第40話 声が届いても動けない
ズドォォォォンッ!!
天井が弾け飛び、凄まじい質量の岩盤が地下通路へと崩れ落ちてきた。
旧都の直上へ到達した大黒潮の『主級個体』が、統律塔を破壊せんと、その巨大な前足で地上から地盤を粉砕し始めたのだ。
カイとヴェラは、激しい土埃と崩落の嵐の中を、塔の中枢エリアへ向かって駆け抜けていた。
「右の柱が折れる! 左壁へ二歩!」
カイの網膜に、崩落する瓦礫の落下線が浮かび上がる。間髪入れずに圧縮された事実をコールする。
ヴェラはその言葉を聞き、即座に左の壁へと跳躍しようとした。
だが。
「……ッ!」
ヴェラの踏み切る膝が、不自然にガクンと強張った。
跳躍の初動。筋肉がまさに収縮しようとしたそのコンマ数秒の瞬間に、目に見えない何かが彼女の運動神経にブレーキをかけたかのように、動きが『半拍』だけ遅れたのだ。
ガリッ!
避けたはずの瓦礫の破片がヴェラの肩を掠め、灰色の外套を裂いて鮮血を散らした。
「ヴェラ!」
カイが叫ぶ。ヴェラは着地と同時に体勢を立て直したが、その顔には苦痛よりも深い戸惑いが浮かんでいた。
「……すまん。カイの声は、聞こえていた。指示の意図も完璧に分かっていた。だが……」
ヴェラは、自らの震える右手を握りしめ、憎々しげに睨みつけた。
「足が、勝手に違うタイミングで踏み込もうとした」
カイは、周囲で断続的に崩落が続く中、頭痛に軋む脳をフル回転させた。
アルディスが中枢に直結してから、ずっと地下に響き続けている同期テンポのうねり。それは今、全軍の動きを統制するため、絶え間なく波形を発信し続けている。
その塔が、基準クロックとして参照している波形の持ち主。それが、ヴェラだ。
カイは戦慄と共に、今起きている現象の正体を理解した。
ヴェラは城壁の下で「帰投」を拒んだ。今も、自分で進む方向を決めている。だが踏み出す瞬間だけ、足が塔の拍を拾う。
あの時は、聞き慣れた号令に身体が従おうとした。今はアルディスが直結し、言葉を伴わない拍までが、彼女の動き出す瞬間へ割り込んでくる。
考えを変えさせられなくても、一歩を遅らせることはできる。迫る瓦礫には、それで十分だった。
「クソッ……そういうことかよ!」
カイが悪態をついた直後、前方から巨大な影が飛び出してきた。
崩落から逃れようと地下深くから這い出してきた魔獣、岩喰い虫の変異体だ。分厚い甲殻を持ち、暗闇を這うような速度で二人に迫る。
「前、三秒! 潜り込んで関節を突け!」
カイは十五メートル圏内を維持しながら、瞬時にラインを読んでコールした。
一、二。
ヴェラが踏み込もうとする。しかし、再び彼女の足元がほんのわずかに狂う。
三。
突くべきタイミングから半拍ズレた槍は、魔獣の分厚い甲殻に弾かれ、浅い傷をつけるに留まった。
反撃の巨大な顎が迫り、ヴェラは強引に身体を捻って回避したが、足場の悪さも手伝って地面を転がった。
「ハァッ……ハァッ……」
立ち上がったヴェラは、思い通りに動かない自らの肉体に苛立ち、唇を噛み破っていた。
声が届いているのに、動けない。
城壁の上で、カイは「俺の言う通りに動け」と叫んだ。ヴェラは跳び、その後で足を止めて、命令かと聞いた。
今も、もっと強く言えばという声が喉にかかる。カイはゆっくり息を吐いた。強さを足しても、割り込む拍は消えない。
手帳の時間指定を線で消し、ヴェラの足を見た。
ヴェラの意思は折れていない。問題は、アルディスが送り込んでくる『偽の拍』そのものだ。
ならば、その拍の発振源を物理的に叩き潰すしかない。
