながら、それぞれ自分では追えない部分を渡す。
互いが見えなくなった時は、声で位置を言った。
「柱の裏、二歩」
「俺は梁の西端。そこから見える」
ヴェラが柱を抜ける。同期が戻る。
その間にカイは新しい攻撃線を作らなかった。待てない場所なら、その道は使わない。
主級個体が、地下へ落ち込んだ前脚を持ち上げた。
床に食い込んでいた爪が外れる。巨体の胸が下がり、黒晶の装甲同士が擦れた。
カイはその継ぎ目を見た。
「胸の中央、白い傷。さっき梁が当たった所だ」
「下から見える。だが、今は槍が浅い」
ヴェラが答える。
カイは主級個体の肩へ視線を移した。前脚をついて姿勢を戻す時、胸が開く。だがそれは、彼女のいる床へ体重が落ちる時でもあった。
「次に脚をつくと、胸の傷が開く。床も沈む」
「一度だけ使う」
ヴェラは中枢へ近づく代わりに、巨獣の脚へ寄った。
赤い光が強まる。彼女は槍を横へ引き、踏み出すはずの拍をやり過ごす。
脚が落ちた。
床石が跳ねる。ヴェラはその跳ねた石を足場にはせず、壁に残った低い梁を蹴った。カイが示した傷へ、自分で選んだ角度から穂先を差し込む。
黒晶が軋んだ。
槍だけで装甲を砕いたのではなかった。巨獣自身が、沈む床から身体を引き上げた。胸の割れ目に残る槍へ力がかかり、亀裂が横へ走る。
「離れる!」
ヴェラは柄をねじって引き抜き、床へ降りた。
胸の装甲が一枚、剥がれ落ちた。
その奥に、脈動する赤黒い核があった。
苦悶の咆哮とともに、主級個体の前脚が中央の防盾を叩いた。
防盾が座席から外れる。アルディスの身体が、初めて剥き出しになった。
彼の脇の床は、全部抜けたわけではない。点検用の床板だけが潰れ、下にあった遮断桿の取手が現れた。座席の接続線を外す、図面にあった桿だ。
カイは梁から見下ろした。
自分の足元には、遮断桿へ続く保守柱。ヴェラの前には、胸の核。
主級個体が姿勢を立て直せば、核は腕の陰へ隠れる。防盾の残りも、ゆっくり閉じ始めていた。
「ヴェラ。俺からは、桿までの最後の足場が見えない」
「私には見える。核の上は、お前が見てくれ」
カイは手帳を閉じ、帯へ挟んだ。
両手を使う道が、残っていた。