「ヴェラ、無理に俺のコールに合わせようとするな! ノイズの合間を縫って、自分の一番動きやすいタイミングで防戦しろ!」
「……了解した!」
カイはナビゲーションの精度をあえて緩め、彼女自身の自律的な防御に委ねながら、崩壊する通路の奥へと進んだ。
やがて、二人の目の前にあった分厚い隔壁が、主級個体が引き起こした地盤の歪みによってひしゃげ、強引に開かれた。
二人はついに、旧都の最深部――統律塔の中枢エリアへと辿り着いた。
そこは、塔の内部を貫くような、巨大で縦長の吹き抜け空間だった。
だが、その全貌は、すでに地獄絵図と化していた。
「おいおい……嘘だろ」
カイは上空を見上げ、絶句した。
はるか頭上の天井は完全に吹き飛び、黒々とした夜空が広がっている。そして、その穴の縁から、主級個体の山のような巨大な顔と、城壁ほどもある前足が、中枢を破壊しようと覗き込んでいたのだ。
主級個体の攻撃によって崩落した土砂と共に、地上から無数の魔獣が下層の戦闘床へと雪崩れ落ちてきている。
その戦闘床の中央。
赤黒い光を放つ巨大な機械仕掛けのコア――アルディスが自らの脳神経を接続し、巨大な指揮脳となっている『中枢コア』が鎮座していた。
アルディスの周囲には、統律塔の防衛機構である自動防盾や、残存していた少数の旧兵近衛隊が、機械のように正確な動きで魔獣を排除し続けている。
「カイ。あの中枢を破壊すればいいんだな」
ヴェラが槍を構え、全身の筋肉を震わせながら問う。塔のノイズの発生源を前にして、彼女の身体への干渉は最大に達していた。
「いや、待て」
カイは手帳を開き、技師から写した保守図に、通信陣地でリオから受け取った通信図を重ねた。
アルディスを殺さずに切れる経路が、図面に残っている。カイはその印を探した。
カイの目が、構造図の一点に釘付けになった。
(……機械路の切断ポイントは、下層の戦闘床にはない)
カイは縦長の中枢空間を見上げた。
戦闘床からおよそ十メートル上方。空間の壁面をぐるりと這うように設置された、狭く入り組んだキャットウォーク。それは、魔獣との戦闘が行われる下層とは完全に分離された、非戦闘員の技師のみが立ち入る『上層の保守軸路』だった。
三本とも、あの軸路に手動の断路器がある。カイは図の線を指でたどった。
「三本切れば、外の兵への拍は止まる。だが、ここの拍は残る」
指を中枢の座席脇へ移す。
「アルディスとの直結を外す遮断桿は、ここだ。外を切ってから、これを倒す」
座席への道は、巨獣と防盾に塞がれていた。
そこへ行けるのは誰か。
下層で魔獣の群れと近衛隊、そして主級個体の一部を抑え込むには、どう考えてもヴェラの圧倒的な純戦闘力が必要だ。ノイズに干渉されている今の彼女が上層の細い足場に登れば、確実に足を踏み外して落下する。
ならば。
「機械路を切る間、ここを持たせられるか。今の足で、無理なら別の道を探す」
カイは手帳を腰にしまい、彼女の返事を待った。
「長くは無理だ。主級の脚は避ける。小さい奴だけ止める」
ヴェラが答えた。カイは頷き、階段へ移った。
「俺があの上層へ行って、塔の機械路を切断する!」
「カイ!? お前一人でか! 武器も持たずに!」
ヴェラが驚愕の声を上げる。カイの戦闘能力は皆無だ。もし上層に一匹でも魔獣が入り込めば、彼は抵抗すらできずに死ぬ。
だが、カイは階段に足を掛け、振り向かずに笑った。
「俺はコドライバーだぞ。……道を読むことなら、誰にも負けねえ」
カイは階段の途中で一度振り返った。ヴェラの姿が鉄柵越しに見える。ここから先は、彼女の足元と自分の足元を交互に確かめなければならなかった。




